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おしぐれさんの ロード歳時記 「エドガー ウガン」
2014/01/20

山は寒くてイカンから行かんことにして南に行った。
南といっても沖縄では遠いうえに橋でつながっているワケではないから航空機という交通機関に頼らねばならない。

「ヒコーキいうたら自転車のライバルやないけ、んなモノに利するようなことワシらは断じて出来ん。乗ってたまるか べらぼーめー」

全行程を自力で漕いで行くしかない貧乏ライダーは沖縄という字を 「翁は」 と書き替えて、ワシゃー地べたでつながっている土手みちロードを行くだあー、 しかないのである。
この時期に太陽光を前面に浴びながら北風に背中を押してもらって南に走るのは、全面むき出しネイキッドにとって最高の至福である。

最高の最と至福の至とはともにMaxを指す形容詞の接頭辞だから、形容の重複といって真っ当な文芸人からは嫌われる。それを承知で冒頭から投入する筆者の意図はひとつしかない。
「山はそれほど寒いんじゃー」

文頭1行目から山は寒いと書いているが、正確には山の下りが寒い。
登りのあいだは暑いを越えて熱い。
厳しい登りでは速度が上がらないから顔面の熱気が風防サングラスの内側にこもり、レンズの上側ほど曇りが厚いので道の先が見えない。道の先とはすなわち坂の上のことゆえ、アゴを引いていてはなおさら見えない。

なんとか見えるレンズの下側で前を見るにはアゴを突きだすように顔を上げねばならず、すると首から背骨 胸郭あたりがS字になって体幹のパワーが削がれ、ペダルにかかる力が減って失速する。
失速すると二輪車は悲しき、あえなく立ちゴケする。 ‥  これがへたれの一連の挙動なのだ。

「そーまでならないうちに、ハンドルから左右どちらでもいいから手を放して、メガネの下から指をつっ込んでレンズを拭かんかい」

しろーと衆はそういうが、ケツを浮かせていっぱいいっぱいで踏んでいるときにハンドルから手を放せますかいな。それには強大な腹筋が必要で、あったら汗など吹かんわい。
それに手袋の中だって汗びっしょりだから、蒸れた指先が接近しただけでレンズは曇る。 レンズ内外の温度差の大きい冬ほどそーゆーことが起こる。

山というものは登れば下るものだ、下りのない山は世界にひとつしかない。チョモランマだ。
あそこでは頂上の先に天国がまっているから誰も下りてはこない。チベットではチョモランマとは神の山、魂のゆきつくところ。仏教徒 至高の頂なのだ。

三浦雄一郎氏が下りて来られたのは奇跡の回春剤セサミンを摂取していたことも大きいが、自転車で登って行ったのではないからだ。
あのミラクルなご仁なら自転車でも登れようが、おすすめはしない。きっと帰りたくなくなってしまう。

山の下りは寒い。ただでさえ寒いのに汗が下り風に冷えて冷房効果を高める。膝が固まりペダルも踏めずに只々下りが終わるまでハンドルを握りしめ、滑るカーブを曲がって行く。
先ほどまで汗の滴っていたヘルメットの先にツララが出来て、手袋が固くなって中の指先が動かずブレーキが引けない。
何処かで どこかで止めねばならん! このまま速度が増えていったら次のカーブは曲がれない。

背中に付ける自動開傘のパラシュート、どこかに売っておらへんかいな。
眼に入った登り勾配の林道脇道に飛び込んで木の根と枯れ葉の抵抗で速度を落とし、最後はヤブっこにつっ込んで助かった。

「おめさん そーまでして山になんぞ行かんでええ、家でコタツに入ってミカン食うとったらどーや」

しろーと衆はそういうが、ヤブっこにつっ込んで空を向いた後輪がカラカラいうあの音がたまらんのよ。
そー 強がってもお高いイタリア車の後輪を何度も空に向けられるほど、筆者はリッチじゃないから今日は平地を南に行った。

