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ひだり前(後編)
目覚めると朝でした。
すこしづつ記憶がよみがえって、
「そうだった、犬猿キジだった。桃太郎のキャラクターたちと飲んでいるうち眠ってしまったのだ。ということはここは鬼が島か?」
起き上がろうとして「ゴンッ」と何かに額をぶつけました。
さらに記憶がもどって、この部屋でぶつける物といったらちゃぶ台くらいしかないと思います。そりゃー痛いわな。
「痛てて」
いつも通りに額に手をやるのですがそんなに痛いわけではないのです、儀礼上「痛てて」と言ってみた。
手が何かを探り当てました、大きなコブが出来たようです。
反対側の額に手を当てるとそこにも大きなコブ、眠っている間に何度もちゃぶ台にぶつけたらしい。
でも痛くはないのだから大丈夫でしょう。
「おおーい 起きたか、ずいぶん長いこと眠っとったのう。タケノコの味噌汁がもうじき出来るで朝飯にしよう、おまん顔でも洗えや」
2LDKのKの方からご坊の声がして味噌汁鍋の湯気の香りがいたします。
洗面所へ行くには暖簾をくぐります、暖簾が下がっていたなんて昨日は気がつきませんでした。
頭をひっこめて通ったときコブが暖簾に触れて「シュッ」と鋭い音がしました。
「んー? 布が裂けている」
ご坊が何か引っかけて破いたのだと思いました。
狭い洗面所ですがなんと水洗で鏡もあります、思いによらず近代的な暮らしをしておりますなあ ご坊。
これが水源地から太い竹のパイプで引いた水道ですかな、でもあのお話はご坊が七歳で修行に上がったお寺の庫裏を改修したときの話ではなかったっけ?
昨日の酒が残ったのか考えの速度がゆっくりです、ハイパーリンクがオンにならないみたい。酒屋のデブがよこした酒は妖し酒でしたからねえ。
まあいいでしょう、家には夕方までに帰ればよい。
軽トラに弁当と酒を積んで家を出たのだから泊まりになるのはおっかーも承知のはず、心配などするお政所の方様ではないのでございますよ。
鏡には額に二本の角が生えた赤鬼が映っております、二日酔いのような真っ赤な顔です。
振り返っても誰もいません。
はーん きのうの続きをまだやっている、無邪気な桃太郎たちだなあ。
「ご坊さまー 赤鬼がいますよー、今日は節分の豆まきですかねえ?」
鏡に赤鬼やスパイダーマンのフィルムを貼りつけて、前に立った人をビックリさせようという悪戯は自分も子供の頃にやったものです。
「よく出来たフィルムだ、近頃ではパソコンでオリジナルが作れるんだな」
こういう悪戯は無下に剥がしたりしては大人気ない、騙されたふりをするのがエチケットでございます。
「おーい 今は初夏やぞ、節分は二月じゃ。それよりおまん、赤鬼似合うてるのう。ついに本性を現わしたっちゅうわけやなあー」
「夏ですかあー? タケノコは春でしょうや。
旧暦節分祭をやろうってんでがしょ、まったく酒飲みはなにかにつけお祭りをでっち上げていかんですなー」
ご坊のでほらくを見破ったぞ、リンクが繋がってきたらしい。
水道から水を出して顔を洗います、冷たくって気持ちがいい。
でも額のあたりが洗いにくい、コブは相当大きくなっているみたいです。
そーっとフィルムをめくって鏡に映してみます。でもめくれない。
鏡には、めくろうとして焦っている赤鬼が映っています。
コブに触ってみます。角を触っている赤鬼が映っています。
「ひえええぇー ご坊ぉ〜」
「うるさいヤツやなあ、まだ酔っとるんかー。
節分とは元々旧暦の月の軌道を基礎に計算されたお釈迦様の行動計画じゃ、旧盆といっしょにすなー。
旧盆や月遅れお盆とはな、八月の終戦記念日に連動させて連休をつくり帰省するサラリーマンにしっかりと故郷の仏壇に手を合わせて貰おうという日本独自の事情じゃ。
本来仏教のお盆は七月じゃ憶えとけ。早よう座って朝飯にいたせー」
額の角は引っ張っても取れません、引っ張ると痛いから額から生えているのに間違いないのです。
角の先端は鋭くて下手にさわると手が切れそうです、くぐっただけで暖簾が切れたのですからこれは危ない。
家に帰ったときおっかーに抱きつかれたら怪我をさせてしまう、これはいけません。
自転車修理のときの帽子だってうまく被れないじゃーありませんか。
「ご坊、悪いいたずらはやめて下さいまし、これでは下界に降りられませぬー」
「ワシやないでー 犬猿キジさんがやったんや。
今朝早くに猿さんとこのお婆あーが真竹と曲がり茸のタケノコを届けてきての、それを潮にみな帰ったんじゃが、
見事なタケノコやからこれで自転車屋さんを鬼にして遊ぼうちゅての、寝ているおまんに3Mの接着剤でくっつけて行ったんじゃ。固まったころにまた来る言うとったで。
3Mや、もう取れへん諦めや。
ワシの手えーを見てみろ、元は木じゃったが3Mでつけたら今は手えーじゃ。ノミも持てる」
驚いて鏡を見ると真竹タケノコが鬼皮つきのまま額に生えています。
朝取りのタケノコは取ったあとも成長します、鬼皮を押しのけて中の竹の子が伸び始めています。先端はピンピンに硬そう。
「赤鬼どん、よう似合うでその角。小学生のチンチンみたいやなあ」
「ご坊〜 なんで真竹にしたんです。わたしー 曲がり茸のほうがよかったあー」
「そんなこと知らんよ、真竹のほうが着けやすかっただけだろう、さあ飯しや飯しや」
「わたしー 食欲ないー」
「あほー 山は体力勝負や食わなあかん。里の孟宗竹は春やが山では真竹と曲がり茸じゃ、これらの竹は夏にタケノコが出る。旬のものを旬にいただく、山の暮らしはいいぞー」
「びえ〜 グスン グスン おっかー、おらは山で鬼暮らしになるだで、もう帰れない。達者で暮らせよー」
「おまん、山で暮らすんけ? ならば鬼小屋を作らねばならんが自転車屋はどーするんじゃ。おっかーとは別れるんけ」
「仕方ございません。わたしが角をつけて帰ったら、「やーい赤鬼のかかあー」 とおっかーがいじめられます。
きっと酒屋のデブと意地悪かかあは商売物の塩を一袋もうちのお店に向かって撒くでしょう。
そんな可哀そうな思いをおっかーにさせるくらいなら、わたくしは わたくしは 山で吊り橋から落ちて死んだと伝えてくださりませ。うっうっうっ」
「えらいぞー ご亭主、んじゃーな こーしよう。おっかーを山に呼んで犬猿キジに曲がり茸をくっつけて貰え、そーして赤鬼青鬼で仲よう暮らせや」
「なっ なにを言われますかご坊! おっかーを山に呼ぶなんてとんでもないことでございます。
わざわざ山の神を呼ぶなんてあーた、空恐ろしいことをよう言いまんなあ … 呼ぶなら女優さんのほうがよい」
「あっちゃー」
「あのなご亭主、あの女優 名前は吉永百合絵というんじゃが、呼べんこともないぞ」
「へっ?」
「ほれ、このあいだ彼女と土手のサイクルロードで出おうて、パンクした自転車をワシが担ぎーの彼女がワシの自転車を押しーのして歩いた話をしたろや」
「へえ 憶えてます、そこにあるキャノンデールでございますね」
「「土手道をワシら二人は歩きながら、「こんなシーンを前に一度やっているねえ」 という記憶がよみがえっての。お互いの顔をよっく見たら思い出したんじゃよ」
「なにをでございますか?」
「都県境あたり荒川放水路の土手道、自転車押して歩く若いふたり、川の向こうにお化け煙突が見える風景」
「分ったー、それ 日活映画でんな、キューポラの見える街 でっしゃろ!」
「うむ 若い女は吉永百合絵、若い男のほうはワシじゃ」
「びえーっ!?」
「その日のロケに男優の浜田某が腹痛を起こして出られんようなって困っておった。そこにたまたまワシがコルナゴに乗って通りかかったんよ」
「ご坊 ご坊、あとは言わんと分かりまっせ。 ローマの休日 のときとそっくり同じでんな。
急な腹痛のグレゴリー・ペックの代役で、ヘプバーンのアン王女さまとトレビの泉シーンを撮ったんですよね。
なんでいつも都合よく腹痛なのか分らんけど…ご坊が近くにいたら正露丸飲んどかんといかんな…こんどは浜田某の代役、二枚目専門ですなあ」
「うむ ワシもまだ若かった」
「ローマからコルナゴを持って神戸に着いたあとだから30歳ちょい過ぎ、そらー若いわ」
「うむ ワシら三十年ぶりの再会やった、お互い歳をとったのうちゅうてその夜は酒を汲み交わして笑いあったんじゃ」
「はいはい、そこへ無粋な酒屋のデブが…」
「彼女は引退後の静かな田舎暮らしが望みでな、山に来るかも知れんぞ。それに元女優じゃから青鬼の役ぐらい平気じゃろう」
「びえーっ」
「ほーい 来たどー、赤鬼は朝飯すんだけー。杉玉鉄砲で撃ってやるからそれに直れーっ!」
犬猿キジの悪童三匹トリオがやって参りました。
こいつら、ご坊のお共してアジア大陸から欧州を旅して以来30年以上経っているのに、矢鱈と元気な悪ガキのままなのです。寿命はどうなっているのでしょう。
ともかく額の角を外してもらわなければなりませんから一緒に遊んでやることにしました。
篠竹でつくった空気鉄砲の玉は杉の実、小さいけれど当たればけっこうな痛さ。赤鬼さんはトゲトゲのついたタラの木の鉄棒を振り回して応戦しますがすぐに降参。
「やられたぁー。
拙者は伝統の鉄棒を古式にのっとり振り回しておるのに対し、貴殿らは近代兵器の飛び道具三連発とはジュネーブ条約違反の卑怯なりー。
卑怯を恥じて詫びるなら、ただちにこの角を外せぇーっ! 拙者には家に帰っておっかーを守る天命がござるのじゃあー」
この作戦は功を奏しました。ガキどもには正義感に訴えるのが一番効果的なのでございます。
わたしの自転車店ではこの手を応用して、子供車コーナーの小物用品万引き防止に成功しております。
子供騙しは嫌でございますが、わたしが帰らなかったらおっかーは明日から…明日から… いや今日も、毎日昼カラオケですわなあ。
悪童トリオは三匹でなにやら相談しておりましたが、奥でノミを研いでいるご坊に何かささやいております。
まさかあの左甚五郎でわたしの頭皮ごとえぐり取ろうというのではありますまいな。
連れて行かれたのは洞窟庵の奥まった一角、四隅に笹竹を立てて荒縄を引いた魔方陣が用意されておりました。
「びえええ〜 あそこで雷神パワーを集め、集中プラズマ波で角を焼き切るつもりだぁー。メコン・デルタのナンジャモンジャの再来だー。
ご坊は年を取って手が震えるだろうから念の集中スポットが狂うに違いない。角と一緒におらまでかつお節に焼かれてしまうだぁー」
「ご亭主、これしか方法はない。晴れ晴れと山を下りるか残りの人生を赤鬼で生きるか、ふたつにひとつじゃ覚悟をいたせ。
二度と使わんと誓った魔方陣。仏への誓いを破るのも大事な友人としてのそこもとの人生を守るため。
のうご亭主、ワシも命を賭けておる」
ご坊いつになく真剣。
白装束にたすきを掛けて額に日の丸の鉢巻、その鉢巻に先程研いでいた甚五郎のノミが突き立ててあります。まるで悪霊退散のえせ祈祷師のようです、あんた仏僧やないけ!
こういう展開を期待して研いでいたのでしょうか。
もはや覚悟を決めるしかありません。
ご坊が命懸けだという魔方陣、わたしのために禁じ手の掟を破ってまで、やるとおっしゃるからにはもはや躊躇なし。やってもらいやしょう。
揺れる蔦の吊り橋の前で足をすくませていたときのわたしじゃーありません。
痩せても枯れても日本男児、みごと魔方陣にー (チョン) いやさー 入えって見せやーしょーっ。
(筆者注: チョン=歌舞伎の合いの手、拍子木の音)
縄張りの中央、岩の壁に向かって正座して手を合わせると、星のささやきが聞こえるような静寂であります。
照明灯はすでに消され、笹竹の葉がさらさらと音を立てたのは背後からご坊が近づいたからでございましょう。暗闇でも、うしろに目などなくとも分ります。
一生懸命に念じるわたくしは、少しは仏様のお側に寄れたのでございましょうか。
ご坊の眉間の甚五郎、ぎらーり 妖しく光ります。
その光が雷光を呼んだのか暗闇がストロボのように明滅し、雷鳴が轟くと一陣の風が吹き抜けて笹の葉が大きく騒ぎました。
突然ご坊の大音声が洞窟内にこだまして、雷鳴が轟き渡ったのでございます。
「来るかー 魔方陣、来たれやー法力 去れやー魔法めー」
同時にわたしの頭と額には なま〜ぬる〜い なめくじが何百も取り憑いて這いまわるのを覚えました。 ひえええ〜。
恐れてはならぬ、ここで声など出してはならぬ、念じるのじゃ 念じるのじゃ 魔法よ去れ 角や消えよーっ!
