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漂流の冒険者が最後に命を託すのは、一箱のマッチとその中に忍ばせた釣り針と糸。
そして手に馴染んだ一丁のナイフ。
後年、孤高のアドベンチャーと呼ばれた男が書いた回顧録に 「このナイフが生還への望みを繋いでくれた」 と懐述する高名なナイフがある。
「スイス アーミー」
赤い柄に白い十字の紋章。
モチベーションを掻き立てるその佇まいに触れると、どんな男でも血が騒ぐ。
国は違えど主義は違えど男が家のドアを出て (プロペラ機のドアを出てのほうが数倍絵にはなるのだが) 階段を降り、地上に立ったときの最初の所作は決まっている。
空を見上げて雲の流れを見渡しながら手を胸に当て、衣服のうえから赤いナイフの存在を確かめることだ。
このナイフで命を救われた者は世界に何千万人もいようが、もしもそのナイフが水に浮いたなら、その数は数百万プラスされただろう。
そこで、俊水工房が作りました。
小さくて軽くてしかも水に浮く。だから失くさない。
泳ぎ着いた無人島の砂浜でポケットに残っていたマッチ箱とナイフを乾かしながら、彼は海の彼方を見つめて呟く。
「まったくひどい航海だったぜ、大王イカの好物がカーボン製のヨットだったなんてGoogle+には書いてなかったが、切り取ってやった奴の足を一本持って来たから当分食糧には困らない。
なあーに来年のクリスマスまでには家に帰ってチキンが食えるさ。
おれのナイフは俊水スペシャル、バオバブの木だってくり抜いて海洋カヤックを作ってやる。塗装なしの木製なら奴の吸盤も吸いつけまいよ、へっ ざまーみやがれ」
life save knife 俊水スペシャル 「float and return」 をご紹介します。
販売価格・納期はお問い合わせください。ブレードサイズと必要浮力をご相談のうえ見積りいたします。
ご参考: 写真(3)の既製品仕様は¥2160、即納可。写真(1)の中央にあるものです。
写真(2)は最小タイプ、鮎や秋刀魚は捌けますが太刀魚ではどうでしょうか。
収納ケース・首掛けストラップ等は設定がございません、自作をお奨めいたします。
その理由は: アドベンチャーは自分に合わせて作り替えるのが常、セットにしても無意味と当工房では考えます。
その分お安くしています、価格は消費税8%を見込んでの算出。
素材 ブレード … OLFA JAPAN stainless
柄 鞘 … 白木
目釘 … 竹
接着剤 … no answer
塗料 … no answer
仕様 寸法 … 175x22x8mm
重量 … 22g
浮力 … 19g 海水に投じて下側2mmが沈みます。
前回(その1)で今やテレビで超人気 「北限の海女」 のことを書いた。いや 書いていない、後にあまちゃん候補となったであろう二少女のことを少し書いただけだった。
どういうことかというと、
二年前の初夏、ワシは青森の下北でエネルギーを使い果たし家に帰る途中だった。
六ヶ所村や小川原湖のあたりは無言で下りてきて、八戸を通ってヨロヨロとたどり着いた岩手の 久慈市でウニ丼を食って甦ったところまで書いた。
そのころの東北地方は3月に起きた東日本大震災の余韻が色濃く残っていて、久慈の浜でも 「北の海女の素潜り実演」 どころではなかった。
二少女には、汚れ物を洗っていたコインランドリーでへたれかけていた正にそのとき復旧支援のボランティアに間違えられてお礼を言われ、戸惑ったと同時に勇気をもらったものだった。
その娘たちが今夏は元気な高校生海女になって、ウニを掲げてニコニコとテレビに映っている。
二年前、ワシが微財を落としてきた久慈のスナック街は震災の影響が少なかったようで営業していたが、もっと震源に近い街や大津波にのまれた地域まで南下して、太平楽に開けているスナックなど探していたら殴られても当然だった。
さがすものが違うべえ。
初夏になっていたから凍えることはなくなったが、気温が上がれば蠅と腐敗臭のなかで瓦礫をどけながら、手懸りのない家族や知人を捜していたのだ。
この二年で復旧は復興と文字を変えたのだから感慨深い。
気になるのは復旧の進み具合と、なにをもって復興というのかだ。
本年6月に微力ながら復興応援のイベントに参加させてもらって、宮城県の海側の町、亘理漁港に立ち寄ったことがある。
船の着く岸壁は捻じれたまま手つかずで、海底が浅くなってしまったのか無人の船が沖の方に係留されていた。
ワシらを迎えてくれた漁港のおかみさんたちは朝から大漁旗をおっ立てて、ドラム缶に炭を熾してホタテを焼き、大鍋に磯汁も作って、仮設のトイレを掃除して、選手スタッフ100名ほどを温かくもてなしてくれた。
元は何が建っていた土地なのか更地の上に設置したテントでそれを頂いたのだが、潮水に洗われてしまった地面に山砂を敷いただけだから変に茶色くて妙にふかふかしていて、二年経ってやっとペンペン草がひょろりと生えていた。
そんな状況なのにワシらが再スタートするときは法被に白足袋、花笠を背に負って、名物磯踊りを賑やかに披露して見送ってくれた。
応援に来たはずのワシらが応援されてどーすんだ。
なんだか怒りがこみ上げ、力まかせにペダルを踏んだらしくトップに躍り出て独走してしまったが、旧市街の残されていた舗装の割れ目に浸み込んだ二年前の塩が初夏の日差しに滲み出してタイヤがベトベト音を立てるころ、集団に吸収されて後ろに退がった。
そこまでは後方の港でどんどんと打ち鳴らされていた太鼓の音が心拍数によく合っていて、きれいな高回転が出来ていたような気がする。
あのビートを憶えておけば、次のイベントでもトップ独走じゃい。
亘理漁港の復興はまだまだだが、おばちゃんたちの笑顔が先に復興していたことを見られた。