じつに快適である。風は背中から吹いて20%のアドバンスである。
帰りにはこれが40%のリタードになることなど、 そーんなこと考えていたら 自転車作家はつとまらんべー。 なんくるないさー 帰るころには風向きが変わるっぺよー。

これでいつも失敗している。

渡良瀬遊水地から利根川ロード左岸を行って、茨城県五霞町で自動車道の国道新4号線 新利根川大橋に併設された自転車専用ブリッジで右岸に渡り、しばらく南進すると前方にお城が見えてくる。関宿城である。
もちろん昭和後期に再築されたコンクリートの城だが、もともとは利根川から江戸に用水を引く江戸川取水堰の取り締まり奉行所と奉行の居城であった。
今の関宿城は歴史記念館になっていて、周りは広い公園。

江戸川には左岸と右岸の両側にサイクルロードが整備されている。
どちら側を走ってもよいから此処が起点であり終点。はるか東京湾の海まで繋がっていて休日には多くのサイクリストが思い思いの速度で楽しんでいる。

徳川家康が ”堀っこ” しかなった田畑地帯に開削させた新川 江戸川は、明治以降にも大変な経済効果をあらわしたことがよく知られている歴史的河川。前作 「フランソワーズ サガン」 に詳しく書いておいた。
野田の醤油はこの川があって江戸から日本中に広まり、やがて世界ブランドのキ〇コー〇ンになった。

その江戸川の流れのスタート地点がここ 千葉県野田市の関宿。利根の水を分流して松戸を通り、矢切の渡しや柴又帝釈天を経て江戸市中に入る。海へは現在の葛飾臨海公園で放出されている。
そこから左側は千葉県浦安、東京ディズニーランドが右岸からも見える。
さすがにそこまで行ってしまっては帰れなくなるから、ガイドブックによく紹介されている右岸を行って、柴又の寅さん会館でトイレ休憩と草だんごを食ってUターンした。

ところが、往きの快調さのしっぺ返しか 帝釈天でお賽銭をケチったバチか 草だんごが腹にもたれたか、ペダルが回らない。
北風が邪魔をして踏んでも踏んでも速度がでない。

なんでえー? と下を覗くとインナーギヤに入っている、山を登るとき使うギヤだ。なのに風に押し返されて平地なのに前に進まない。そして北風が寒い。
体力が尽きてきるとモチベーションは二乗倍で萎える。とうとう東武野田線の鉄橋の下にヘたれ込む。
あたまの上を電車が大音響で行き過ぎて、いつまでもこんな処にはいられない。

冬の夕暮れは早く、日中あんなに元気だった冬の太陽も赤みをおびて光が弱くなってきた。できるだけ早く利根ロードの分岐まで戻らないとこの辺りは地理不案内である。
橋脚にもたれて体力の回復を待つあいだにも太陽はか細くなって、本当に寒くなってきた。

せめて関宿城まで戻れればなにか方策もあろう。立派できれいなトイレのシャッターが降りないうちにもぐり込めば、朝まで過ごせるかも知れない。
しかしこの寒さだ、サイクルウエアだけで白いタイルに座っていては震えて眠れないだろう。
運よく暖房便座に座っていられればありがたいが食糧をどうする。草だんごはもう消化されてしまった。シャッターは一度閉められたら朝8時まで開かないだろう。

のろのろと走り出すが一向に調子があがらない。
焦りが不安を呼び、不安は疲労を倍加する。
暗くなってもスタイル重視のイタリアンバイクにはライトがない、段差で跳ねて土手下に落ちればカッコ悪い遭難死が現実味をおびてきた。

これは早急に決断をすべきだ。
次の橋まで行ったら前進をあきらめ、橋梁下の風の当らない場所に潜り込んで、たき火で暖をとりながら明日の夜明けを待とう。
さいわいタバコ用のライターとコンビニのプリペイドカードを持っている。寝ねぐらを見つけたら食い物とゴミ袋と酒を買って、ゴミ袋を着たり 穿いたり 被ったりして、たき火と酒で遭難死だけは免れるだろう。