「ぼとり」
音がして膝の前に落ちたのは二本の角でした。
妖風が止んで雷鳴と雷光が去り、次第に明かりが周りに戻ってまいりました。
石の上に落ちた角はみるみる姿を変えて、ただのタケノコになってゆきます。
恐る恐る額に手をやると元の頭皮に触れ、えぐれた様子などありません。
「よかったー、元に戻れた」
そうだ! ご坊、ご坊さまは大丈夫だろうか、まさか命と引き換えに…
「ご坊さまあー」
「ご亭主、大事ないか」
ご坊の声がします、すぐ近くです。
「ご坊さま〜 ありがとうございます。おかげさまで おかげさまでございますー、これでおっかーの許に帰れますぅ〜 うっうっうっ」
「おまん 女優はもうええのんけ?」
「ひええ〜 それを言うまいなー」
ご坊、手に何か持っています、甚五郎ではありません。チューブに入ったケミカル剤のようです。こーゆーモノは魔方陣の洞窟に似合わない、わたしのお店の棚にもありそう。
「そっ それは?」
「ふむ セメント・リムーバーじゃ。あっという間に3Mを溶かしよった。おまん おっかーに感謝いたせよ」
「へっ?」
「種明かしをするで、あっちで猿酒など飲もうぞ。なあみんな」
「オーッ!」
犬猿キジが歓声をあげました。
蛇口からは熱いお湯も出ます。たまげましたなー、お湯は温泉の硫黄の匂いがいたします。
顔を洗いながら鏡を見ました。額はきれいになっていて少し赤くなっているところが角の生えていた痕跡。温泉で洗ったから間もなく消えるでしょう。
ちゃぶ台に戻ると宴の用意ができていて壺に入ったのが猿酒。
タケノコの煮たのが皿に盛りつけてあって、猿さんのお婆あーの作らしい。
ちゃぶ台の上には先ほどのセメント・リムーバーとビデオカメラも置いてあって、こちらはなんとも違和感。たった一日で山の雰囲気に馴染んでおるのでございます。
「さてさて皆さん、どーゆーことでございましょうか?」
わたしは角が取れた晴れ晴れしさと、先ほどまでの騒動の間に二日酔いが取れて二重の晴れ晴れしさでございます。
猿酒は酒屋のデブにもらって来た酒よりよほど美味しく、曲がり茸の煮つけはこれまた美味しい。
頃合いを見て、犬さんが「どっきりカメラ」のプレートをくわえて来て「よーいワン」と言いました。
「へっ! どっきりカメラ?」
猿さんがビデオカメラを操作してパソコン画面に「魔方陣の奇跡」という動画を写しました。
洞窟内の妖しい儀式を映したものです。レンタル屋で借りたホラーなやつだと見ていたら、なんと先ほどのわたしらの様子が映っています。
「ほええー?」
暗闇のなか震えているわたしの背後に迫るご坊。うしろに廻した手に、汗びっしょりで駆け込んで来たキジさんがチューブを渡しています。
暗視カメラというハイテクな機器でないとキジさんの汗までは映らない、カメラマンは手練れの者と思われますな。
雷鳴の鳴り響くなか、わたしの頭上にチューブの中味が「たらーり たらーり」と注がれます。
恐怖に耐えながら懸命に祈るわたしの姿が真横からクローズアップになりました。
ご坊が叫び、雷光雷鳴がクライマックスになって、「ぼたり」 タケノコ角が膝の前に落ちました。
がっくりと呆けるわたし、ニタ〜リとするご坊、大喝采のキジさん、投光器やオーディオを操作する犬さん … やっぱりここは鬼が島だあー。。
「そう怒るなご亭主、あの行程を経なければ角は落ちんかったのよ」
「そうでございましょうか、ぷんぷん あのセメント・リムーバーなら当店にもございます。ぷん」
「すまぬ、ワシはクリンチャー・タイヤ派だからチューブラー・タイヤをリムと接着するセメントのことは知らんだった。
ましてやそれを剥がすリムーバーの存在など毛ほども知らんかったんじゃ。
犬猿キジと相談しての、おまんをおっかーの許へ何とかして帰してやろうと考えた。それには角を取らねばならんてな。
そこで3Mを取り扱こうておる信州の団塊屋さんにメールしたんじゃ。
<bigJohn bigJohn こちら whitewolf 3Mを溶かす妙薬があったら教え乞う>てな。
メールいうても、ここには光回線は来とらんからワシが手紙を書いて、それをキジさんが口にくわえておまんの店まで飛んだんじゃ。
ほんで、おまんのおっかーが団塊屋さんにメールしたんよ。
ほしたら返事があって、
<ご希望のモノ基本的にはありません。されど緊急のご様子なれば信州大学農化学部に3Mを持って参じ、あの高名なる永田博士にご教授賜りましたるところ、
接着効果が確定するまでに根元の土壌に施せば効くかもしれない。ご紹介を賜りましたる商品名をお知らせいたします>
と長い前置きのあとにな、
<Vittoria社のcement remover>
と書いてあったんじゃ。注書きもあってな、
<Vittoria社=イタリア・ミラノ所在>とあった。
さらに注書きには、
<接着効果確定には24時間>…<太陽光を浴びて定着うんぬん>…<それ以降は核ミサイルをもってしても … 頑強そのもの … >
これ以上は3M代理店、団塊屋の宣伝じゃから省略じゃー。 くそ忙しいちゅーのに。
キジさんはおまんのおっかーに頼んだんじゃ、隣の饅頭屋でキビ団子をひと包み買って風呂敷で首っ玉に結わえて欲しいってな。
キジさんはのう、虹色に輝く大羽根一丁で欧州ミラノまで飛ぶ決死の覚悟をしたんじゃよ。
キジは長い距離を飛べるタイプの鳥ではないが、イタリアなら昔行ったことがあるけんキビ団子さえあれば飛んでみせる。
24時間以内にミラノ往復をしてcement removerなるものを運び、おまんを助けようとしたんじゃ。
それがどれ程の大きさか、どれ程の重さか団塊屋に聞いている暇はない。あそこは前置きが長いけんのう。
今すぐ飛ばねば3Mは硬化を続けて確定期に入ってしまう。犬猿やワシに別れを告げる時間などはない。
たとえ尾羽打ち枯らそうとも日本一のキジ太郎、命に代えてもcement removerは必ず山に運ぶ。
なぜだと思う、犬猿キジはな桃太郎のコスプレごっこが大好きじゃ、必須キャストである赤鬼のキャラクターにぴったりのおまんを本当は帰しとうないんじゃ。
杉玉鉄砲を卑怯と言われたからじゃない。「おっかーを守るために帰る」 と言ったおまんへの友情のため角を取ろうとしたんじゃ。
うっうっうっ ここは泣くところじゃ、おまんも泣け」
「ひええええー キジさん〜 うっうっうっ」
「ほんでな、一緒に返メールを読んだおっかーが、
<Vittoria社とは自転車タイヤのヴットリアか?>と再送したんじゃ。
ほしたら直ぐに返事があって、
<Vittoria社はツールタイヤ、オリンピックタイヤ等自転車タイヤ関連の総合メーカーであり、商社としての団塊屋は御社及びVittoria社とのお取引をこの機会に是非とも構築し…> 以下略じゃー。
ご亭主、おまんのおっかーはアタマのええオナゴやのう、事情はともかく bigJohn&whitewolf が如何なる意味か分かっておる。スパイ映画が好きやろ。
ただちに棚のヴィットリア・セメント・リムーバーを小風呂敷に包んでキジさんの首っ玉に結び、きびすを返すと隣の饅頭屋へ駈け込んで物も言わずにキビ団子を一串かっさらいキジさんの口に押し込ん
だんじゃ。
「飛べやー キジ、キビ団子パワーでミラノからの凱旋飛行じゃーっ! 大羽根羽ばたかせ 山へと帰えりゃーっ」
キジさんのケツを空に向かって押し出した。
どうだ おまん、おっかー大事にせにゃあ菩薩さまの罰が当たるでー」
「ひえええ〜 おっかー」
「ワシらはな、キジさんが戻るまでの時間稼ぎに魔方陣の芝居を打ったんじゃ。その訳はな、太陽光を避けることと冷や汗でおまんの体温をさげて、3Mの硬化確定時間をすこしでも延ばそうという犬さんのアイディアなんじゃ。
もしもあのメールでおまんのおっかーが「ピン」と閃かなんだったら、ほんまにキジさんがミラノ往復を果たすまで待たんじゃならんかった。
それまでにはおまん、魔方陣のなかで息絶えておったわのう」
「ぎひー」
あのビデオをネット動画に投稿してもよいかと猿さんが言うとるがどないや? 肖像権著作権法によりおまんの意向が最優先されると言うておるで」
「 … 」
「あんたー そこにいるのおー いたら返事してえー あたしよー。 あんたー無事なのおー」
懐かしいおっかーの声がします。谷の向こうからです。
わたしは裸足で表に飛び出しました。
「おっかー おらはここだあー その吊り橋を渡っちゃなんねーっ、 こっちから行くで橋を渡るなー こっちは奇界、いーやそうでなくて 喜界が島じゃー」
「ご亭主、ひとりで橋を渡れるか? 恐ろしゅうはないか?」
「ご坊さま、わたくしは皆さまと共に仏さまのお側にあります。それゆえ心丈夫でございます」
「うむ さらばじゃ」
橋を渡ろうとすると。
「あんたあー お弁当とお酒を持って来たんだよー あと一週間くらい居たって いいんだよー」
「あっちゃー」
「わん きゃー ケコー」
犬さんがタケノコ、猿さんが3M、キジさんが杉玉鉄砲を持って大喜びで追いかけてきます。
いったん おわり
いやはや、今回は趣向がいささかホラーに過ぎましたかな、それゆえかまたも完マークの打譜に失敗いたしました。
それでも本稿を明日の節分会に間に合わせたあたりは、「さすがはモノ書きの根性」と評価されてしかるべき。
節分会(せつぶんえ)とは新年初めてお釈迦様のお出ましになられる日、この日より季節が更新されるおめでたい日なのでございます。
なんちゃって自転車おやじも、節分を期してお店の商売に気を入れないと本業がひだり前になってしまいます。それよりおっかー菩薩に叱られます。
次回こそ終わりにしたい、終わらせてくださいませなー ご坊さまあ〜。
実在を連想させる団体 個人 企業名 商品名等の記述が一部にあったかと危惧いたすところではございます。
これらはリアリティを増さんとして非力の筆者がそれなりの奮闘努力をいたした結果でございまして、それによって皆様に不利益が生じるとは想定いたしておりません。
むしろPRのお役にたてたと自負いたしておるのでございます。
筆者に悪意他意など微塵もなきこと、ご理解賜りますようお願い申しあげます。
2013−02−02 俊水
ひだり前(中編)
「ご亭主 わざわざ来てくれたとはな、嬉しいぞ」
「ご坊さま ご壮健でなによりでございましたがこの二週間なにゆえ山から降りられなかったんで?」
「とくに訳などはござらぬよ、山はワシの修練場であるから籠っておっても不思議はなかろう。
町へ降りるのは托鉢のためとご亭主、おぬしをからかいに行くのじゃ。だが今日は鉢がネギを背負ってやって来るとはのう。はっはっはー」
こ憎らしい発言のご坊、視線はちゃぶ台の上の一升瓶と弁当のバスケットの間を行ったり来たりしております。
この調子だと小学生でもする「いただきますの前の合掌」とか、「まずは仏様にさし上げて」2秒待ったらうやうやしく下ろしてくるといった東洋美徳の儀式は省略のようです。
それよりなによりこのお堂、仏様がない!
谷のむこうから見たとき茅屋根から立ち昇る煙りを千手観音様の前の護摩壇の煙りと思ったのは、わたしの好意的想像に過ぎませんでした。
このお堂はご坊が自転車のメンテナンスと自身の寝起きのための自転車小屋。
屋根の煙りは山女魚や岩魚それに山椒魚の串を藁(わら)ずっぽに刺して囲炉裏の上に吊るし、桜の薪をけぶらせて燻製する煙りだったのでございます。
煙りは同時に床のダニや屋根の茅につく害虫をやっつけるんだそうですが、それにしても何ということでございましょう。
托鉢だけで満足せず勤行の時間は沢の魚獲りに精を出していたとは。
修練中の仏僧がそんなことでいいのかーっ この怠慢生ぐさ坊主めーっ!