作り笑いだっていいやね、法被 白足袋 花笠 太鼓に大漁旗、流失した祭り用品を真っ先に新調した心意気にワシは車上で泣いたよ。
泣いていなければあのままトップだったんじゃい。
あまちゃん仕掛け人の宮藤官九郎氏も震災直後から宮城でボランティアとして汗を流して働いていた。あまちゃんの脚本はこの時点では氏のアタマの中にしか無かった。
それが今年になって、満を持したものか偶然なのか突然クドカン マジックがさく裂して袖が浜の、いや久慈のウニ丼が大ブレークした。
またたく間に久慈のウニ丼は宇都宮の餃子丼や厚木のシロコロ丼、横手のやきそば丼を大きく引き離して全国一のヒット丼にのし上がってしまった。
なのでワシが食った二年前のウニ丼はメジャーになる前の普通のウニ丼、それもたぶん下北のほうから運んで来たのであろうウニのウニ丼を食って帰ってきただけということになり、今はなんだか少しくやしい。
あんな修羅場のなかで食い物にめぐり会えたのに、くやしいと言うのは不謹慎な話しではある。
だが被災地が落着きを取り戻してきた今年になって、そのくやしさに拍車がかかったのがお盆休暇中の昨日、知り合いから届いた一通のメールである。
「やい よっくと読め! おらもよー 北限の浜でお夏ばっぱのウニ丼と あんべちゃんのまめぶ汁を毎食三回食ってきたどー。 じぇじぇうめがったがや。
どーだ これでアンタの大間まぐろ丼を一車身半もブチ抜いてゴール前にかかっておるどー、くやしかってら抜き返してみれー」
こーゆーおひとは北三陸みやげなど届けて来ない。
「じぇじぇ うめがった」 というウニ丼とまめぶ汁の写真だけなのだから何とも無礼なご仁である。
ワシは「大間 まぐろ魂」と染め抜かれたTシャツを買ってきてやったのに…。
遠路だから生ものは無理としても、小田勉爺さんの掘り当てた「毛虫の卵が封じ込められた琥珀のタイピン」など賞味期限無限の乾物が駅の売店に並んでいたっぺに。
「ばかやろー オメらは北限の海女が獲ったウニを食ったと威張っているが、オメらが食ったウニは北限ではねーぞ。
もっともっと北の下北の、まぐろ漁師の店の窓越しになあ、下の岩場で真っ黒いウニがいっぱいウニウニ動いていたのをワシは見たぞ。大間まぐろを手づかみで食いながらなあ。
それに それに何だぞォー、そもそもオメらは 「北限のふぐ」 を知るまい。
知っててたまるか べらぼーめー。
あれは超マイナーな北限だからなあー。
ワシはなあー 「あまちゃん」 ブレークの一年前に久慈と同じ北緯度を西にずーっと行った日本海側の男鹿で、北の限界といわれる「北限のフグ」を食った。
じゃがオメらのように自慢たらたらなどしなかったぞー。 たらの塩漬けを干して裂いたのが ぽんたら じゃー あほんだらー。
男鹿と言ったら秋田音頭の おがブリコ に決まっとるだーが、奇匠クドカンが次にブレークさせるんのんは男鹿のふぐだあー。ざまあーみれー 二車身リードじゃー」
このご仁を知り合いリストのホルダーから迷惑カテゴリーに移行してやる前に 「日本海北限のふぐ刺し」 の写真を送りつけてやった。
それが前回(その1)の写真である。
本欄をご覧の団塊屋ファミリー諸氏に対し、マイナーな北限ふぐを自慢するつもりなどはさらさら毛頭ないのです。
これを機会に北限という言葉を考察してみたいと… この何ともロマンな響きのルーツを真摯に考えてみたいと… そのような観点から真面目に… お盆で閑ですから…。
南限のリンゴだの南限の山女魚だのも当然存在するにはするのだが、北限の猿ほどのロマンを誘起しないのは何故だろうか。
北半球における南限という言葉には、北上に伴う寒さの境界を破ってさらに北進するパイオニアニズムみたいなロマンを誘う何かこう、悲情なというか悲壮感がありませんよね。
南には何でもあって当たり前みたいな雰囲気で、けな気さを感じない。
庭に勝手に繁っているバナナを食ってポーっとしている酋長おじさんのイメージは質実剛健を宗とする日本人にはいかにも合わん。
Wikipedia百科事典によると青森リンゴの南限は南信州飯田市辺りだそうです、富士山を越えた南では結実しないらしいが、はっきりとはしない。
はっきりしなくとも特に構わん、実害などありゃせんよ。みたいなところが諸氏にもありませんか? ありますよね。
山女魚は山梨 静岡の富士川水系あたりで関西のアマゴと交雑し、天然痘のような赤い斑点が体側に出て気品を落とすから話しにならない。
どうも富士山より以南以西の水は関東の渓魚には合わないようで、岩魚にいたっては箱根の関を越えて釣れたという記録はない。
しかし亜種なら屋久島にもいるよ、というのだから何処で線を引いたらいいのかわからない。
日本の淡水魚は分類の仕方、名前の仕分けが南へ行くほど誤っていると申し上げるしかない。
つまり南へ行くほどグズグズなのだ。
これは年間平均水温と大いに関係しているに違いない、富士山より南に居住する諸氏は (当欄読者にはいないと思うから断言するのだが) 冬に川が凍結することなど知らないから、氷の下の魚のことはどーだっていい感がきっと強いのだ。
つまり南へ行くほどグズグズなのだ。
一方熊本みかんの北限ははっきりしていて、栃木県那須烏山市の観光梨園の片隅にあったみかんゾーンだ。
ここに 「北限のみかん園」 と書かれた幟バタが立っていたのをワシがこの目で確認している。
いつのことかというと、当時育メンパパだったワシが3歳くらいになった娘を連れて梨狩りに行ったときだから、すでに30年は経過している。
この30年に地上の平均気温は1℃上昇したとされ、みかんは北進が進んで北限は福島県白河市辺りまで行ったかも知れない。だがフクシマといえば桃だから紀州和歌山に対抗してまでみかんを作る農家はない。