走りながらそう考えて、土手から見まわすがコンビニがない。見慣れた明るいあの看板がない、真っ暗な畑の向こうに街灯がぽつんぽつんと見えるだけ、クルマはもっと遠くを走っているのだろう。
「おーい ここは埼玉か千葉だろうや、下北半島の野牛原野を走ってんじゃねーぞー」

むつ市のひとよゴメンなさい。でも原発予定地の野牛浜という辺りは原野以外は海しか見えず、その向こうは北海道なのだ。

大きな橋があった。暗くて橋の名前など読めないが上は国道だろうから巾は十分にある。問題は風を避けられるかだ。
橋梁部の付け根にホームレスのウッドハウスが見える、上手に作られていて内部からは明かりが漏れている。自転車をロード脇の草むらに隠して近づくとラジオの音が聞こえた。しかもNHK‐FM 赤坂靖彦の Radio Man Jack じゃないか。
「なかなか文化的なヤツやないけ」

戸口の脇に集めてきたとおぼしきアルミ缶と古ダンボールが積まれている。
「しめた! このダンボールを借りて寒さをしのげる」

歩く足に思わず力が入って地面の空き缶を蹴とばしてしまった。缶は戸口のアルミ缶に当って 「ガシャラン コロン カン」 と大きな音をたてて転がった。
「だれだあー?」

割とのんびりした声がして戸口が開き、男がひとりこちらを見ている。
手にした懐中電灯に照らされて、疲れた作家は缶を蹴とばしてしまったことを詫び、悪意のないこと・ 行き暮れて難渋していること・ この橋の下で夜を明かしたいが、寒さしのぎにダンボールを使わせて欲しいことなどを身振りを加えて説明した。

本来なら作家らしく、ここは会話の形式で書かねばならん。だがこのときは、それが出来ないほどに疲弊していたとお許し願いたい。。

「ああ 好きなだけ使っていいぞ、ガムテープもそこにあるだ。
そこの角材となあ ベニア板があんべえよ、それで床にするんだあ。 えーが 平らにこさえるんのが肝心だあ。 屋根はな、寝るだけだったら高くはいらねえ。箱のまんまふたつ重ねて作ればええだ。
おめさん 腹へってんでねーが? 
床ができたら小屋はすぐに出来っから、まーず こっちさへーって飯を食え。 なあーに 大したもんはねーだ。 ちょうど 鍋えーやってでな、おめさん 酒っこははやるだが?」

招じ入れられたのはホームレスハウスだが、 ”ハウスはあってもホーム無し” のお父さんの多い昨今、じつに気持ちのよいホームだった。
小さめのコロナの石油ストーブが燃えて温かく、天井のキャンプライトの仄かなオレンジ色の明かりに包まれてダンボールの壁が輝いている。明かり取りの小窓にはトランジスタラジオが乗って、Radio Man Jack をやっている。

そして、ストーブの上にちゃんこ鍋の大きな土鍋。まるで来客を予感していたかのように肉と野菜がてんこ盛り。
そしてそしてその横に、でーん とそびえる一升瓶は男山。 お椀や箸もちゃんとある。

「ほれ おめさん、 飲め 食え いーや 食って飲め、 遠慮はいらねえー 困ったときはお互いさまだあ、今日はよう 集めておいた 銅材がいい値で売れたでなし。
そんでまあ ひとりでお祝いっちゅーとこだったんだあー、 誰かこねーかと思っていだとこさや。 おめさん えーどこさに来てくれだなやー あっはっはっはあー」

筆者は泣いたよ。
こーんな知らない橋の下で死にかけようとしていた処を、知らないおじさんに暖かい小屋に入れてもらって親切にしてくれたばかりか、なけなしの金で買った肉を自分で食わずに、迷い込んできたへたれに食えと言う。
ちゃんこ鍋と酒までご馳走になって、お礼にはコンビニのプリペイドカードしか持っていないから泣いたんじゃあない。 おじさんの男気に泣いた。