「喝ぁーつ!」
と叱ってやるのは後回し後回し、まずはおっかー特製の重箱を包んだ風呂敷を解きました。
「うっひゃー ご亭主、オメさのおっかーはごっつー料理上手だなや」
里芋の煮っころがしを右手でつまんで口に放り込み、
「うみゃーでいかんわ」
左手はもう湯呑みを差し出しています。
一升瓶の酒を注ぎながらその手を見ると、薄汚れているのはいつものことですがいつにも増して傷だらけなのです。沢蟹の争奪をめぐって月の輪熊と戦ったのでありましょうか。
傷のわけを問うのも後回し後回し、ふちの欠けた湯呑みにわたしも酒を注ぎます。
ここまでのシーン、羅生門の山賊の酒盛りですわな、まだ昼前でございます。
「ご坊、その手はどうされましたかな?」
「あい 面目ない、ディスクブレーキを外そうとして切った。ロード用の工具では合わんところがあってのう」
「ほうほう」
「気合で回したら千切れて宇宙へ飛んで行った。そこで千手観音から手を一本借り受けてくっつけたんじゃよ」
「ほうほう うまくくっつきましたねえ」
「あい 3Mの接着剤はよう着くのう、ひりひり沁みたりせんわ。
なに3M? 知らんのか! 住友スリーエムじゃよ。ワシのオフィシャルスポンサー 信州の団塊屋さんが株を持っとんのじゃ」
酔いが回り始めたらしく、しっかりアピールします。プロは万一落車してもスポンサーのロゴが正面を向くように転ぶのです。さすがでございます。
「ご坊! いま千手観音から手を一本と言われましたか? その前にディスクブレーキとも?」
どちらもここには無いものばかりではないか。
今日のご坊は妙なことを言う。普段はこの種の冗談は言わないお人なのに、もしかしたら酒屋のデブがよこした酒が妖しの酒だったか。
「ほれ さっき見たろ、マウンテンバイクじゃよ。前後とも油圧ディスクが付いておる」
言われてみれば蔦の吊り橋で再会したとき、ご坊が押していたのはいつものコルナゴロードではなくキャノンデールのクロスカントリーでした。
おそ恐ろしい吊り橋を前に足がすくんでいたときの不意の再会だったので、すっかり忘れておりました。
ちゃぶ台越しに入り口横の方を見るとそこが自転車のメンテスペースになっていて、二台の自転車と工具類の棚、部品棚、小さなハンドプレス機や万力のセットされた頑丈そうな作業台が見えます。
さらに電気ドリルやボール盤、エアーコンプレッサまであります。動力は小型の自家発エンジンでまかなうのでしょう。
メンテ場は狭くて窮屈そうですが整頓された工具類は好感がもてます、でもちゃぶ台の間の粗雑ぶりと総合すると、ご坊の性格判断は評価点下がりますね。
わたしのお店の道具類と比べれば、どれもが小型のものですが素人でもこれだけ揃えていれば小さなファクトリー。大したものです、こちらの評価は高得点。
「あのキャノンデールどうされました? しかも片持ちハブのレフティー仕様、高級品でございますよ」
「うむ メンテにな、預かった」
「ははーん あの女優さんですか、それでこのところ山にお籠りで…」
「うむ ロードと違ごうての、なかなか厄介な機構があって手こずった」
「そうでございましょう、そういうことはわたくしにお任せくださいませ。経験と技術そしてハートでお応え致します」
「うむ サスペンションのメンテをな、頼もうと思っておった。先ほどは試運転に山頂まで登っての、下りを町までダウンヒルしようと降りてきたらオメさんとこの軽トラがあったんで戻ってきたんじゃよ。
サスの具合だが、室内保管してあったから問題はないようだ。こんど走ってみて欲しい」
「はいーっ お任せください。して千手観音様とは?」
「おー 見るか? あっちの部屋じゃ」
「あっちの部屋? この小屋そんなに部屋があるんで?」
「小屋ではない、草庵と呼べ! 2LDKなのじゃ」
ご坊先に立ち、わたしが従って裏手の部屋に参りました。
驚いたことにそこは岩山に穿たれた洞窟で、お堂とは巧妙につながっているのでございます。
湿気のない洞窟庵は中に電灯が点いて明るく照らし出されています。
「えーっ 電気が通じているの! どうやって?」
新たな疑問が湧きました。その疑問を問う前にわたしは呆然としてしまったのでございます。
なっ なんと、そこには立派な木彫りの観音様が! ただし彫りかけではございますが鎮座ましましておられたのです。
床には削り落とされた木片が散らばっています。
「ほおおおおーぁー これは … 」
「分かれ道のところに〇空堂と書いてあったろうや、ワシは円空師をこころの師と仰いでこの道に入った」
「ひえええー えんくうぅぅぅー」
ご坊は本気で木彫りをやっておいでのようです。材料なのか乾燥中の丸太やそれを起こす梃子棒や木挽きノコ、そして使い込まれたノミや木槌があります。
きのうや今日に始めたものではない事ぐらいはわたしにも判ります。
砥石の減り具合が年季を語ります。刃先同士が当たらないよう工夫された枕木に整然と並べられたノミの美しいこと。握りのすり減った小槌の頼もしいこと。
職人としての姿勢評価点は高得点ですが普段の酔っ払い減点と合わせると、ちゃぶ台の間と同じですかな。
洞窟のちいさな岩窪にこれまた小さな石の金精様が祭られていて、雁首には細いお数珠が掛けてあります。
だんだん宗教家らしいシチュエーションになって参りましたが何だか違和感あるなあ。
金精様や道祖神とはどちらかと言うと土着神様の系統でないの? 仏教坊主のご坊とは党派、派閥が違うんじゃーないかと思うのですがこのヒトは気にしないタチらしい。
見るとお数珠にカードが通してあって、なんとクレジットカードなのです。金運のおまじないなのでしょうか。
「カードのわけを知りたいか?」
「はい、ぜひお聞かせくださいませ」
嫌だと言っても話しそうですから聞くことにしました。それにしても今日は意外なことばかり、酒二升では足りないかも知れませんねえ。
「ワシはのう 子供のころ自閉失語症じゃった。心配した母親が七歳になったワシの首にVISAカードを一枚かけて母の実家の寺に連れて行った。里子じゃな。
寺には修行中の先輩お弟子が何人かおったが小僧のワシには目もくれず勉強しとった。
母はクレジットカードで好きなものを買えと言って帰って行った。近くにはマーケットやカフヱーなどないんじゃがなあ。
夕陽の沈む坂道を、振り返り振り返りしながら下って行く母親の後ろ姿を、ワシは長があーいこと見とった」
今日のご坊は饒舌です、観音様や金精様の前でハイになっているのかそれとも妖しの酒のせいでお母上を思い出したのでしょうか。
わたしね、泣ける話には弱いんですよ〜。
「和尚さまは勉強嫌いのワシを本尊様の前に呼んでな、何もいわず糠袋を渡した。仏様を磨けというんじゃな。
仏磨きはワシ好きじゃったよ。
本尊様に裸足でよじ登ってな、来る日も来る日も磨いたさ。そういうことは好きじゃった。
一年ほど磨いたら像の木目が浮いて見えるようになって、それまで目を閉じた裸の仏様と思っていたものが衣をまとって目を開けた仏様になっていたのじゃ。
衣の木目の流れがのう、優雅で色っぽいと思ったもんじゃ。ワシの母に似た目をしとると思ったもんじゃ。
あれは菩薩観音つまり女の仏さまだったのかも知れんな。
ワシは仏様と観音様の違いなどわからんだったから、どちらでもよいのだが仏僧界ではそうも行かんらしい。
驚いた和尚さまは像磨きをそこまでにして次に本堂の床磨きを命じた。
床なら問題を起こすまいと思ってのことかワシの磨きテクを恐れたのかは今でもわからん。
糠袋が擦りきれたのでワシは麓のコンビニまで歩いて行って、クレジットカードと破れた糠袋を見せたんじゃ。
店のおじさんは、
「お坊、糠袋のような非日常品はここにはないねんよ。町のホームセンターまで行かな売っとらんで今日はお寺に帰りなはれ」
と言ってワシをマツダのオート三輪に乗せて寺まで送ってくれた。
寺ではワシがいなくなったので大騒ぎになっとった。神隠しにあったか天狗にさらわれたか、母恋しさに脱走したかとな。
和尚さまはコンビニのおじさんに礼をして帰したあと、
「買い物は庫裏の用務係に言いなはれ、修行中の僧は下界に降りて世俗の者と接してはならんのじゃ」
「和尚さま なればわたくしは おかあさまに あってもならぬのでしょうか?」
「下界の者でも山門をくぐって身を清めれば仏界に入ることが許される。じゃからお布施を持ってあちらから参るのはよいのじゃ。来るものは追わずとは当山の信条なのじゃ」
「ああ よかった では あんしんして床磨きにまいしんいたしますー」
木の床は平らで磨きやすかった、ワシは力いっぱい磨いたぞ。磨けば磨くほど母に逢える日が近くなる。そのように仏様が言っておるからのう。
「ご坊ぉー、ご坊には仏様のお声が聞こえるのでございますかぁ〜」
「ああ 小僧のころは聞こえたし 見えたよ」
「ひえええ〜」
兄弟子たちが勤行中だって檀家の祭礼中だって委細構わず、毎日一年磨いたら床に絵が現われた。
絵というよりは陰じゃな。草鞋の跡や足袋の跡、裸足の跡もあった。
槍や刀の痕も浮き出てきてのう、鎌倉時代の戦乱のころの名残りじゃという鑑定がなされた。
村人は恐れ多いと本堂には上がらず周りの廊下に座ってお参りするようになった。
噂を聞きつけて近郷から大勢のひとがお参りにきてのう、廊下に溢れた人々が本堂の外の砂利の上にまでいっぱい並んでおった。
ワシは廊下も磨こうとしたんじゃが、和尚さまが止めたんじゃ。
「もうよい これ以上の御利益は寺のためのもそなたのためにもならん。庫裏で生姜の般若湯など飲んでおれ」
和尚さまは冗談のつもりだったろうが、公認じゃからワシは庫裏に入りびたりじゃ。生姜なしの般若湯を所望しての。
用務係の爺いさんと飯炊き婆あさんの肩を交互に揉みながらワシはすっかり酒好き小僧になっておった。
婆あさんはな、ワシのことを酒呑童子と呼ぶんじゃよ。むかし鞍馬山の酒呑童子はたいそう肩揉みが上手だったんじゃと。
ワシは般若湯を飲むうちだんだん自閉症が良くなっていった。
酔っているうちは人の話がよく判るんじゃ。醒めるとみんな[ムンクの叫び]に見えた。
「ご坊〜 それ、アル中でねーの?」
お布施が増えて和尚さまは庫裏の改修をした。婆あさんの作業環境を改善してやろうと言うての。
毎日大工が大勢来て柱を取り替えたり屋根を葺いたりしておった。
大きなかまどを左官屋が新しくしたし、裏山の水源地から太い竹のパイプで水道を引いて水汲みの労力を軽減させたんじゃ。
婆あさん喜んでのう、酒呑童子さまのおかげじゃ言うて般若湯の盛りがよくなった。生姜に替えて蜂蜜入りじゃ。
ワシは大工から杉の丸太の切れ端しをもらってな、置いてあったノミでそれを削って遊んでおったんじゃ。もちろん飲みながらじゃ。
驚いた棟梁が飛んで来てノミを取り上げ、ワシが取り上げられまいと背中に隠した木片を見てもういちど驚いた。
それは小さくて不格好ながら仏様のなりかけじゃったようで、棟梁はびっくりした後にっこりしてそれをワシに返してくれた。
翌日庫裏の作業場で大工の出した木片を集めていると和尚さまと棟梁がそろってやって来て、
「お坊、これを使いなせえ」
棟梁が差し出したのは木箱に入った三本セットのノミじゃった。
「あっしには使いきれねえこの鑿(のみ)だが、お坊なら使いこなすに違げえねえ」
蓋を開けると手入れの行き届いた刃がぎらりと妖艶に光ったのを憶えておる。
試しに一本手に取って木片に当てるとサクッサクッと刃が進むのだ。
木がここを打て、ここに刃を当てろと言っている。玄能で打とうものなら鑿の刃はスッと丸太の芯まで走る。
たちまち一丁彫り終えて鑿を箱に戻すとき、箱裏になにやら墨書の箱書きがあるののに気がついた。ワシは字が読めんだったから棟梁に尋ねると、
「じんごろう と書いてあるんでさあ お坊」
黙って見ていた和尚さまが粗彫りの木片を手に取って小さくうなずき片手で拝んだ。
「ひえええー 左甚五郎でございますかー」
話が大変なことになってまいりました。酔っての話か作り話か真実の回顧かわたしにはもう分りません。
ご坊が変な関西弁になったときはだいたいが与太話なのですが、ご坊生まれは奈良か和歌山あたりの高名な寺院なのかもしれない。
小僧のときからあちこち旅をしてきたから各地の言葉が染みて、あやつる言語の統一性に若干の乱れがあるのだと、わたしは極めて好意的に解釈しています。
「ご坊、あっちで飲み直しましょうや」
彫りかけ千手観音様に深々と拝礼して先にわたしが洞窟庵を出ました。
2LDKのLに相当するちゃぶ台の間に戻りますとすでに新客がおられまして、犬 猿 キジの面々がそれぞれ器用におっかー弁当をつつきながら酒を飲もうとしていたのです。
でもお猿以外は湯呑みではうまく飲めないようで、
「おい自転車屋、なんとかしろ」
という顔つきです。
目の前の世界はもう無茶苦茶です現世のものとは思えません。やっぱりあれは妖しの酒だった。