別情報で新潟県佐渡で収穫されたというみかんは、庭木の観賞用夏蜜柑のことだったので正確にはみかんではないことがわかっている。
室内の鉢植えなどを除く営農としてのみかん北限は現在も那須烏山市と結論しておきたい。
また那須烏山市周辺では梨の栽培も盛んにおこなわれていたが、前出の百科事典で梨の北限は秋田の男鹿半島であると断じている。
ここでも男鹿が出てくるのは偶然であろうが、男鹿と久慈を結んだ緯度線は糸魚川静岡構造線のように何やら大きなオーラを含んでおると、おーらは睨んでおるだ。
かようなる程に南限の境はあやふやながら北限についての確認は地上の動植物1億種についてチッチリ決まりがついている。
ただし人類についてはこの50年で北限南限はおろか宇宙も深海もなくなってしまったのだからこれは誠におかしい。
生きもの1億分の1種は、ありゃーとんでもない異端種だったのだ。
米政府の極秘匿文書 エリア51に所蔵されているアノ写真は元ソーリのハトヤマ某氏に似ていると思いませんか。
人類はかつて南方で生まれ、少しづつ時間をかけてカラダの進化と文明の進化を手に入れながら北を目ざして地上を前進して行ったのだろう。
持ってきた植物の種子を蒔いて育て、それを食べた子が種子を携えてさらに北進を続けた。
うーむ ロマンだなあ。
北進による気温の低下に適合して育った種が世代交代をくり返しながら北海道まで渡って行って、しまいには唐黍(とうきび)薩摩芋はおろかベトナムの米まで育てた。
その遠い祖先のパイオニアの記憶が今も我々の体内に残留しているので、南より北に憧憬を抱く。
北進できる種を改良することに情熱を燃やしているうち、人類はいつの間にか自分のカラダも北方型に変えていった。
植物は基本的には土に寄生する生き物だから根っこ部分の自発的移動は無い。
地下茎を伸ばしつつ前進する手もないではないが、そーゆーまどろっこしいことは日本人の質実剛健にそぐわない気がするので当欄では無視する。
次代の種子を風に飛ばして移動するか人間に連れられたり動物の毛に引っ付いて行く、というのが当欄らしくて好きだ。
好き嫌いで進化論を展開したって、ひとつの論だからいいのだ。 どーせ専門家は読んでいまい。
南方由来の植物は一気に北の遠くまで行ってしまうと、低温環境と日照不足に適合出来ずに死ぬ。
万一生き残っても単個体だけでは繁殖できず、やがて滅亡する。
単個体で繁殖した原始植物は三代目でDNAが先祖帰りして低温に耐えられなくなり、やはり滅亡する。
その境界緯度を植物限界の北限という。
人間や動物は行った先が過酷な環境だと判断するといったん逃げ帰って捲土重来を期すことが出来るのだが、このとき置き捨てられた植物の種子は凍死するか運よくそれを免れた者は土に潜って百年先の気温上昇、つまり春を待つのである。
古来種の大和タンポポは緯度線一本超えるのに実に千年の歳月を要した。
ところが外来種の西洋タンポポは千年分の距離を僅か50年で越えて来て、いまや津軽海峡に迫っている。
フェリー船に向かう自動車のタイヤを洗浄液で洗う措置を求められるゆえんである。
動物の場合は、自力移動の手段であった手足を道具を持つまでに進化させたときからその多様性は速度を得た。
伊勢志摩など南海が本場であるべき海女さんが、北の岩手の海岸で流木を燃やして暖を取りながらも冷たい海で素潜りウニ漁を可能にしたのは、ウエットスーツや水中眼鏡やシュノーケルの開発だという説もあるが、単にそれだけではねえだ。
彼女たちのモチベーションがカラダを北の海用に進化させたのだ。
「あまちゃん」に出てくる陽気なおなご衆もそうだが、その一世代前のオールド海女衆あたりからモチベーションが変化した。
遠洋漁業の大型船が出港して、半年は帰って来ないとーちゃんを見送ったかーちゃん連は暇とエネルギーを持て余し、町のスナックに集まってはカラオケで橋幸夫の「いつでも夢を」なんかを歌っていたのだが、
そのうち加山雄三の「海の歌」が流行って変化が起きた。
加山らしく自主独立の気運が高まって、網元に搾取されていた海女漁の収穫の対価に疑問を投げかけたのだ。
それまでの丁稚奉公的お抱え海女制度を打破して、それぞれが起業家として独立の ひとり親方制 を取り入れた。
「おーし おらだぢはおらだぢで海さ入ってウニを獲って現金収入にすっぺー、ほんでもって焼酎のグレードをいちランク上げべえー」
「とーちゃんが帰って来たらN360を買ってやっぺー、ほんでもって おらは半年間の休業だあ」
「おらはとーちゃんの立派な仏壇を買ったどー」
「そらー えがったなあ、おらだぢで やもめスナックも開くべー」
「DMM ドット コム対応のカラオケ機を置くべー、リースだねーどおー 買い取りだあ」
とーちゃんを戦争で失くしたかーちゃんと、遠洋で遭難したしたまま帰って来ないとーちゃんを待っているかーちゃん連が、社団法人の海女組合を立ち上げて給与体系を明朗化するまでさして時間は掛からなかった。
ダメ押しはサザンオールスターズの登場だった。
「チャッコイ海岸物語」 は大声で歌うと絶大なドーピング効果が発揮されます。
これをお陽気に歌いながら潜ると体温が上昇して肺活量も増し、潜水時間・深度が20%延びたのでチャッコイ海でも収穫の量と質が40%も向上した。
ひいては勤務時間の大幅短縮となって町のスナックは午後2時から開店。
久慈市のスナック店舗数が市の面積当たり全国平均を大きく上回って日本一の理由です。
そのかーちゃん連の産み育てた次の世代が、今放映されている「あまちゃん」に賑やかに登場している北の海女衆なのです。
彼女らは稼ぎがよいからとーちゃんを遠洋漁船に乗せずとも養っていけるのです。うらやましい。
だがとーちゃんとて海女の母親から生まれた海の男。
「一日中パチンコなんかしていられっかー」