「えーんだ 礼なんていらねーぞ。 おらはな、できねーときにはダンボールしか貸してやれねえが、あるときには分けてやるんだ誰にでもなあ。 おめさんも そーだっぺやー。
ときにおめさん どっから来なすった? ほーがや 渡良瀬からがや。 渡良瀬はあー 田中正造翁の故郷だいなあ」

筆者ははっとした。
このおじさん、ヒゲの風貌が田中正造じゃあないか。

「あの あなた お名前は?」

「おらかね?  名前はあー 忘れた。 ラジオネームでええかや、江戸川右岸 だ」

びえーっ! アフリカ ウガンダ地方の子供たちにマラリアの予防接種を受けさせることを呼びかけ、その資金を集めるため世界を托鉢しては送金しているという伝説の伝道師。 エドガー サウザンド ウガン。
エドガー ウガンとは このひとだったのか。


 おわり

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おしぐれさんの ロード歳時記 「フランソワーズ サガン」
2014/01/15

<序>  源流考


ロード歳時記にしょっちゅう登場願っているのが、ご存知 鬼怒ロード。
鬼怒川土手の上に舗装されたワシらの走路面を鬼怒ロードと呼んでいるが、自転車に限らずランのひともローラースケーターも、飼い主を引いて走る犬でも、走って鍛えて大量の汗と悔し涙を流すことをまた、ロードといっている。

理屈っぽくなって恐縮だが、(大量の)汗と(悔し)涙が伴わないバイクやランは、ただのお遊びだからロードとはいわない。‥ ことになっている。
それは (悔し)涙になんらかの付加価値を見いだそうするへたれな理屈の所産なのだが、ご同輩なら解かっていただけよう。

ベテランからすれば軽めに見える負荷メニューでも、そのひとにとっては大汗と悔し涙のステージを無事終えて帰宅した日曜日の夕方、自転車を小屋に入れてから風呂に飛び込むところを見とがめた妻がいう。
「あんた どこへ行っていたのよ! 朝から何処かへ行っちゃってー、 今日はタローを洗ってくれる約束だったでしょう」

彼は汗のジャージを脱いで洗濯機に放り込みついでに、そこに居た犬を抱きかかえて浴室のドアを閉めながら返事する。
「ロードに行ってきた。風呂から出てタローの毛を乾かしたらファミレスへ行こうか?」
「あんた タローまで浴槽に入れちゃダメよー! あとの掃除が大変なんだからあー。 あたしねー、ファミレスより英国料理 アビイ・ロードのほうがいいわー」

こーゆーシチュエーションのときの、ロードという言葉の使い方は大いに正しい。
行った場所とそこでの目的と行為、その結果に至るまでをわずか3文字で表してしまうからだ。そのようなスーパーな力を持った言葉はこの世にそう多くはあるまい。
ことばの達人たる文章作家がそのように宣するのだから、これはもう間違いがない。

ロードはボクシング用語から発したロード ワークの日本語的短縮形と思ってよい。綴りは Road 、辞書には最初に 「道」 とある。
一方ボート競技のひとたちが、担いできた競艇を水面に降ろして漕ぎ出すことを ”ロードする” と言うのは Load 。辞書では 「負荷・装填・重ねる」
コンピュータにダウンロードする というときのロードも、装填する・セットする の Loading に由来する。

建設機械のロードローラーは Road roller だが、ショベルローダーは shovel Loader と書く。 
RとLがごちゃ混ぜでうまく判別できないのはアナタだけじゃないから大丈夫。

いま日本の英語教育は、安定期に入ったとされる第二次あべ政権の強力な肝いりがあって大きな転換期を迎えようとしている。
公用語は英語になって日本語は家庭内だけか夫婦の寝室でのみ許されるという時代は、消費税10%にアップのすぐ後にやってくる。すでに準備が始まっている。
寝室での夫婦の会話はナニ語でもモチロン構わないのだ。そーゆーコトに政治は 『 不介入の原則 』 が憲法に保障されているからだが、英語の準備はしておいたほうがよい。