こうなればワタクシは変な酒を持ってきてしまった責任者ですから、変なことにいちいち驚いていてはいけません。少々の無茶苦茶に驚いておっては酒呑みの名折れというものでございます。
新しい一升瓶を開けて犬さんの前に広皿、猿さんには湯呑み、キジさんには花瓶のような深皿に並々と注いであげました。
「おおー みんな来ておったか、今日はの自転車屋さんがよいものを持ってきてくれたぞ。ささ飲もうじゃないか、きび団子もあるでよ」
「ご亭主、さっきの話の続きにはこちらのお三方も深く関係しとるんじゃよ、聞きたいか?」
「へー そりゃーもう、桃太郎だってカチカチ山の話だってなんだって、あっしゃーお聞きしまともよー。 ふぃー」
ある日のこと三年ぶりに母親がお寺に訪ねて来た。ワシの首に掛けてあったVISAカードが期限切れになるので更新したと新しいものに交換してくれたのじゃ。
「おまえさま 一度も使わなかったんどすか、お寺ではお菓子はあってもメンコやべーごまはないけんのう、これで買うようにって持たせたのに 一度も … うっうっうっ」
「おかあさま、わたくしはちっともさみしゅうございませんでした。ですがおかあさまはおたっしゃかと そればかりがきがかりで まいにちほとけさまにおねがいをいたしておりました。
またおあいできて うれしゅうございます」
ワシはこの頃には失語症も良くなりつつあったのじゃ。
「ひええええぇ〜 ご坊さまぁー」
わたしだけでなく犬も猿もキジも泣いています。
泣くな、泣いたのはワシの母親じゃ。和尚さまに向かってこう言うたのじゃ。
「この子は連れて帰ります、立派に小僧の修行ができました。普通の子と同じ学校にも行かれます」
ところが和尚さまは、
「この子にはこの世は向かん、じゃと言うてあの世では早すぎる。のう日花里 俊水坊を旅に出させよ。
中国チベット印度タイ、そして天竺ネパールじゃ、さらに西をめざしてチョモランマを越えれば黒海の先にローマがあろう。この子がこの子らしゅう生きるにはのう 放浪の旅しかないのじゃ。
さいわいこの小僧には大層な資質がある、銭が無くとも飯と酒に困らぬ才覚と、言葉がなくとも人や動物と話せる才能じゃ。そしてな日花里 よっく聞け、この子はなんと円空師の生まれ変わりかも知れんぞ、わしの孫でもわしらの自由にはならん」
和尚さまはワシが彫った何十もの小さな木仏を懐から出して母親に見せたんじゃ。
ワシは意識して彫ったわけではないが、木仏はみんな母に似た顔の慈母観音じゃったんだと。
「ひえええー」
母は泣いた。
母もお寺の生まれ、円空仏が如何ほどのものかはわかる。
細いお数珠をVISAカードに通してワシの首に掛けながら母が言った。
「いいかい 外国でカードを使うときにはサインというのが要るのよ、おまえさまは字がようけ書けないから練習しようね。簡単な字を書いてごらん」
ワシは〇なら書ける。じゃが〇だけではサインとして認められないそうなので、
「にし とはどちらのほうこうでありましょう? 和尚さま」
「西とはのう 太陽が沈む方角じゃ、母に逢いたくなったとき夕陽の空を見るじゃろう あの空の向こうが西じゃ」
ワシは〇の次に空と書いた、漢字で書いたんじゃっ! 気合でな。
それを見て和尚さまは、
「〇に空 まるに空 えんに空 … 円空」
「ひえええー そなたは おのれを円空と知っていたのかぁー」
ワシは西に向かって旅に出た。
托鉢の鉢とノミを一本、胸の虚無僧袋に入れて白装束。笠はお椀型じゃ、一休さんをイメージすればよい。母が近郷一の老舗デパートで選んでくれたトップトレンドのスタイルじゃ。
本来なら手っ甲脚絆にわらじがセオリーなのじゃが、年少ゆえお許し願ってリストバンドとテニス靴はナイキじゃ。
道中途中で犬猿キジと知り合いになってな、キビ団子を持っていたからなんじゃが…いきさつは説明せんでもよかろ…
腹がへったら行きずりの農家で木仏を彫れば飯を食わせてくれた。般若湯は僧には付きものじゃったし、出立つには握り飯とキビ団子も持たせてくれた。
日が暮れて道が見えなくなったら干し草の上で犬猿キジと抱き合って眠れば寒くはなかった。
西に向かって歩き続け、カードは使わんうちいつの間にか白い馬の雪形の残る山を越えて海に出た。
海岸で貝を獲ったり蛸を捕ったりしながら右に海を見て歩き、流木に仏を彫って海に帰していたら小船が近づいて乗らんかという。
犬猿キジも一緒でよいかと問うと、
「小僧おまんひとりやろ、犬猿キジなんか見えんぞ」
邪心の者にはワシの仲間が見えんのじゃな。自転車屋さん、あんた彼らが見えるんけ。
「ははー ありがたき幸せにぞんじまする〜」
その船は、今でいう北の拉致船じゃったんじゃろうのう。他にも若い娘さんが乗っておったように思うが微妙な問題じゃでネットではよう喋れん。
いろいろ騒動はあったが犬猿キジの助けを借りてワシは大陸を前に拉致船から逃れた。
このあたり犬猿キジの活躍のことは昔話のリメイクだから省略じゃ。
海を泳いだり岩を跳んだりイルカの背に乗ったりしながら、ともかくワシらはアジア大陸に着いたんじゃ。
「えらい飛躍しますなあ」
うるさい黙って聞け。
あの大陸はな、数珠を首に掛けた小坊主がお供の動物を連れて歩いているのを見たら、遠くからでも走って来て喜捨してくれる国ばかりじゃよ。
三蔵法師の西遊記は東アジアで最も普及しておる古典じゃからのう。
お礼に小さな木仏など彫れば、
「おまえは玄奘三蔵か? 連れの動物の顔ぶれが原作と少し違うがまあよかろう。この先の西の砂漠には恐ろしい九頭竜が出るからこの村にいつまでも居ろ」
と言ってくれる。
じゃがワシらには天竺を経てさらにはローマまで行かねばならぬ大事なミッションがある、長くは留まれんかった。
行って何をするのかは考えなかったなあ。和尚さまも言わんかった。
行けば、あるいは旅の道中で何かわかるやろ。その程度じゃったが旅は辛いことも面白いこともいっぱいあった。
ポル・ポト派を避けて森に迷い込んだときのアンコールワットソン村では犬を食べる習慣と聞き、犬どんを豚に変装させてブヒブヒ歩いた。豚は神聖な動物じゃというてのう。
「ぶひ〜わん」
犬さんが笑いました。猿さんもキジさんも笑っています。
ワシらは北京故宮院にもチベットのポタラ宮にもヴァチカン宮殿にも上った、大英博物館を訪ねて最後はバルセロナのサグラダファミリア教会にも行ってみた。
どの宝物館にも廟にも円空仏が所蔵され、その扱いは極めて尊厳に満ちたものであった。
円空師はここにまで訪れておったのか!
ワシらはこうべが素直に垂れて、静かに合掌したのじゃ。
考えてみればワシは僧としての修業はなにひとつしておらん、和尚さまの寺で本堂の本尊様を磨いただけじゃった。
合掌は見よう見まねじゃが、あれは世界共通なんじゃな決まりなどないんじゃ。いきものの上腕二頭筋というのは胸に合わせて合掌するように出来ておるんじゃ。
ありていに申さばワシは似非坊主じゃ、和尚さまの寺を放逐された彫り師志願の小僧じゃ。
円空師の足跡を追って旅してきたに過ぎん。
なのに迎えてくれた各地の高僧たちはワシを聖職者として遇してくれた。
ダライ・ラマ師やローマ法王さまはワシの胸にさげた汗の滲みたVISAカードに花押(かおう)してくれたのだぞ。
この花押によりワシは保障され、一部の紛争国を除く多くのユネスコ加盟の国々で不安なく旅を続けられたのじゃ。
お礼に差し上げた木仏を目を細めて受け取ってくれた方々のお顔は、今もしっかりと覚えておる。
生涯に12万体の野仏を彫った師には及びもつかんが、ワシの出来るかぎりの仏像、観音像を彫りたいと思うてのう。
「げげげげげーぇー ご坊は、やっぱり あの 円空さまの生まれ変わり…」
なにを言うておる、こころの師匠が円空師と申したのじゃ。
「あの あの ご坊さま、木札にはマル空堂と書いてありましたが…」
おぬし 先程の和尚さまの解説部分を聞いておらんかったんか! えん空堂と読むのじゃよ、大円空の文字などワシには使えるはずもない。恐れ多いことじゃ。
「ひえーっ 恐れ入りまするー」
ワシは一体だけ持っておる。これが円空師の彫られた木仏じゃ。
棚に置かれた木箱から紫色の布を払ってわたしの前に小さな仏様が置かれました。
木目に沿ったり抗ったり、荒く打ち込まれたノミ跡が一打ち一打ちの渾身を物語っています。
ながい間に欠けたであろう部分も年月が歳月の色を乗せて景色となってしまいます。
見ているうちになんだかとっても静かな気持ちになり、両手が勝手にずんずん前に出ていつの間にか合掌しておりました。
「うひゃー おらの上腕二頭筋も同じように動いただあー」
二本目の一升瓶が残り少なになってすっかり皆さん良い心持ち、わたしは思い切ってご坊に訊ねました。
「ねえ ご坊、あのかつお節のような仏様だがね、不思議なもんだねえ おら手ぇ合わせながら涙が出るのに気持ちがよくてスーッと落ち着くんだよ。
なんでだっぺ? 削りぶしの香りはしなかったなあ、樟脳の匂いがしただよ」
「ああ 確かにかつお節のようだが、あの香りか? 材にナンジャモンジャの木が使われたようだ」
「ナンジャモンジャ?」
「ああ、和名は楠の木じゃ。円空師は立って生きている木にも仏を彫られた。
ワシはそれをメコン・デルタの中州で見つけての、ベトナム戦争のさ中に周りは焼けたがあの木だけは朽ちず残っておったのじゃ」
「暫定政府は再開発のため木を切ってデルタを整地しようとした、しかし枯れず倒れぬ木の幹の仏様を粗末には出来ないと住民が反対して計画は遅れておった。
そんな折り通りかかったワシが僧と知って住民たちが懇願した。あの木を粗相なく尊厳を込めて気を鎮めて欲しいとな。
戦火に焼かれ枯葉剤を浴びながら、なおも堪え延びた木じゃ。僧はそうでもワシは未熟な似非坊主、とても歯がたたんと断ったんじゃが是非にとのこと。
応えられるかは分らぬが荒縄を用意させ、幹の周り四方に魔方陣を張ったんじゃ。
ワシは額の鉢巻きにあのノミを差し、母のカードを通した数珠を握りしめて意を決してその中に入った。ワシは初めて死ぬかもしれんと思ったんじゃ。
三日三晩祈り続けて四日目の朝。雷鳴が轟いて気絶したがしばらく経って目を開けると、ナンジャモンジャの木は静かに倒れておった。かつお節のような色になっておった。
あの仏像をワシは終生守らねば、禁じ手の魔方陣を使った罰でただちに雷に打たれ息絶えるであろう。かつお節色になっての」
「ひえええ〜」
「円空師はメコン泥濘の地にも足跡を残されておった。これは日本仏教史に記述はないのじゃ。
あの干からびた、かつお節のような木像はその成り立ちからか今も芳香を放つ。
ナンジャモンジャの木には脳幹刺激ホルモン、カンファーレンの成分を含んでおるからじゃ、医療界ではカンフルという。
ひとはあの香りで喜びの感情を増し、しまいには感涙する。
俗に 「虎にマタタビ 坊主にお布施」 というじゃろ、マタタビは漢方では木天蓼(もくてんりょう)というて、加藤清正も朝鮮での虎退治に使った。どちらもハーブの一種じゃな」
「ひゃー 加藤清正公まで出てまいりましたかー。あのお方は熊本の出でございますぞ、熊と虎 話がよう出きておりますなあ」
ご坊わたしの出が三つの洒落には目もくれず続けます。
あの木像を衆目の届くところに置かば、わんわん泣かれてかなわんのでワシが死蔵しておる。表に出さば国宝だ。
「ひえぇー 国宝でございますか、おら国宝の匂いを嗅いじまっただぁー。ところで ”わん”は洒落でございましょう?」
ん 何のことだ? 国宝か? 表に出さばなっ。
「なんで出さないのでございます? 〇空堂博物館をつくって国宝展を開きましょうよ」
ならん、出さば日本のいや世界の仏教史が変わってしまう。
ユネスコも文部省文化庁と社寺庁も、続々と密殺団を送ってワシを暗殺するだろう。それは構わんがあの木仏が焼かれてしまうのは忍びがたい。
「へっ 密殺団? なんです それ」
今は言えん、ダライ・ラマにもローマ法王にも類が及ぶ。
「へっ! なおわかんない」
知らんでよい、よいか木仏のことは誰にも言うな。おっかーにもだぞ。
「でぇーじょーぶぅ でございますよー おらは二升も飲んだらみーんな忘れてしまう、今日来たことだって忘れてしまう。
そうだ、でぇーじなことを忘れかけていた、怪我した手を千手観音様の手と取り替えた話しだぁ」
ああ あれか、彫りかけの手をよっく見みろ。
「なんじゃー こりゃー?」
千手観音様は何本も手があります。折れたのやらネジれたの、ご坊と交換したというのもありまして、お顔のところからも二本出ております。手というよりベロですなあ。
「ご坊ー、こりゃー 二枚舌の千手観音様ですかい?」
うむ 現代の矛盾を突く意欲作じゃ、やがては国宝じゃのう。
「あっちゃー … 」
「酔ったついでに二枚舌のイグ大僧正さまに是非お訊ねしたいけんど。行きは拉致船に乗って行ったんだったよね、帰りはどーしたの?