と遠洋船に乗りたがるんだそうです。
「港港に女あり」 は海の男の聖域というか、冒しがたい永遠のロマンですものねえ。うらやましい。
母から受け継いだモチベーションというドーピング効果は非合法でないことが確認されていますが、海女の皆さんが渡辺えりさんや美保 純さんのようにふっくら体形なのは後遺症なんですかねえ。
ともかく、体温を上げてふっくら体形にして酸素をたっぷり担保してチャッコイ海でも平気で潜る。ラッコのように久慈の海女さんのカラダが変わったのです。
カラオケ効果なのは瞭然ですが、これ進化とちゃいまっか。
海女の北限が少しづつ北上してきた進化の原点は、
遠洋船に乗って海に出て行きたがる男と、帰りたくない男を待ちながらスナックで「チャッコイ海岸物語」をお陽気に歌うドーピング女たちにあったのです。
今年、サザンオールスターズが長い休眠から覚めて活動を復活させました。
復帰ファーストツアーは久慈海岸の烏帽子岩にきまりですな。
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「あまちゃん」テレビ効果により初代ドーパーから第三世の高校生海女が急増して後継者もできた。震災後の久慈の海女漁は完全復活しました。
これには宮藤官九郎氏も予想外のあまちゃん効果に驚いたことだろう。
ワシも思わぬことで「海女の北限進化論」が展開できてよかった、一歩ノーベル賞に近づいた。
ワシの知り合いホルダーから削除された迷惑爺さんが、北限海女に会いに行ってウニ丼を食って感激していることも、進化論を踏まえて考えるとあながち「ミーハーの単純爺め」とは非難出来まい。
北限にはそれほど深い男と女の文化的意味があったのですからなあ…。
したがってワシが「北限ふぐ」を当欄に書いても批判はない。ないはず、 こーゆー論調になりますな。
北限のうんぬんは 海女だけやないでー、さらに北の下北半島には 「北限の猿」 や北限の日本古来野生種 「寒立馬」が立派に暮らしておった。
しかも彼らは9割5分人間の手を煩わせずに自立しておる。立派やないけー。
北海道輓馬レースの巨体の道産子馬は寒立馬とは違います。
道産子馬は、いわば耐寒性の駱駝(らくだ)です。アラブから連れてきて耐寒に改良した馬ですから進化とは言いません。
人から餌をもらって、お返しにカラダを変えただけでは昆虫における変態の領域を出ませんから進化や北限の論壇には上がれないのです。
その証拠に、
「後から勝手にやって来た人間どもが地代の代わりのつもりか置いて行く餌箱を無下に無視しては友好的でないから、たまに食べてやっているんだあ。
だが思い上がるなよ人間ども、おらだぢのメイン食は山の木の実と崖にへばり付いた棘のある草だ。冬に飢えたってこっちからアタマを下げて出て行くことなど、けっしてねえだ」
猿も馬もそーゆー顔をしておった。
奇才 宮藤官九郎氏の奇策に軽々に乗って、大吉駅長の北三鉄道リアス線に喜々としてガタゴト乗って行くのはもちろんよい。
だがそこまで行ったのなら、もすこし足を延ばして欲しかった。
陸奥湾の向こう側まで行って脇野沢漁港の北端、九艘溜(くそうだまり)の岩山をよじ登って北限猿の 「干し芋」 を横取りして食い、
カモシカの糞を乾かした炭で燻製した北限カジカを囲炉裏でコンガリ焼いた骨酒を飲んで、北風の吹き抜けるボロ民宿で眠って元気になったら、
さらに恐山山地の緑の地獄を縦断して北の岬の尻屋崎に立って、太平洋の風に吹かれながら寒立馬の餌箱から失敬した 「干し大根」 をバリバリと音立てて食ってこそ、
本州北限三大奇グルメツアーが完結するからでっす。
しかしそれは自転車で行かなければ実現できない道のりなんじゃ。
バスやタクシーなんか走っていないし徒歩では踏破不可能だからだ。
ざまーみやがれ ワシはのう、北の三大奇グルメを下北で、翌年には男鹿の 「北限のふぐ」 も堪能した北限マイスターじゃぞ。
あとは北海道だけじゃが、オホーツクのひ熊は本州の月の輪熊と違うてロシア語が話せんと友好できん、クロ尾白鷲もそうや、あの地はかつてシベリアと地続きやったでのう。
そんな訳でワシは北海道には手を出さんのや。あそこは松山千春に任せておきたい。
ワシが北限のふぐを食った2012年は、まだ久慈の北限海女やウニ丼はメジャーになっておらんかった。
今年急に有名になり過ぎたからワシは行かん、ブームが過ぎたら行ってやるわい べらぼーめー。
さて写真の説明、
この年の夏は二度秋田へ行った。
一度目は山形の酒田をスタートして鳥海山を越えて秋田に入り、今は仙北市と名を変えた大曲の花火大会を見る計画だった。
ワシが早目に行って会場となる雄物川の土手に陣地を構え、あとからホラキちゃんがオートバイに食糧と酒を積んでやって来る手はずだった。
なにしろ人口2千人の町に50万人の見物客が押し寄せてくるから一週間前から陣地を確保しておかないと、当日では大曲市内にさえ入れない混雑なんだと。
「花火会場では自転車の盗難が予想されるからコルナゴで行ってはならん」
と進言してくれる者がいて、急いで「サイクルベースあさひ」へ行って店頭にあったのを買ってきたのが写真の自転車。
万一盗まれてもショックの少ないこのオチャラケた自転車に、盗難保険と傷害保険も付けてスナック一回分のお値段。
コルナゴはスパルタン過ぎて保険に入れないから喜んだものの、このファニーな自転車で峻峰 鳥海山を越えて行こうというのだから秋田をナメたスペックである。
鳥海ブルーラインに入って激坂の連続となって、ローギヤまでシフトしたらチェーンが外れた。
止まって手で復旧して走り出すと、次の激坂でまた外れた。
ローギヤのままにしておけば登って行けるが、山というものは登れば下り、また登るのくり返しだ。
他のギヤだって使わなければならないから下りではトップまで変速される。激坂以外はローにシフトしないようにして登って行くが苦しくなればついついローにしてしまい、また外れる。
これを3回も繰り返せばグローブは油でドロドロだ、ライダーのモチベーションもドロドロだ。
そのうち太陽が照りつけて汗で前が見えなくなる。
自転車は走っていれば風に当たって真夏でも平気だが、坂の途中で止まってチェーンを直したりしていると転がり下るからイライラが積もり、体温も籠ってサングラスが曇る。
手持ちの簡易工具では如何ともし難く、道端の石を拾ってシフターを叩く始末。
ドロドロのイライラでは体力をいたずらに消耗するばかりとなって、ヘロヘロと道端にヘたれ込んだ。
そこへ沢のほうから大群の虻(あぶ)がやって来て、払っても払っても付きまとって刺す。
虻は自転車の速度より速く飛ぶことも出来るが、追かけて飛びながら刺すことはない。
奴らは動きの遅い動物の体毛やライダーのウエアに足を絡めて体勢を整えておいて、口角の牙を思い切り突き刺す。
だから止まったら駄目なのだ、満腹になるまでウエアの上から何度も牙を突き通して血を吸われ、最後は痒くて狂い死ぬ。
奴らはその瞬間を待っているのだ。
虻の牙と唾液には血液の凝固を遅らせる作用があり、それはとても痛くてしかも痒い。
チェーンを直している数分間に何か所も同時に襲撃されるから、手足をばたばたさせて逃げ廻るのに忙しくて修理にならない。
しかもこの日この山に獲物はワシひとり、血の匂いが山内じゅうの虻を呼んでしまった。
「最早これまで」というのはこういうことだ。
鳥海山頂をはるか遠くに見ながらワシは自転車の向きを変えた。
山を下りることにしたその地点ではまだ山形の山中だった、写真の道標にある国民宿舎大平山荘を越えなければ秋田ではない。
完璧に打ちのめされていたが、ホラキちゃんが別ルートから出発してしまってからでは遅いから腫れてこわばった震える指で携帯のメールを恐る恐る送った。
ホラキちゃんの怒ること怒ること、書くに堪えない悪態の限りだったから書かないが、彼の人間性というものが見えたね。
「そりゃー大変だったねえ、勇気の撤退ということで了解です。休みながら安全に帰ってよ。なあーに 花火は来年もあるさ」
この程度のことは言えー!
虻に刺された痕は腫れ上がって痛た痒く、家に帰っても二三日寝込んだ程だった。
ありゃー蜂より怖いね。
森の吸血鬼といわれる陸蛭(おかひる)も恐ろしいが、大群で襲来する虻はもっとタチが悪い。
寝込んでいるあいだ悪夢にうなされた、虻の顔がホラキちゃんの怒り顔だった。
それでも四日目に気丈に立ち上るとオチャラケ自転車のチェーンラインに手を加えて旅支度を整え直し、傷の癒えた三週間後には秋田リベンジに再出発したのだから大したガッツだ。
ホラキちゃんには黙って出発した。
前回の山形道より北側の秋田道を行く、すでに秋風が立ち始め見渡す秋田平野にはススキの穂が揺れていた。
大曲花火大会は先月終了している。二度目の秋田遠征はトランポでこの辺りの内陸部をスルーし、男鹿半島の付け根の潟上市にベースキャンプを置いた。
海の方なら虻は出ないだろう、それに自転車のチェーンラインはアップグレードのシマノの機材で完璧に組み直してきた。
何としてもこのヤワなオチャラケ自転車で秋田を攻略し、リベンジを果たさなければ男のメンツが立たん。
ドイツ語で男の名詞をMenschというが、日本語の面子が語源だ。
男鹿半島の付け根には有名な八郎潟干拓地が広がっている。
六七年前に、干拓地内の平坦なソーラーカー試験場を会場にして行われた真夏の自転車耐久レースに出たことがあって若干の土地勘があった。
その時に西の遠くに見た男鹿の麗山、寒風山を登ってリベンジにしようとやって来たのだ。
潟上市の道の駅「てんのう」には温泉施設が併設されていて、長期滞在なのかキャンパー仕様のバンや洒落たトレーラーを引いたクルマが広い駐車場の木立を陰にして数台停まっていた。
こういうシチュエーションは治安の良さを表している、ワシも躊躇なくここをベースキャンプに決めたのだ。
翌朝早く目覚めて自転車を降ろし車内で着替えて準備をしていると、一台のパトカーがスーッと寄ってきてスーッと行ってしまった。
思った通り治安はよい、トランポを留め置いても大丈夫だ。
5時にスタートして男鹿半島本体に掛かるまでの国道は早朝なので通行量少なく快適だった。
国家石油備蓄基地といういかめしい施設の有人ゲート前を過ぎると、いよいよ半島めぐりのスタートだ。
道は狭いがクルマは少なく信号もない。そんなもの要らないのだ、ワシしか走っていないのだから。
ほどほどのアップダウンをくり返しながら半島を右回りに海沿いの道を進んで、10時ごろGAOの愛称で有名な男鹿水族館に着いた。
ここで生まれたホッキョクグマの赤ん坊「ミルク」人気で観光バスが何台も来ていたが、トイレだけ借用してすぐにリスタート。
こんな大型バスは何処を通ってきたものか、朝から抜かれたクルマなどないのだが。
島や半島は右回り、内陸と湖は左回りにコース設定するのが自転車のセオリーなのだ。
その理由や意義を解説しても読者には煩わしいだけだから止めておく、昼前に最遠地の入道崎に着いた。
やっと観光地らしい雰囲気になって食堂や土産店が一列にならんでいる。
朝から見かけなかった自転車ライダーが数人いて、手を上げてスタートして行くのを見送ってワシも昼飯にする。
女連れなら店を選ぶところだが一番手前に建っていた魚料理の店に入った。自転車を停めやすかったことが理由なだけだ。
海鮮丼を頼んでからウニ丼のウニだけ別に頼んだら快くOKだった。
ここが終点ならビールも頼みたい対応だったがまだ半分の道のりだから食事に専念する。