犬猿キジを連れてパスポートもなく、VISAのクレジットカードだけ持っていても出国も入国も出来んでしょうよ。
おまけにノミまで持っている、ありゃー刃物でっせ空港の凶器探知機がピーピー言いますやろ」
おまん 鋭いとこを突くねえ、しつこいところはお政所の方様といっしょやのう。聞きたいの?。
「言えん、と言うんでしょう」
うむ ダライ・ラマやローマ法王に類が及ぶと申したのはそれもあるが…。
ワシは拉致船で出国したパスポートなしでな、大陸へは泳ぎ着いての密入国じゃった。そのあと中国を南下しながら横断して海南島からいったん海に出てインド支那に上がった、ラオスやカンボジアをかすめて印度で3年過ごし、つてを得てチベット・ポタラ宮に潜入するまでは大変だった、すべて密航じゃったからのう。山陰の浜を離れてより10年経っとった。
だがダライ・ラマ師から花押を戴いてからは超法規じゃ。
「チョウ ホウ キー?」
たった一言、「拙僧はローマ法王あてダライ・ラマの親書を届ける通信吏である。控えおろう!」 と言うたら官憲もゲリラも手が出せん。
信仰とは超法規なグローバル・フォースメントなのじゃ。
「 … 」
007の原作はワシがモデルといわれておるが、違い処はワシはオリエンタルの民生宗教文化を小馬鹿にしておらんというところじゃ。
この点は大きな違いぞ。
チベットでは民衆から選ばれたダライ・ラマがポタラ宮の王になる、ワシは民衆と共に裸足で歩くその王から花押を貰ろたんじゃ。
同じ超法規でも大帝国の女王様から資金をたっぷり供与されて、パーソナル・ジェット機内でワインを飲みながら南極や北極まで飛んで行く007とは気合が違うんじゃーッ!
こちとらタロ芋アルコールの合成般若湯をデルタの泥水で割って呑んどるんじゃー おのれー!
「まあ まあご坊、落着きなされ、ナンジャモンジャの香りを嗅ぎなはれ」
いやー すまんのうご亭主、世話をかける。ところでこの酒少し妖しくないか?
ほんでな、国境地帯で共産軍に捕まって、親書の中味が [今度一緒にゴルフしましょう] ってだけ書いてあるのがバレそうになったら犬猿キジさんたちの機転で切り抜けて、
走って走って逃げるんや。転んでも止まらん。ワシらはジェット機ないけんのう。
「ご坊は逃げるのお上手でございますからなあ」
おまん、嫌みか?!
イタリアではな、法王さまと古代コロッセウムのバンクを自転車で走ったんや、当時のイアン・バッソ・ベネディクト法王さまは速かった。下ハン握って全開疾走じゃ。
法王さまの自転車はな、コルナゴ社から贈られた黄金のクロモリ・マスター、イタリアの至宝といわれて久しいお宝中のお宝じゃ。
今はヴァチカンの宝物殿に飾られておる、円空仏と並んでな。
いいなーそれ って法王さまに言うたら呉れたんじゃ。
「ぎひー あの伝説の黄金マスターをでございますか!」
さすがにそれは出来んからコルナゴに命じてレプリカを作らせた、ワシの体格に合わせての。旅に出てより20年経っておったから今の体格と同じじゃ。
「それがあのコルナゴでございますかー」
うむ アーネスト・コルナゴのサインの入ったそれを持って日本へ帰るんじゃが困った。運ぶ手立てがない。
「そりゃー そうでしょう、自転車の木箱はデカくて重い、それに犬猿キジもいる。
どーして自転車で走って日本まで帰らなかったんです? ご坊ならヨーロッパ・アルプスだって余裕で越えられるでしょうよ。北回りロシア経由ツール・ド・ツンドラなんてね」
おまん、そーゆーこと言うの? ワシもう30歳を過ぎてかつての神童パワーが薄れておったのじゃよ。そのかわり自閉失語症は直っておった。
「ははーん 今はワルおやじパワーなのね」
そこで法王さまがよいことを思いつかれた。親交のあった明治神宮へ金の鳳凰の冠を贈ったのじゃ、ベネチアは金細工でも有名じゃからのう。
厳重に梱包したので外側の木箱は自転車ボックス程の大きさになった。
ワシは金の鳳凰冠の傍を片時も離れてはならん警護吏としてローマ教皇庁の衛兵の制服を着て貨物船に乗り込んだ。法王さま花押のVISAカードをチラつかせてのう」
「うひ うひ」
おまん 笑い方が卑しいのう。
貨物船は神戸港についたんじゃ、昔から遣欧使節団は神戸と決まっておるのじゃ。
もはや日本じゃ、ワシは元々出国しておらん取扱いの立場やからのう 日本にあっても当たり前であろう。
じゃが港というものは日本であって日本でないのだ。検疫 税関というものがあって、着きましたあー ハロー エブリバディー とはいかんのんじゃ。
「ふむ ふむ」
荷卸しの検疫で梱包が開けられては鳳凰冠の他に自転車と犬猿キジ、それとワシが20年持ち歩いた虚無僧袋にメコンで見つけた円空仏と大事なノミが隠されているのが発覚してしまう。
出発港のナポリと違うて日本港はこういうことにはウルさいんだと船長のキャプテン・クックが言っとった。教皇庁の威光で顔パスとはいかんのんじゃと。
次々に貨物がクレーンで陸揚げされて行く、ワシは困った。
困っているうちに鳳凰冠の番となって木箱にワイヤーが掛けられ岸壁に向かって降ろされて行く。
地上には税関吏の他に神宮の神官や神社本庁の役人たちが、特別に入場を許可されて品物改めのため居並んでおってな、手には木箱を開けるトンカチなんか持っていやがる。
あと1メートルで地上や、絶体絶命や。
「ドキドキしまんなあ」
ご亭主! なんでおまんが関西弁なんや、ワシのまねしなや!
そのとき、風もないのにクレーンアームがゆらーりと揺れ、緩んだフックから木箱に掛けられたワイヤーがシュシュシューと跳んだ。
「ガタリ!」
木箱は音と共に地上に落下して木枠の一部が破れ、中の防水シートが見えた。
一斉に駆け寄る男たち、しかしその足がピタリと止まった。
「ワオ〜ン ワオ〜ン」
木箱の中から狼の遠吠えが聞こえたからだ。
「えーい 控え 控えーぃ! 今なる狼の声 聞こえたであろう、あれなるはローマ法王の守り神 ユーロ大神さまの声なるぞ!
獅子をもひさぐ全欧州のオオカミ神である。 一同頭が高い! 控えおろーぅ」
真っ先に神官どもがひれ伏し、つられて役人たちもひざまずいた。
ワシはローマ教皇庁衛兵隊長の制服の胸から燦然と輝くあの法王さま花押のVISAカードを連中の頭上に掲げ、さらに大音響で呼ばわった。
「大神さまもお怒りでござる、長き旅路の末にかかる虐待を受けるとは断じて承服ならん。拙国よりの友好の印しをおん国は軽んずるおつもりかあーっ! 全欧州を敵とする気かあーっ!
拙者、警護吏として大神さまと共に黄金鳳凰冠のお供をして参ったが、これなる不始末は看過に堪えん。もはや法王さまへ無事の到着を報告の仕様がござらぬ。
そればかりか大神さまのお怒りをも生んでしまった、拙者生きておめおめ国には帰れん。かくなるうえはただ一つ、大神さまの鎮むるを願って今ここにて切腹いたす。
一同の者、おもてを上げてユーロサムライの覚悟を見いーやー!」
腰に下げたサーベロをシュシュッと抜刀し、中段に構えて眼下の者どもをはっしと見据え、
「拙者 腹を切ったるのちは海に身を投じて果てるがゆえに本国への遺骸送致などはもとより望まん、それがサムライ騎士のたしなみであーる。
じゃーが、ひとりで地獄に落ちるにはジャパンの道は不案内。よってひとりふたりなりと、いーや そこもと全員道連れに致す。一同の者 覚悟をいたせー!」
イタリアンなユーロサムライ衛兵隊長が見事な日本語で見栄を切ったからたまりません、みんな逃げ出して誰もいなくなった。
ここは保税岸壁、治外法権のエリアである、一度出たら戻れないセキュリティが掛かっているから暫くは時間稼ぎができる。
壊れた木箱を押し広げると犬さんが飛び出してウインクして見せた。クレーンアームの上から猿さんとキジさんが降りてきて、
「大将、たいした芝居でやしたぜ。ローマの休日の撮影のとき、急に腹痛をおこしたグレゴリー・ペックの代役でヘプバーンのアン王女とトレビの泉でデートしたシーンを思い出しちゃったでやんす」
「みんなー よくやったぞ、あと一頑張りだ。ここを抜けたらキビ団子で一杯やろうぜ」
「タクラマカンの雪男軍団と戦ったときと比べたらチョロイもんだわさ ケコー」
「よーし 行こう!」
「オーッ!」
金の鳳凰冠はもちろん無傷だった、神宮の神官たちが乗り捨てて逃げたライトバンにそれを移し、木箱からコルナゴを取り出すとすぐに走れるコンデションだった。
衛兵隊長の制服を海に放り投げると波間に浮かんで見えなくなった。
ユーロサムライの遺骸は長い時間の末に故郷のイタリアに流れ着くのであろうが、出国カードも入国カードもないのだから人口に変わりはあるまい。
外務省も神社本庁も税関も、黄金鳳凰冠さえ無事なら知らんぷりをするだけさ。
ワシは自転車、犬さんは走り、キジさんは羽ばたいて20年前にワシらが出会った山に帰ったんじゃ。そこが此処というわけじゃ。
えっ! 猿さんかい? 猿さんは首だけ出してワシの虚無僧袋に入ったのさ、小僧のときは前に掛けたが自転車だから肩から背に掛ける。いま若い自転車乗りに流行りのメッセンジャーバッグは
ワシの虚無僧袋がルーツなんじゃよ。
「おい 自転車屋、なんだ眠ってしまったのか。
ならばとっておきの酒を出そうじゃないか。猿さんのおっかーがつくった吟醸猿酒をねー。
それに本場岡山から吉備団子とキビナゴの佃煮、現在瀬戸海道を自転車ツアー中の かしのきの浜さん が送ってくれたんだよ〜ん」
「わん キャー ケコー はまさん がんばれー」
わたしが寝ている間にもおとぎ話しのような宴会は続いています。
この回で完結するはずだったepisode 5 でしたがもう一回先延ばししないと終わらなくなりました。
今だ未解明のイグ大僧正就任事件、女優の正体、洞窟に引かれた電気の謎、ひだり前という謎のキーワードに迫りたいのに眠りたい。
わたしの目が覚めるまで暫しお時間をいただきとう存じまするぅー。
episode 5 ひだり前(中編) おわり
ひだり前 (前編)
「来ないねえ」
おっかーが呟くように言いました。
「そのうち来るさや」
わたしはそう言ってから箒を持って表に出てみました。
朝から何度も掃かれた店頭には水も撒かれてもう箒の出番はないのですが、掃除をしているふりをしないと表にいるのが何だか恥ずかしいのです。
通りの向かいの酒屋のデブに見られたとき箒を持っていれば言い繕えるような気がするのでございます。
案の定デブが出てきて軽トラに清酒瓶のケースを乗せながら、
「「来ませんかあー ご坊さま」
おいおい そんなに大声で言うな、町内中に響き渡ってしまうではないか。
それではまるでわたしがご坊の来るのを待っているみたいじゃないか。
「知っていながら知らない素振り それが大人というものぞ のう酒屋さん、ところでワシに一本喜捨せぬか?」
ご坊ならこうおっしゃりますがなや。
昼を過ぎてとうとう我慢できなくなったおっかーがママチャリに乗ってサイクルロードの方を見てくると言いだしました。
麦わら帽子が風に飛ばされないようスカーフでてっぺんから顎に結び大きめのサングラスと丈の長いヒラヒラのスカートで変装した姿は、アラビアの女性が目だけ出してラクダの旅に出るときみたいで笑ってしまいます。
「どお 女優みたいでしょ」
「ああ 似合ってるよ、顔が見えないうえに足も隠れているからいいね。ローマの休日のオードリー・ヘプバーンみたいだよ」
「それ 褒めているの?」
「…」
「どお 惚れ直した?」
「早よ行かんかい アン王女さま いやお政の方さま、なぎなたも持って行け!」
ロード沿いの川っぺりにある福島家の旧隠居所を偵察して戻って来たおっかーは汗びっしょりではあはあ言っております。
自転車屋のおっかーがママチャリごときではあはあ言っては
「喝ぁーつ!」
とご坊にしかられます。
「あんた ご坊いないよ、庭先で女優さんが草花の手入れをしていたけれど他には誰もいない様子ねえ。家のまわりに自転車もなかったし山へ帰ったんじゃないかしら」
「そうだねえ、僧門のおひとがひとり暮らしの未亡人のお宅に何日もいたら破門されるわなあ」
「そうよね、きっとあの晩のうちに帰ったのよ。
前の酒屋がさあ 生ビールの炭酸ガス交換に行ったら奥でご坊が飲んでいたって言いふらすから心配してたけど、ご馳走よばれたら帰ったのよね」
「なんだ、あの噂は酒屋が出どころか」
「酒屋のデブはね、女優さんが気になってしょうがなかったんだけど、ご坊があんまり親しげだったのでがっかりしちゃったらしいのよ。
それで店からそっと持ち出しては女優さんに届けていた醤油壜を渡しそこねてね、それを奥さんが軽トラの助手席に見つけて大ゲンカになったのよ。男はしょうがないわねー」