時系列を整理しておくと、この年は「あまちゃんのウニ丼」はまだブレークの一年前だった。カロリー重視のサイクリストは感慨もなくガツガツと食って立ち上り、
入道崎灯台の下のトイレに寄ってリスタート。
ここまでのサイクリングシーンを面白くも何ともない書き方をしているのは、自転車に興味のない読者に道の斜度がどうのペダル回転数がどうのと書いてみても詮無きことと最近気が付いたからだ。
思い切って書こう、
いやー 素晴らしい景観に心躍る男鹿のサイクルロードであります。
魚は美味いしおばちゃんは親切だ、ぜひ皆さんも来なんしー。
半島をほぼ周り終えて間口浜というところから寒風山に向かって右折した、ここからは登り。
寒風山はこじんまりとした低木の山で、風が強いためか上に行くほど熊笹の繁っただけの見通しのよい山、登り口から山頂が見えている。
これから行くべき登山道が全部見えているというのは、じつは恐怖だ。
山だから、登っても登っても登りが続くのは当たり前なのだが道は森の陰になって見えないほうがよろしい。
前回の鳥海山ではチェーンが外れ虻にやられて断念するまでは、あの先を曲がれば下りもあるだろう、あそこを越えれば楽になって頂上に近づく。
そーゆー期待感がモチベの原点になって頑張れた。
ところがどーだい、この寒風山はよー、どこにも足を休めさせる緩い傾斜がなくて、ずーっと続く登りの道がくねくねしながら見えている。
しかも山頂の観望台の大きな望遠鏡がこっちを向いているのまで見える。
いや、正確にはそこまで見えないが、道端に立っている寒風山観光レストハウスの大きな宣伝看板に観望台と望遠鏡の絵が描いてある。
「あのへたれが登って来れるか見てみようぜ、小銭を用意しておけ」
「おら、登れないほうに千円賭けるでや」
なーんて、残酷なことを言いながら望遠鏡にコインを追加しているに違いない。それも名物の「さくらソフト」をペロペロ舐めながらだ。 ばかやろー。
それにしても、降りてくる自転車がいないとはどーゆーことだ。
入道崎ですれ違った連中は向こう側からこの山を越えて来たのではないのか。
追い越して行く自転車もいないとは、この山は自転車では不可能なのか。
ならば登ってみんべえ。
もしも向こう側へ越えられないとなれば、潟上に置いてきたトランポに戻るには相当な距離を回り道しなければならないが、やってみなければ分らない。
この日本にオラの登れない坂なんかあってたまるか べらぼうめー、 あるのは世界にひとつ チベットのチョモランマだけだー。
登りの描写は省略する、ぜいぜい はあーはあー を書いたって、どーせ読者には理解できないのだ。
山頂の駐車場を兼ねた観光レストハウスのベンチに座って膝に両肘を突いて上体を支え、うつむいたまま鼻のアタマからぽたぽた滴る汗が落ちて行く地面を見つめていた。
不覚にも涙が出て、目から直接落ちて行く。
コンクリートにいったん溜まって、すぐに吸い込まれて乾いていった。
不意に横方向から「さくらソフト」が差し出され、
「やったな、すげーよアンタ。 おら見てた」
顔を上げるとレストハウスの親爺が咥えタバコで立っていた。
数台しか止まっていない駐車場には、大型オートバイはあったが自転車の姿はなかった。
観望台の方から降りてきた若者が三人通り過ぎながら、
「あんなファニーな自転車でも登れんのかあー おれらもよ ママチャリで登れっかな」
親爺、タバコを足で揉み消しながら、小さく呟いた。
「ばかやろー オメらに登れっかー。 こんひとは気合が違うんでえー」
ワシは背中が波打って、声を出したら泣きそうだ。「さくらソフト」を目の高さまで掲げて礼をして、黙ってそれを食った。
冷たさがトロリととろけて美味しかった。
エネルギーがじわーっと効いてくるのがわかる日本のさくらの味だった。
syn
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潟上市の道の駅「てんのう」で温泉に入ってさっぱりした。敷地内の地魚料理の店で鯛の刺身でビールを飲んで、もう一杯頼もうとしたら、
「ここは公設なので、18時でお終いだから街のほうに行ったらどうか」
国道の反対側になる商店街を指差された、あまり歩くのは嫌だからと言うと地図を書いてくれたうえに独りの客でもいいかどうか電話で聞いてくれた。
魚の仕入れを共同しているよく知った店なのだそうだ。
期待の持てそうなよい雰囲気になってきて、疲れてはいたが歩いて行ってみた。
その店が 「北限のふぐ」 にめぐり会った店である。
今回は忘れず店の案内をもらってきた。若い姉妹とその父親が板前でやっている 「笑ごころ」 というこじゃれた店だ。
ふぐコース3500円から 水曜定休、行かれる方は道の駅にクルマを置いて売店で聞くと親切に教えてもらえます。
お品書きに江川漁港とあるのは何処だかわからないが、直ぐ前の海なのだろう。
「北限のふぐ料理」と堂々と書いてある。そう書いてあるのだから北限に間違いなかろう。
(その1)に写真を掲載してしまった「ふぐ刺し」 と 「岩カキ」 、やっと解説ができてよかった。
今回は親切にしてもらった道の駅の地魚屋の 「鯛のお造り」 の写真も乗せましょう、立派な鯛っぷりでございます。600円くらいだった。
ふぐは下関あるいは大阪と思うのは大間違いで、日本では何処でも獲れるのだそうだ。だがさすがに北海道にはない。
そこで北限のふぐと命名した。
当地方では昔から食されていてそう珍しいものではなく、むしろ庶民の食い物だったとか。
ただ、調理法に関西ほどのヴァリエーションはない、刺身か煮つけだと言う。
「関東から来た客がびっくりしながら注文して、有り難がって食べるのでメニューにした」
店主がさらりと言っていたのが印象的だった。
もちろんワシは有り難がって頂いたのだが、大そう美味しゅうございました。
ただし、下関で食したことがないので比較や評価はノーアンサー。
そういえば40年以上前の信州放浪時代に団塊屋のなーさんなどと同道した諏訪湖畔の居酒屋で、安価なので気軽にしょっちゅう食っていた 「蹴飛ばし=馬刺し」 が今では超高級品の位置付けなのも同じような括りなのかなあ。
冷凍などしない時代だったから、山の牧場で処理されて届いた木曜日の夜の馬肉はさくら色だったものが、週末まで残っていると二日目のカツオみたいな色になってさらに安くなった。
ワシらはこれを食って命を繋いでおったのだ。
たまに手に入るキャベツはSSさんが富士見高原のヒッピー村でもらってきたもの、塩をつけて芯まで食べた。
諏訪湖の花火大会の晩は、ワシの安アパートの窓が最高の桟敷席だった。椅子などないから湖畔のベンチをNaさんが調達してくるのだ。
そのベンチでアサヒスタイニーという変なビンのビールを飲んだ。
SSさんの摘みはコンタック600と強力わかもと、手の平一杯分をばりばりと食う。ありゃードーピングのはしりだなあ。
真冬に湖面が全面氷結して軋む音は、ワシのようなよそ者には恐怖だったが、春になって融けてしまうのも寂しかった。
でも春になれば桜が咲いて、なーさんのN360で高遠城まで花見に行った。
今では飽食のメタボ爺さんに成り下がったなーさんも、当時は細くてステキな男子だった(かな?)。
あの狭いN360の運転席に苦もなく滑り込めたのだから細かったのだろう。
諏訪湖畔から 「さくらフィルム」 と書かれたベンチを失敬してアパートに運ぶ途中、なにを思ったか重いベンチを沖遠くまで投げ飛ばし、アベックの乗ったボートをひっくり返して指名手配された怪力自慢のNaさんのエネルギーは「さくら肉」 によるものだったのは明白… かも知れない。
寒風山の 「さくらソフト」 の写真は失念しました。
お盆休みも終わりましたな、
明日からはまた非日常の暮らしに戻りましょうか。
北限のふぐ おわり
syn
「北限の海女」 が大ブレークして北三陸 久慈の小袖海岸にある素潜り岸壁に観光客が殺到しているそうです。
それは大いに結構なこと。
二年前、ワシが久慈市へ行ったときは青森下北遠征からの帰路で、あの大地震と津波被災から3か月ほど経った夏の初めだった。
往路の途中、東北高速道の花巻付近のパーキングで仮眠して、目覚めたら周りは復旧支援のボランティアのクルマばかりだった。
災害派遣の自衛隊員を乗せた輸送車が何台も止まっては、トイレだけ済ませてすぐに今だ捻じれの残る道路へ出発して行ったのを目撃したのはもっと南の宮城側だった。
ワシはトランポ車内の自転車に毛布を被せ、お遊び用品など積んでいるのを見られないようにしてコソコソと八戸道の分岐に向かったことを思い出す。
その後の下北の海峡物語は今回は省略する。
下北半島は被災をまぬがれたとはいえ手前の被災地を素通りして尻屋崎でソフトクリームを食い、大間崎で三晩続けてまぐろを食って、脇野沢でウニとホタテを毎晩食って、
むつ市のスナックでサザンをさんざん歌って一週間も自転車三昧していた話しなど、とても書けまい。
久慈市内は陸前陸中の海岸からは遠い位置にあったためか比較的被害は少なかったようで、駐車場にトランポ車を停めたコインランドリーは通常営業をしていた。
ここで洗濯をして時間をつぶし、ホラキちゃんと待ち合わせの夕刻に市内のビジネスホテルに入るつもりだった。
今夏の異常な暑さに朝から外に出られずテレビで高校野球の中継を見てお盆を過ごしていると、中継の合間に 「あまちゃん」 関連のスポット放送がやたらに多い。
正時のNHK正規ニュース番組でも、
「この暑さをものともせずに人出の多いベスト1は じぇじぇじぇー 久慈の小袖浜、ベスト2が気温41℃超を体感できる四万十市」
アナウンサーもノーネクタイである。まあ お盆ホリデイ中だからいいか。
「久慈市内ではホテルも民宿も9月のアタマまで満室だそうです」
ホテルの人でいっぱいのフロントの様子が映っている。そのロビーに見覚えがあった。
二年前このロビーのソファーには、疲れて薄汚れた復旧ボランティアの若者が座って携帯電話で仲間と連絡を取り合っていた。
あと何日手伝えるかとか、宿舎や燃料や食料は足りているかなど話している。
聞くとは無しに聞きながら、隅のほうで小さくなって座っているおじさんサイクリストは、じつはこのホテルに来る前に一発パンチを受けているのだ。
コインランドリーに停めたトランポから汗の染みたジャージやパンツを運んで自動洗濯機に放り込み、自販機の洗剤とコインも入れたらすることがない。
クルマに戻って車内の掃除をして、自転車隠しにしか使わなかった毛布を丁寧に小さく畳んでいると、
通りのほうから自転車に乗った二人の少女が近づいてきて、ぺこりと頭をさげた。
「復興支援 ありがとうございました。気をつけてお帰りください」
「また来てくれたら うれしいでっす」
久慈はいいところだ。
あまちゃんのような娘が育つところだ。
この夜、単なる物見遊山にだけやってきたホラキちゃんと市内のスナックで痛飲して、路銀の残りを全部使ってきたことは言うまでもない。
スナックの名前は忘れた。
「りあす」 ではなかったことは確かだが、これでワシらも立派にボランティアのつとめを果たしたことになる。
あの二少女は今ごろ北限の高校生海女になっただろうか。
表題の 「北限のふぐ」 のこと、今だ触れないままですが、久慈ではなく男鹿半島です。
取りあえず写真だけ載せて一旦閉めます。
syn
先日拙作木品群のなかからほんの一例を本欄に紹介したところ、「木の気の器の名作との誉れを伝え聞いた」 というあるご仁よりオファーがあった。
あの写真の匙を作って欲しいという。
それも、掲示板掲載料と相殺でどうかと多勢を背にした〇〇党総裁みたいな図々しいことをおっしゃる。