おっかーはご坊が美人未亡人のお宅にいなかったのでほっとしたというように帽子を脱いで、冷たい水をごくごく飲みました。
ローマの休日のアン王女様はごくごく音をたてて飲んだりはなさりません、ぜったい。
アイスクリームを食べるときの王女様のあの優雅さったらないね。うちのおっかーにはできません、ぜったい。
「なーに見てんのよ、あたしがご坊さまのファンなのが気にいらないのっ?」
「…」
「来れば来たで問題を起こすけど、来ないとなんだか変よねえ。
ねえ ご坊さまって、グレゴリー・ペックに似てない? エピソード4で髭を剃ったら意外に素敵よね。
あたしね、あの女優に張り合ってやるわ。あんな茶髪のヒラヒラにグレゴリーご坊を取られてなるものですか、エイッ! エイッ!」
竹箒を構えて中段突き、なぎなたの稽古です。
「あっちゃー … ペックりしちゃったなあ」
「あんた! こんどはあんたが見に行ったら? 山へよ、お弁当作るから」
山道を四駆の配達軽トラで登って行きました。今はこんな山奥でも舗装されていて快適に登って行けます。
草むらで虫が鳴き、頭上の梢で百舌鳥が騒ぐと道の先をテンが駆け抜けます。
自転車で来ればよかったと後悔しました。ここを毎日ヒルクライムするご坊の心情が解るかも知れない。
わたしのお店には自転車関係の書籍も置いてあり「坂バカ日誌」だの「坂道は人生だ!」といった坂おたくの本が少しずつ売れるようになりました。
坂バカ系の本が売れた翌月には坂登りに適した軽量バイクが売れます。不思議ですがそうなのです。
お客様にはダンシングで登るときのフォームが取りやすいサイジングと装着パーツを進言して喜ばれています。
この町にヒルクライムの文化を最初に持ち込んだのはなんと言ってもあのへたれご坊さまでございます。
へたれながらも坂を行くご坊の姿に触発された若者がわが町に増えてきたのです、ありがたいことでございます。
ママチャリの販売を量販店に奪われた昨今、本格ロード車が細々とはいえ売れているわたしの店はご坊に感謝と敬意を払わねばなりません。
自転車で坂を登る、歩くのもやっとの坂を歩くより遅い速度で蛇行をくり返しながら登る。
蛇行のハンドルを切り返した瞬間足がふっと軽くなり呼吸が戻る、すぐにまた酷しい負荷が足と腹筋にかかって息が出来なくなるのを我慢して我慢して我慢の限界で切り返して息を継ぐ。
誰かに金を積まれて登っているわけではない、峠の向こうに用事があるわけでもない。
誰かが見ているわけでもない。制限時間もない。途中で止めたってまた来ればよい、百舌鳥もテンも待っていてくれる。
理由なんかどうだってよい、自転車乗りは坂があったら登るだけ。
わたしはこの山道に四駆の軽トラで入り込んだ愚かさを深く恥じました。
スポーツバイクを売って生計を立てる自転車屋がエンジン付きで坂を登って行ったら、果たしてご坊はなんと言われるでありましょう。
「もったいないことをするなあ」
恐らくそう言われるに違いない。
こんな素敵な坂道がわたしの町にあったなんて、眼下に関東平野の北東の端が見渡せる素晴らしい眺望と美味しい空気がここに満ち満ち&満ちしているではありませんか。
この坂はまさしくヒルクライムの聖地。
砂防ダムの駐車場を過ぎると道幅が狭くなって 「これより車両は一方通行 降りてくる自転車 ハイカー 動物に注意」 の看板がありました。
道はさらに登っており 「山頂 電波中継所まで 2km」 の標識もあります。
一方通行だから山頂を過ぎても道は山の向こう側まで続いているのでしょうが、恥ずかしながら何処の村に抜けているのかわたしは知りません。
子供の頃は野山で冒険するのが得意だったのにこんな道は知りませんでした。砂防ダムが出来たときに造られたのでしょう。
それにしても後続のクルマなどはなく、降りてくる自転車にもハイカーにも出会いません。動物だけ見かけます。
ご坊の草庵はどこにあるのでしょう、降りてくる自転車とはご坊のことに違いないから近くまでは来ていると思うのです。
路肩に一台分の駐車スペースを見つけエンジンを止めて車外に立つと静寂に包み込まれ、このまますーっと宇宙へ浮かび上がって行くような気がいたします。
海岸ではこんな気持ちになったことがない。
山では山々の凹凸がパラボーラになって、降り注ぐ宇宙線が斜面に反射してどこか一点に集中するところがある。するとそこがUFO出現ポイントになる。
ブルーレイ透過グラスを通して見たら、そこいらじゅうに宇宙人がわんさといるではないか。
それは背筋が凍る空想ではなく、なんだかわくわくする想像なのです。
「〇空堂 ⇒ この先 徒歩にて可」 見まわすとご坊の筆跡の木板が立っています。
「なーんだ、ここから枝道を行くのか。
えっ! マル空堂? 変な名前やなあ」
おっかーが持たせてくれたお弁当のバスケットを肩から斜めに下げ、酒屋のデブを例の醤油の一件で脅して喜捨させた一升壜を二本持って歩き出しました。
平らな野道は粘土質の土が踏み固められた上に芝のような細くて短い草が生えそろっていて歩きやすい。
草の上に見つけた細いタイヤの跡を追って歩きます。
高級じゅうたんのような草の上は靴を脱いで裸足で歩きたいほどなのです。
「なんて気持ちのよいところなのだろう、こんなところに暮らしているとご坊のようなキャラになるのだろうか?
それともあれは天然なのだろうか?
いずれにしても精神の安寧が得られるのならたとえ電気や水道はなくたって快適だろうなあ」
山の丸みに沿ってどんどん進んで行くと、軽トラを留め置いた場所からは見えなかった風景が見えてきました。
「えっ! あれがお堂? 〇空堂と書いてあったのだからお堂だろうなあ…、でも なにっ! このアドベンチャーなシチュエーションは?」
饅頭屋のじいさまは、昔またぎの衆が谷地につくった狩猟小屋と言っていました、でもこれは谷地どころか峡谷でございましょう。
わたしが立って見ている位置とお堂らしき人工物との間には狭いけれど深い谷があって、お堂は向こう側の山腹にあるのです。
向こうの山はなんと山容が変わって岩山です、吊り橋が見えますからあれを渡って谷を越えるのでしょう。
こっ これは! なんと、アドベンチャーよりディンジャーでございます。
だってその吊り橋、他に言いようがないから吊り橋と申し上げましたが猿がつくる猿橋のほうが安全性を確保しているのでは? と目を疑いたくなるほどの蔦の橋なのでございます。
細いタイヤの跡はその蔦橋に躊躇なく続いているのでございます。
「ひえー … 」
蔦の吊り橋のたもとで荷物を草の上におろし、まずは状況の確認です。
自転車が渡れるのだから耐荷重は良さそう、では揺れはどうか? 風が吹いたときの最大揚度は? 中心部まで進んで横に振られたときに受ける最大Gはどれ程か?
それは蔦にしがみついて持ち堪えられる握力の限界を超えないか?
「うーむ 1分以内に渡り切ってしまえば死の確率は4分の1になるな」
「1分で渡るには走る? それとも這う?」
「おい! それではまるでこのおそ恐ろしい橋を渡るつもりで計算をめぐらしているみたいじゃないか。
渡るな! おらには扶養家族とお国に納税の義務があるのだぞ。弁当と酒はご坊を呼んでこちら側で渡せばいいじゃないか。おお! そうじゃ、それがよい それがよい」
「ご坊ぉーっ」
大声で呼んでみました。谷底からこだまが返ってきて山に駆け上がり岩に生えた松の木を揺らします。
こだまで松の木が揺れたのは錯覚でした、大声に驚いた猿が外来者を威嚇して樹上でゴリラダンスをしたというのが正しい。
連動してカラスが騒ぎだし、イタチやテンやタヌキが駆け出してあっという間に山中大騒ぎになりました。
泰山は見事に鳴動したのでございますがネズミ、いや失礼ご坊は出てきません。
これ以上大声を出すと岩山が崩れるかもしれません。
今は雪がないからよいけれど積雪の時期には雪崩れが起こってお堂は埋まってしまいます。このお堂が何十年も健在ということは、ここで大声で叫んだ人物はわたしが最初?
風雪に耐えたお堂というものは風格を増して大きな存在に見えるものでございますが、向こうの岩山に建つそれは立つのもやっとの掘っ立て小屋に見えます。
またぎの狩猟小屋ですからなあ。
ご坊の流儀ではお堂でよいのでしょう。茅葺き屋根の下、地上から1mほどの高さ四方向に濡れ縁みたいなのが巡らされて一応お堂の体裁は整っております。
入り口と思われる開口部のかたちが蓮の葉のように見えないでもない、またぎの衆は実用主義のはずだからこんな細工はしない。これらはご坊のオリジナルでありましょう。
よく見ると茅屋根の上部から薄い煙りが立ち昇っていて、その匂いが漂ってきます。
「おおおー あれは護摩譜を燃やす煙。ご坊、生きているんだ。よかった。
きっとあのお堂の中には千手観音さまや円空仏が祀られ、ご坊は護摩焚きの勤行中なのだ。
ご坊ー 酒の壜を鳴らすから気づいてくださりませー」
一升壜と一升壜を叩き合わせて「チン」と鳴らしてみます。岩雪崩れの起きない程度に気をつけて、壜が割れないようにもっと気をつけて鳴らします。
「チンチンチン」
「かーかーかー」
これはカラスの反応です。猿はもう何処かへ行ってしまいました。
カラスでもなんでも誰か返事してくれる者があれば心強い。
「チンチンチン」 「かーかーかー」 ほれ! 「チンチンチン」 「かーかーかー」 ほれ! 「チン …」
「 … いったいおらは何ぁーにやってるだんべ」
「ほーい ご亭主、よく来たのー」
なんと背後から返事がありました。
ふり向くとわたしが歩いて来た野道で自転車を押しながらご坊が手を振っています。
「ご坊ー、達者でござりましたかあー」
わたしは左右に握った一升壜を振りかざしました。
「あーい ワシはいつでも達者ぞー、酒っこ持って来たのかー」
静かな静かな山あいに飲ん兵衛二人の声が二回もこだまして山腹から夫婦のキジが飛び立ち、
「ケコー ケッコー」
と鳴いたのでございます。
長くなりそうです、ここまでを(前編)とさせていただきます。
続きは(後編)にて。
episode 5 ひだり前(前編) おわり
ポンプ
朝から良い天気です、お店の前を掃き掃除しようと箒を持って表に出ました。通りの向こうからえらい勢いで近づいてくる俊水ご坊の自転車が見えます。
「ご坊ー 行ってらっしゃいませー 気ばりやっしゃー」
手をふってエールを送ろうとしたのです、また寄り込まれて開宴とでもなろうものなら早晩いや今日にでもお店は倒産してしまいます。
寄り込まれては一大事。いまやサイクルショップみなもとは創業40年にして存亡の危機に瀕しておるのです。
それというのもみーんなあのイグ大僧正のせいですわ。
開店中の昼前から酒のみにくるわ お店のお客に難くせつけて追い返すわ うちのおっかーを扇動して特上寿司をとるわ 帰りの運転代行に自転車バージョンはないからって農協の軽トラをチャーターして山奥まで送らせ当店のツケにするわ…。
あのご仁は婆羅門教の呪いでも背中にくくりつけて走ってござっしゃるのだろうか…。くわばらくわばら。
「ほーい ご亭主、精がでるのう けっこうけっこう」
「あちゃー 止まっちゃったよこのひと。
くわばら呪文は婆羅門衆には効かんのかねー? 雷さまには有効なのに…」
「んー なにか言ったか? あのなご亭主、ポンプ貸せ」
「はっ? ポンプでございますか、あの空気入れのポンプ?」
「そうじゃ あの空気入れのポンプじゃ」
「ご坊、いつも言ってるでしょうに。タイヤのエアは出発前に必ず新規に入れ直すことって。
昨日なんでもなくたって今朝そのエア圧が保たれている保証はないんですよ。
とくにロード車の高圧クリンチャータイヤは僅かな減圧があっても峯打ちパンクを起こすって、忘れたんですかい?」
「いやいや パンクはワシではない、ワシは毎朝出走前にきっちりチェックしとるよ。それに携帯小型ポンプをフレームに取りつけて万一への備えもある。
戒律厳しき仏門道に生きるワシがロード界第一掟であるところの「エア恩讐の法則」を忘るるものか。
じつはの ご亭主、ちと耳をかせ」
「またまたー ご坊、しらふでは言えん なーんて言うんでしょう」
耳をかせと自転車を降りてきたご坊に耳を貸して得をしたことはない。耳もポンプもなるたけ貸したくない。
このご仁、どーゆー修羅の舞台に生きておられるのかお訊ねするのも憚れるほどの破衣破帽、手足は傷だらけで髭の伸びた頬には乾いた鼻血がこびりついている。
千日回峰の荒行を軽るーく一本やっつけて、沢の水を飲んだきり休憩もせず自転車に乗り換えて山を下りてきた。
このあと川に飛び込んで向こう岸まで泳いだら、ラン・バイク・スイムと競技種目は逆ながら、アイアンマンレースですわな。