どうやらこのご仁、来るべきヨイヨイ爺いの右手不如意状況の回避と脱出を喫緊の課題としておるらしく、気の木の介護用品とりわけ食事関連グッズにご執心の様子。
食べ過ぎが手足不如意の主因なのに、塩味濃い目の熱いお粥を掬っても変質しない漆塗りの木の匙が欲しいと言われる。
それもひと掬いで50ccの大振りタイプを所望と。
50ccと言えばスーパーカブ号のエンジン容量やないけ! それをひと呑みするなんてウワバミやで。
こーゆー過食爺いがご長寿県と名高い信州地方にござっしゃるとは不思議でならない。
木彫りの柄杓(ひしゃく)と竹の箍(たが)で補強した檜(ひのき)の飼葉桶でないと間にあわんが、そーゆー馬飼い用品なら會津桧枝岐(ひのえまた)の辺りが得意。
ご仁には改めて奥會津へのご旅行をお奨めしよう。
本日のご紹介は繊細な作風薫る 「桜の枝皮付きスプーン」 でございます。
(写真の製品は非売品)
大きいほうはパナソニック製パーソナルコーヒー挽き器にコロンビア産豆を一人前投入するときの限定スプーン。
こだわりの豆はこだわりの道具を使うことで付加価値が大いに高まるものと存じます。
小さいほうはセモリナ粉のパスタを指定時間マイナス2分間茹でて、アルデンテに仕上っているか味見の一筋を鍋から取り出すときのための専用スプーン。
パスタの食感は時間との闘いです、専用品で取り出すとすぐに冷めて口内を火傷せずに味見できます。
一方の手をガスレンジのつまみに置いたまま片手で味見を行えるよう腐心した末の傑作であります、茹でこぼし料理には無用のものです。
けっして稲庭うどん用にはご使用になられませんよう老婆心ながらご注意申しあげます。
厚塗り被膜の光沢は使い込むほどに深みと凄味を増すものでございますが、製作時点での目論みは不可能でございます。
年月による”さび色”への風合いの変化を”わび”と申しまして、陶芸に於ける窯変のようなものと当工房では考えております。
しかし、陶芸での窯出しの瞬間に味わえる窯師の悦楽を木地師は知りません、お客さまの許で永年かかって変化してゆく”さび色”をモニタリングするため本品は非売品とさせていただきました。
木工屋 俊水工房では他にも斬新な思考の頒布品をご紹介をさせていただきますが、対価を好意と相殺する等の大過の行為を企業ポリシーとして禁じておりますこと申し添えます。
syn
昨日、アイソン彗星観測用航空機をご紹介した。
その真意はUNION号の広大な翼に書き込む広告ロゴのスポンサーを募ることにあったんよ。
わかってっぺー!
わざわざ言わんでも、ご貴殿たちほどのキャリアのご仁なら直ぐに解かってワシの口座に広告費の振り込みがあると思ったんよ。
ところがどーや、ワシのbank card は機能せーへん。
暑さ遮断用のビールが買えねっぺー!
モチベ維持用のホルモン焼が食えねっぺー!
ビールは兎も角、空中位置安定スタビライザーが買えなければ超高度空撮用の機器を引き合いした模型店に脅しが効かん。
つまり、ホルモンが効かん。
そればかりか、大越路峠の山中に入手した観察基地小屋の固定資産税が払えねっぺー。
しゃーない、ワシがどれ程のアーチストなのかを知らしめてやる。
写真を見れ! 漆(うるし)仕上げの木の匙(さじ)だ。
匙、つまりスプーンじゃ。
ご貴殿らが要介護爺いになったときの必需品じゃ。
右利きの介護者が持ったとき被介護者の口許に持って行き易い角度と握り心地を実現し、お粥をひと掬いしたときの重量バランスを追及した逸品じゃ。
さらに、調子の良い日に自分で匙の柄を握ってロールキャベツなど食べるとき、キャベツの葉脈を断ち切る鋭さと入力の支点 力点 作用点に絶妙の和を味わえるから食を楽しめる。
それ故にリハビリ効果満点。
自分の手で匙を握って、口に運んでそれを食う。
チャーハンだってピラフだって蛸のカルパッチョだって食べられる。
すなわち、生きる意欲を掻き立てる奇跡の匙なのじゃ。
どーじゃ、このフォルム、渋い漆の艶。 欲しいとは思わんかい。
要介護爺いさんになったとき、最後の意思のアイテムとして今から用意しておくべき逸品。
木製品の一品物だから仕上がってみないと分らんが背面には聖母マリアさま、あるいは懐かしきご母堂さまの面影が現われます。
写真左、アタマを右に90度傾けてよーく見なんし。
いつの間にか頬に涙が流れていること間違いなしの「木の気」なのよね。
この気の「おっかさん効果」がリハビリに超有効なのですよ。
Dr 俊さんがかつて自身の母親のために作って贈って効果を確認した逸品の復刻品ですが、製作工程は当時とまったく同じ手彫り手磨き。
素材は百日紅、会津漆のクリア手拭き上げ。
この一期一会の名品を間もなくボケるであろうご貴殿に、作家がボケん今のうちに作って差し上げましょう、納期は11月以降。
アイソン彗星大接近には間に合わせる所存ながら、20回塗り21回磨きだからこの行程だけで3か月をいただきます。
さて対価の相談。 高度保障機器の価格と作業日数から逆算してと、缶ビール3本とお摘みの冷や奴に生姜のせ1皿を終生保障でどーだんべだかや。
配達コンビニと振込み口座等の確認は団塊屋までお願いするす。
さて、写真の自分用1号機は10数回目の塗りと乾燥の状態。
このときに小さな虫がプーンと飛んで来て、ペタッとくっ付くのでございますよ。
くっそー いまいましいなあー。
天然素材の匂いは虫にとって堪らない媚薬ですからなあ。
もちろん人間の熟年過ぎ男性にも堪らん媚薬ですよ、ワシの秘密はコレでんねん。
コレで作った匙でペペロンチーノなど食べてごらんね、ペロンがチンでっせ。
生漆に良くないから蚊取り線香は使えない、名人はウチワを持って付きっきりで小屋で虫を追っているのです。
木工名人真夏の憂鬱なのであります。
名人 俊さん