ボロは纏ってもココロは錦の鉄人 いーや哲人、そーゆーオーラが後光のようにゆらめき立っています。
そのお方が今わが家の戸口に立っている。わたしとおっかーは思わず両手を合わせてしまいます。
そしていつも騙されます。
「僧とは自ら生産の活動はせぬ。せぬが山に籠りてひたすら衆生の来世の安寧を祈り、地上に平和の訪れの早きを願って犠牲となることを勤めとすると天道に宣したる者。
ゆえに日常の糧を托鉢に頼るのはもって当然。衆生は僧への喜捨をこぞっていたす義務を負う」
いつもこのようにおっしゃるのです。
なんだかとっても良いお話を聞かされたような気がして、我が家ではご坊を招じ入れてまず風呂をすすめます。
そしてその間にお膳を用意して日々のご苦労をねぎらわさせて頂いておりました。
近隣の家々でもそのようにされているものと思っておったのでございます。
ご町内には36(5)軒の世帯がございますから年一回のご接待でご坊の健康は保て、ご坊渾身の祈りによって地球および当町内の安泰来福は間違いなしの計算。
ところがご坊にも好みがございますのかご来臨の家に偏りがあるように見受けられます。
当サイクルショップみなもとに立ち寄られる回数が圧倒的に多おうございます。
そりゃー自転車に乗ってのご降臨でございますから、自転車屋により多くのお立ち寄りは不思議でない、むしろ光栄。と隣の饅頭屋さんに話したところ、
「あんた、ひとがよいのもほどほどにせんといけまへん」
と言われました。
さらに先回の真っ昼間からの「大僧正就任祝賀会」を便所の窓越しに観察していた饅頭屋さんは、
「あんた、ありゃーペテンでっせ良くゆーても方便ですがな。気ぃーつけなはれや、今どきご接待の喜捨などしとんのんはあんたトコだけでっせ」
と冷静に言うのです。
「ですが饅頭屋さん、お寺に饅頭はつきものでしょう。配達依頼などないのですか?」
「ないない、あのひとに寺なんかあるもんでっかいな。山奥の谷地に昔またぎの衆が立てたイノシシの捕獲小屋がありまんのや、そこを勝手に改造して住んどるテンプルレスでっせ。
ほんまの坊主かどうか、向かいの酒屋さんがよーけ知っとりますさかい聞いてみたらよろし」
そこでおっかーが向かいの酒屋の奥さんのところに情報収集に参りました。
「あーら政子の方様 いらっしゃいましー。いつもご贔屓ありがとうございましー、評判ですよお政所のお方様」
「お方様はやめてよ。それがねー、ご坊さまがいらっしゃると一升ぺろりなもんでお政所のやりくりは苦しいのよー おまけにお寿司は特上でしょう 一日分の売上では追いつかないのよー」
「ははーん、それでこのところ みなもとさんとこへの売上が多いのねー あの初しぼりは特に高いのよー。今度からは下町ナポレオンに初しぼりのラベルを貼って届けるわしー」
「そうねえ そうしてちょうだい、お寿司屋さんにも電話で特上といったら並の下のことだと言っておくわ」
「お方様、うちの酒屋だって苦しいのしー 山奥の草庵だか猪小屋だかに納めた酒代が回収できなくて困っているのよしー もう三年もよ。
でもとうちゃんは先様がお坊さんだから断れないって言うのしー。
最近は山への配達がなくて良かったしー と思っていたらお方様のところで飲んでいたのね、あのヘタレ坊主」
「ヘタレ坊主?」
「そうだしー あたしの生まれた信州の小布施というところでは、説教たれずに屁コたれるお布施ねらいをヘタレ坊主っていうのしー」
「あのヘタレさま、あ いやご坊さま、ポンプを何にお使いになるんで?」
「うむ 先程この先の那珂川サイクルロードを走っておってな、パンクで難儀しておるマウンテンバイクを助けた」
「おお それは良いことをなされました。で、どーやってお助けに? 念力で直されましたかな?」
「おぬし、仏門のワシをおちょくる気か、パンクは念力法力では直らん。科学じゃよ」
「へっ 科学? ご坊さまが科学でございますか」
「いかにも! 科学というより化学かのう、あの悪名高きフロン#22を地上に初めて創出したデュポン社 知っとるけ?」
「はいはい フッ素系ケミカルの帝王でございますなあ」
「うむ そこのフッ化ブチルゴムを入れたエアボンベがあるな。フッ素は弗素のことで弗素の弗は仏に通ずる文字、ワシは苦々しく思っておる」
「はいはい 携帯便利でポンプ要らず、いま人気のパンク修理用品でインスタント・インフレーターといいます。うちにも置いてます、ご坊 お買い上げですか?」
「いらん! いーかワシは仏門ぞ、保守王道を歩むワシが軽薄なる舶来ケミカルなどに頼んではお目付け役の仁王様にしかられる」
「ははー 恐れ入ります、してボンベをどうされました?」
「うむ なんとそれをマウンテンのご婦人は持っておってのー」
「へっ 助けたのはご婦人で?」
「うむ 妙齢のさらに途方もない美人なのじゃ…。おほん、ともかくじゃ エアボンベを持っておったのじゃ」
わたしはこの辺りからいやな予感がして参ったのでございます。
前著エピソード(0)「男の意地」に数行だけご登場願った高校の先生と後日の祝賀パーティで再会した折に言っておられました。
「妙齢とは何歳の層を指すのかは、発言者自身の年齢と思考階級の等級段数により異なる。概ね好意的意図により使われる曖昧かつ都合のよい形容をさす」
ですからご坊の年齢&好みを考慮するに、「途方もない美人の妙齢」は二十歳台三十歳台とは思えません、四十歳台とすると四十の婦人がマウンテン?
ママチャリでなくマウンテンバイクに乗るオーバー40の美人!
ひとりだけ心当たりがございます。予感と胸騒ぎがいたします。
「ほう ほう それでいかがなされました?」
「ところがじゃ、そのインフなんとかの口金はフレンチ式で婦人のマウンテンには合わんのじゃ。ワシの携帯ポンプでも合わん」
「はいはい マウンテンはアメリカンでございましょう、あるいはブリテッシュ法式かも知れませんな」
「なんじゃそら、そんなにあるのかいな。いーか 自転車の方式はイタリアンが最上至極なのじゃ。なぜタイヤ・チューブにイタリアンはないのじゃ?」
「それはー、空気入りタイヤを発明したのが19世紀フランスのミシュランでございまして、衝撃緩和のうえに転がりが良い。あっという間に欧米世界を席巻いたしました。
面白くないのがグレート・ブリテンと新興アメリカ。それぞれが自国の規格を作って自国の自転車に装着し、今日に至っております。
わが日本では当時お手本としたイギリスの規格を取り入れて英国式でございます。
一方自転車の祖国イタリアではこの争いを対岸の火事と余裕で見ておりまして、何の方式でもオッケイのケセラセラなのでございます。いかにもイタリアンでございますなあ」
「そこでじゃ ボンベを放り投げてワシが婦人のバイクを担いでの、婦人がワシの自転車を押しーのしての、仲良く婦人の家まで歩いたのさ」
「はいはい はいー、して どうされましたかな? うふ うふ」
「どうもいたさん! 婦人を家まで送り届け、取って返してここに来た」
「なーんだ つまんない」
「おぬし なーにを考えとるのじゃ。ほれ これがタイヤサイズじゃ、チューブを一本よこせ。それとそれ用のポンプを貸せ」
「へっ! ご坊、チューブを持ってまた行かれるので?」
「うむ 乗りかかった船じゃ、それに婦人ひとりでは直せんじゃろ」
「たしかあのひとには高校生の坊ちゃんがおられましたが…」
「なんだ 知っておるのか、さすがは町に一軒の自転車屋じゃの。その息子なら今は都会の学校に行って婦人はひとりなんじゃと」
「さいでございましたか 当店には昨年自動車に乗って親子で参られましてな、その折にインフレーターをお買い上げになって… まさかマウンテンとは思いませんでした。
憶えておりますとも、高校生のお子があるようには見えない若くて飛び切りの美人でしたからなあ」
「…」
「オンナはうちのおっかーと隣の饅頭屋のばばあと向かいの酒屋のかーちゃん、それと寿司屋のおかみさんくらいしか普段目にしていないので眼福でございました」
「おい うしろにスリッパを構えておっかーが立っとるぞ」
「ひえぇー ご坊、恐ろしい冗談を… やめてくださいませ」
「ご亭主 早くチューブを出せ、それと業務用のポンプだ。それを風呂敷に包んでワシの背中に結わえてくれ」
「今すぐに行かれるのですか? 残りのトレーニングはどうされるおつもりで?」
「そうじゃのー、婦人からは夕方来て欲しいと言われたんじゃ。お礼がしたいと言うてのう。
夕方にはまだまだ時間があるがトレーニングは終いじゃ。それになんじゃ この汚いなりではいかんの、相手は独身の婦人じゃからのう。
おー そうじゃご亭主、風呂じゃ。それとな、なんぞこざっぱりした衣類を貸せ。
あー それと そうじゃ 手土産も必要じゃな、隣の饅頭屋で名品「栗きんとん饅頭」などをな 一箱用意しておいてくれ」
「あーのー ご坊さま、費用のことでございますが、どのような決算書と相成りますんで?」
「んー 心配いたすな、チューブ代は婦人から貰って来る、その他は友人のしるしとして…なっ」
「チューブ代より饅頭のほうが高こうございますが…」
「おぬしっ! おぬしには仏法の悟りがないのかっ! 拙僧は先程来「友人のしるし」と申しておる。
これは拙僧と共におぬしは常に仏さまのお側にある ということじゃ。ありがたきこととおぼし召せ」
「ははあー 恐れ入りまするー」
ご坊は風呂に入った後わたしの洋服を着て床屋に行き、剃髪ひげ剃り&フェイスマッサージさらに爪切りまで受けて昼前にご機嫌で戻って参りました。
もちろん床屋賃は当店にツケたのでございましょう。
そしておっかーが用意した昼飯をうまそうに食べ、夕方まで昼寝をしてからチューブとフロアポンプそれに栗きんとん饅頭を包んだ唐草の風呂敷を背中に背負い、
「腹にいち物ゥー 背中ァーにやァー 荷物ッゥー ♪」 などと唄いながら超イタリアン&超スパルタンな自転車をゆっくり漕いで出かけていきました。
「あんた、そのご婦人って何処のひと?」
「数年前に亡くなった福島建設の会長(エピソード(0)参照)が使っていた隠居所がサイクルロードの傍の川っぺりにあるっぺ。、空家になっていたのを専務の知り合いという未亡人が借り受けて去年東京から引っ越してきた。
和歌とお花の教室を開くということだったがこんな田舎では生徒が集まったかねえ。高校生の息子がいたが今は東京の大学らしい。
置いて行ったマウンテンバイクを運動のために乗り出してパンクした、そこに折よくあの色気坊主が行き合わせたという作家の筋書らしいよ」
「あんた、なんでそんなに詳しいの?」
「なんでも昔は女優だったらしい、ある金持ちのコレになって引退してからはお茶とか三味線とか趣味三昧だったが富豪が死んで遺産の整理でナンボか貰って念願の田舎暮らしというわけさ。
引っ越してきた当座は町中のオヤジたちに話題だった、美人なんでなあ。
寿司屋で聞いた話ではホレ前の酒屋な、あいつが醤油を持ってよく行っていたらしいがアッサリ振られたんだと」
「まあーっ! 酒屋のとうちゃんやるわねー でも醤油じゃだめよダイヤモンドでなけりゃあ。それで遺産はどれほど?」
「そんなの知らないよ、まっ 億だろな。それよりおまえ ダイヤモンドって何だよ! ダイヤを持ってくればおまえは酒屋のデブでもいーてのかい!?」
「なーに言ってんのよ、あんただって本当は自分がパンク修理に行きたかったんじゃないのっ!」
このあと色気坊主いやイグ大僧正さまがどうなったのか、書くのもいやでございます。
いやではございますが、このままお帰りあそばされなければ当サイクルショップみなもとは万々歳でございますから次回エピソード(5)に書かせていただきとう存じます。
すこーし寂しゅうはございますが、祈ル不帰来貧乏神 なのでございます。
episode (4) おわり
バーテープ
お店の前に俊水ご坊の自転車が止まりました。
止まり方は極めて慎重でこういうときは極めて怪しい。
俗に腹に一物 手に荷物という、自転車は両手がふさがっているから腹にサンモツ分の量を抱えているに違いない。
「げっ また来たよ、こんな早くから何だろう! 昼飯にはまだ間があるのに? 朝飯食わせろとでも言うのかな」
入り口の左右にバイクラックがあります。スタンドのないスポーツ車で来店されたお客様はラックの鉄棒にサドルを引っかけて吊るしておくのです。
サドルのレールが支点になって前下がりに吊るされた車体は極めて安定します。
そのへんに立てかけておいて誰かの一台が倒れたら、将棋倒しになって大騒ぎになってしまいますからねえ。
皆さんご自分の一台には思い入れが強いのです。
このときの前下がり角は自転車の重心バランスでまちまちですが、速いひとの自転車はおおむね似た角度で吊り下がります。
そのことに気が付いた達人たちは隣の自転車とおのれの自転車を見比べて何やら思案顔。
うしろに廻って後輪をチョイと突つき、揺れ具合など確かめています。
ひとさまの自転車をチョイと突つくのですからこっそりやります。
やられたほうのお客様は店内で用品の品定め中ですが、外のこっそりには気づいても知らんぷりしています。
知らんぷりしながら、こっそり君の表情変化を観察しています。
そしてこっそり君が驚愕の表情を浮かべたりすると、「ニタリ」とするのです。
それらの様子をさらにインサイドから見ているわたしは可笑しいやら嬉しいやら、自転車屋冥利に尽きるとはこういうことかと思う一瞬でございます。
今朝はご坊の自転車だけが吊り下がりました。
なんだか様子が変なのはすぐ分りました、ハンドル廻りに違和感があります。
「どうしたんです? ワイヤーがむき出しじゃないですか、転んだんですか? 年甲斐もなく若いひとと競ったんでしょう」
「いやいや そうではない。乗車ポジションを変えようとしてな、ハンドル角とレバー位置をいじったのでバーテープを剥がした」
今朝はご坊、神妙である。
なるほどそれで慎重な運転をしてきたという訳か。
「ほうほう それは殊勝なことでございます」
「うむ ワシも年じゃからのう、スパルタンな前傾姿勢は辛いときがある」
「ほうほう それではスペーサーを噛ませてハンドル基部を上げますか?」
「いや それはならん、断じてならん。そんなことをしてみろ、流麗なフォルムが崩れてカッコ悪るバイクの典型みたいになってしまうではないか。
老いたりといえど拙僧はスタイリストじゃ、流麗にして華麗 ワシの出家名フライング・サンガ・ブッダタートは断じて外せん」
「なんですの? フライング ぅー 何とかって」
「サンガを知らんのか! サンスクリット語で僧伽と書く、タイ語でも発音は同じサンじゃ。隣国ミャンマーのアゥン・サン女史などは第一僧伽の意味じゃから途轍もなき高僧ぞ。
フライング・サンガ・ブッダタートとはな、天駆ける仏陀さまの法衣の端を自転車の前カゴに乗せて満月に向かい飛ぶ比丘のことじゃ。もちっと勉強いたせ。
なに! 比丘がわからんてか? こまった奴じゃ、男の僧を比丘、女の僧を比丘尼というのじゃ。たまにはワシの山に籠って修行いたせや。
いーか ワシはな、飛ぶが如く美しく遠くまで走ることを戒律により科せられた宿命のフライング坊主なのじゃ。かっこ悪るのバイクなんざ乗っていられるかべらぼうめー」
「はははー 恐れ入りまするー。 してご坊さま、本日のご用命は如何に?」
「うむ バーテープをな、一式所望じゃ。コルク入りの白はあるか?」
バーテープというのは、ドロップハンドルの握る部分に巻きつける包帯状のテープのこと。
革新し続ける自転車の外観や用品のなかで何十年も変わらないのがこのバーテープです。
ブレーキ&シフトレバーから延びるワイヤーを内包してハンドル全体を綺麗に巻き上げ、空気抵抗を低減させます。なおかつ滑り止めと手への衝撃緩和の役割を果たしながら視覚上の美醜をも決定付ける重要なパーツ。
事実、綺麗に巻かれたバーテープの乗り手は速いのです。
なぜ速いのか? 気合いです。
断言します、気合いはバーテープに表われます。
こだわりのお客様は自身の手で巻き替えます。これだけはショップに任せないという自意識は健気で崇高な気合いです。
テープの素材やブランドで滑り止め効果が変わりますが、合成コルク粉を散らして混入させた製品は軽さと美観・滑り止め効果・握ったときの清涼感に高い評価を得ています。
バーテープはチームで特注して差別化を楽しむ場合もありますが、個人の好みで色やロゴや手触り感を変えて気分を一新させる効果があり、比較的安価に自分でバイクの雰囲気が変えられる唯一のパーツともいえます。
手で握る部分なので汗による汚れや擦れのほか落車時には破れも起きます。シーズン毎に替えるのは常識です、春夏秋冬で替える・遠征のたび替える・レースごとに替える・転んだテープはゲンが悪いと即替える等々、理由は様々ながら売れ筋商品のひとつであります。
テープ断面はゆるやかな凸型、いわゆるかまぼこ型になっているので巻き重ねた部分が波を打つように仕上がります。
それが独特な美しさとハートに沁みる握り感を生むものですから、しょっちゅうバーテープを交換するテープ・フェチは意外と多いのです。
自転車乗りはマゾフィストのうえにテープ・フェチ、いやー独創的ですなぁ。
巻き方にも流儀がございます。
テープ幅の3分の1を重ねて引っ張りながら斜めに巻き進んで行くのは同じですが、その引っ張り具合で仕上がり太さが決まります。
終了まで息を止めて一気に巻き上げる技には年季が必要、巻いたひとの技量と気合いが判ります。
巻き始めをエンド部にするかハンドル中央部からにするか、巻きの進行方向とレバー部に掛かる部分の処理のしかたで内巻き・外巻き・プロ巻き・勝手巻き・戻り巻きなどあります。
いずれにしろ左右同じように波の流れを保ち、均等な間隔と適度な弾力を持たせてスッキリと仕上げるのが肝要。
良く巻けたバーテープはずれず指ざわり良く、握っただけでモチベーションが湧き上るものなのです。
病院の救急外来でベテランかつ美人看護師さんに巻いてもらった包帯、きっちり巻いてあるのになんと膝が動かせて自転車に乗って帰れた。
包帯巻きが美しく仕上げられていて最後の巻き止めがピタリと決まっていたら痛みなんか忘れ、落車を心配する仲間に見せに行きますわな。
翌日サインペンを持ってまた病院を訪ね、あの美人看護師さんから白い包帯にサインしてもらいたくなりますでしょう、アレですわな。
アホな仲間が巻いてもらいたくて病院の前でわざと転んだりしてね。
さて、自転車はもろある車両のなかで唯一人力ですからライダー出力のための乗車ポジションはとても大切です。
電力や内燃機関など外部動力を一切頼まぬ自転車は、ライダーのポジションと気合いだけで前に進むことができる地上唯一のマン・マシンなのです。
サドル位置が決まったらハンドルまでの距離やレバー類の位置は、お客様の自転車ライフの悲喜こもごもを圧倒的に支配します。
冒頭にご紹介した通り、腹に一物 手にハンドル だからです。
ですからわたしどもは真剣にお客様の体格を測定します。
そして使用目的に合わせ、体力・巡航速度を推察して角度を合わせ、民族骨格表の年齢補正に照らして補正係数をそれら測定値に掛け算します。
わたしどもは、お客様のより良いポジションつまり楽しく美しく長い距離を楽に走り続けられる乗車ポジションを導き出そうと努力します。
自転車は、セット部品で組み立てて 「ハイどーぞ」 「カラダは自転車に合わせてください」 という商品では絶対にないのです。
新規ご購入のお客様がご入店から5分で完成車を即決されても、乗って帰られるまでには最低1時間を要します。
防犯登録や保険手続きもありますが、当店では楽しく走れるポジション出しに1時間以上かけているのです。
10分でお渡ししているというお店を散聞しますが悲しいことです、ママチャリにだってポジション調整のポイントは十数箇所もあるんですよ。
ご坊の申されるハンドル角とレバー位置の変更とは、新車お渡し時に店内の測定器で出したおおよそのポジションから走っては変え、変えては走って確かめながら自分なりに見るけ出したベストポジションを今回ご自分の判断で再変更されたということで、これぞ正しい自転車乗り。
年齢と共に変化する骨格と筋力に合わせた最適合なポジションで体力の全てを前進力に変え、さらに年齢と共に高めた気合いで峠越えの自己ベストを1秒でも更新しようと模索する。
これぞ潔く正しくてさらに美しい自転車乗りの鑑と言わねばなりません。
その意味で「殊勝なこと」と申し上げたのでございます。
仏門異端のご仁ながら気合いのご坊、さすがでございます。わたしは胸が熱くなり思わず両手を合わせてしまいました。
「ご坊、コルク入りの白と申されましたか?」
「うむ 白じゃ」
これは異なこと、ご坊はいつも黒の艶消しテープを使っていました。
「黒はチャレンジャーの色、対して白は大老の色」
「拙僧は修行半ば、まだまだステルスの身じゃから艶なしにしてくれ」
「囲碁の戒律でもそうであろう、白碁を先方さまに勧めおのれは黒を手前に置く、先に白を取ったら物事を知らぬ田舎者とそしられよう」
「芝居見物の通は幕あいの黒子を見に行く。派手な拍手やかけ声などはせぬが、黒子の楽屋にそっとご祝儀を渡す。粋とはそういうものでござろう」
そのようにいつも言っておりました。
お店で品定めする若いお客が白色のテープを手に取ったりすると、
「おぬしの様な若年の輩が白を選ぶとは笑止千万。よいか 白はローマ法王さまの法衣の色じゃ。罰当たり者め 選び直さんかい!」
うろたえた若いお客がおずおずと次にレジに持って来たバーテープが紫色だったりしたらもう大変、
「馬鹿者めが! 紫は弘法大師さま以外は恐れ多し、滅多な者は触れてもならん。紫はのう 破戒と言われるこのワシでさえ三歩さがって平伏拝謁する高貴の色じゃ。
大師さまの御印を汚いその手で手掴みするなど以ての外の想定外。
たとえ日本国内法では許されようとも、仏法滅私奉公人のこのワシが命に懸けても断じて許さん、選び直さんかい!」
泣きそうなお客がよろめく足取りで柿渋色の落ち着いた色調のを持ってくると、
「ぬしゃーワシに喧嘩売っとるんかい! その色はダライ ラマ14世の袈裟衣やないけ。帰れーっ!」
「あの ご坊さま、ほんとに白でよろしいんで?」
「うむ 黒は卒羅じゃ、じつはの ワシ大僧正になったのじゃよ」
「ひえー ご坊さまが大僧正さまに? ひえーひえーひえー! これ おっかー お祝いの支度をいたせ。 ご出世じゃ、大僧正さまじゃぞー。
早くいたせ、ご酒をもて、なんでも構わん いやまて目出度い酒にしろ、鶴でも亀でも松でも桜でも なんでもいいから目出度いのにしろ。 あーまて 今日は店を閉めろ お祝いじゃ。
なに! 器は赤ですか?だと、 当たり前だ紅白のがあっただろう。
なに! あれは猫のお椀になりましたぁ? 構わん 洗って持ってこい。 あーそれとな 紅白ときたら右端に緑だ。そーしてそれをひっくり返せ! 緑白赤 自転車の故郷イタリアの国旗だ。
なに! 緑は何を使いますかぁ? アレがあったろ 菜っ葉の漬物が、信州のナガノさんが送ってくれた野沢菜があったろーや」
「あの もし 旦那さま 誠に申し上げ難きことなれど その菜なれば、京の鞍馬より牛若丸が出でまして その名を九郎判官」
「なんと 今日のことか、されば 義経にしておけ」
「あー オホン、ワシはイタリアの掛け合い落語でなくとも構わわんぞ、紅白のさえあれば…。それにしてもご亭主、奥方どのはなかなかの才でござるのー」
「いやー 恐れ入ります、ささ どうぞ ご酒を召し上がって 只今細(さい)が紅白のかまぼこを切って青ノリをかけております。青白赤、ツールの聖地 凱旋門のフランス国旗でございます」
「ほっほーっ! おっかーから細君にご出世か? いずれ仏蘭西のお万所、マリー・アントーワネットになられるであろう」
「いやー 恐れ入ります これ政子、大僧正さまにお祝いを申し上げろ」
「なんと! お万所さまは政子姫でござったか。しからば北条家から参ったか?
「はい よくご存知で」
「いやいやいや そうでござったか、それは目出度い。来るたび馳走になって相すまんなお万の方さま。
おお そうじゃ! 当家はサイクルショップみなもと じゃったのう、ご亭主は為朝どのか? いやー じつに目出度い」
「目出度いのはご坊さまでございますよ、大僧正ともなれば総本山へご栄転で?」
「本山? ワシには本山などござらぬよ。ぬしゃーワシを遠くへ飛ばしたいのか?」
「へっ? … ご出世でございましょう?」
「うむ 大僧正というのはな イグ大僧正なのじゃ」
「へっ? イグ大僧正 … なんですの?」
「うむ しらふでは話せん、まあ飲め お万所の方さまも飲め」
どうもこのあたりから話が変になって参ったのでございます。だいいちしらふであんな駄洒落が言えますかいな。
正月早々から店を閉めて行われた大僧正さまご祝賀の宴、その顛末はシリーズ(4)にて詳報いたしたく暫時休憩させていただきます。
休憩理由はシャックリが止まらないんですわ。
「やい! クソ坊主 おらの注ぐ酒が飲めなーい てぇーのかべらぼーめー ヒック」
「ワシはのー ヒック、初しぼりの柳影が飲みてぇーと申しておるのじゃ お万の方どの聞いとるかー」
「僧正さま わちきもヒック、 鞍馬より牛若丸が出でまして そなたのヒックを九郎判官 ヒック 義経にしておけー」