英語音痴はみな戦々恐々とするなかにあって、かつて進駐軍のくれた脱脂粉乳を飲んで育ったワシら第一次団塊世代だけは何故かRとLの違いが解かる。
アーミージープと同じ色のドラム缶に入った脱脂粉乳には、いまの日本JAS法でなら排除されるあるサプリメントが巧妙に仕込まれていて、それでワシらはみんなノンポリシーになってしまったのだが、そのことは今回の主題ではないから脇に置く。

ワシらの脳に R が右で L は左と知らぬ間に擦り込まれた訳は、粉乳が入っていたドラム缶の蓋が L の矢印方向にしか開かなかったからだ。
大人はこれが理解できなかったようだが、こどもは食いものを目の前にすれば全知能を駆使してこれを開ける。
おかげでというべきかどうか、ワシらは明確な発音が出来るぞ。
ラジオは R 、 ラガービールは L 、 どんなもんじゃい。

Road と Load どっちがどっちか分らなくなっても表記がカタカナなら誤魔化せるけれど、会話の場合には英語が母国語のひとからは発音の仕方を鋭く指摘される。
ワシは北爆終結前後のベトナム戦の現地へ、ラオスとの国境辺りに設営された国連軍の軍事機材支援キャンプ地から入って行ったことがある。このとき命を分けたのが R と L と B だった。

そんな危険な場所へ何をしに行ったのかを先に説明しないと先に進まないからそうするが、ロードの先へと急ぐべき本欄が歳時記らしからぬ硝煙けぶる雰囲気になってきたのは、作家としてはいささか不本意であるものの、流れだから仕方がない。

『 軍事機密とはそこに含まれる情報や技術が時代遅れの古臭いものになった場合でも、ひとつの独立した国家としてあり続けるかぎり最高機密として秘匿され続ける性格をもつ 』
ベトナムで他のプレス記者たちと一緒にそのように言い含められているワシらは、だから書けることと書けないことがある。
そのなかでどう書けば機密に触れずに時代を伝えられるか苦悩するところだが、ことばの達人たる文章作家に出来ないことなど何もない。
ノンポリシーのでほらく書き と言われながらここまで来たが、あのキャンプのことは書かねばならん。

国連軍、つまり米軍がベトナム戦に投入したタイガー戦車は米兵士の生命を守る動く避難壕のようなものだった。攻撃能力は飛び抜けて高かったが、敵陣に向け自動照準された砲台が実際に火を吹く場面などワシは見たことがなかった。
攻撃ヘリのコブラが向こうに見える丘と手前のジャングルに銃撃の嵐を降り注いだあと、静まり返った丘をゆっくり登って行く戦車隊の後に地上兵士が散開しながら続き、丘の頂上に攻略の小隊旗を突き立てる。
戦車はしばらくそこに留まって、敵が丘の奪還の意思を放棄したことが確認されるまで地上を斥候する友軍兵士の安全を守り続ける。
そしてさらに進攻する兵士を追い越して先頭に出ると、弾除けとなって野を進んで行く。

そのような戦い方しかワシは見ていなかった。そういうものだと思っていた。
飛行機乗りの兵士と違い地上兵には、敵とはいえ自らをベトナム解放軍と名乗る者のその背後から自分の銃で撃てようか。
同じ地上に立って到達距離の短い貧弱な銃を構える者に対して、自軍の圧倒的火力の砲撃を加えることに抵抗があった。
一方、コブラには操縦席の全面に対空弾を撥ね返すスクリーンがあって、そのスクリーン越しに見える敵は必ず悪鬼かゾンビに見えたからロケット弾のトリガーを思いっきり引くことができた。

その特殊なスクリーンを製造したのは日本の化学繊維メーカーだったが、それがなければあの戦争は終わらせることが出来なかった。
同様に戦車に続いてジャングルを這うように進む地上兵士の足を毒蛇から護り、ヒルの侵入を許さずなおかつ軽いジャパンメイドの安全靴がなかったら、あの戦争はもっと長引いただろう。

ワシは当時ある米系キャタピラメーカーの品質保証部に籍をおいていて、ユーザーからの苦情や不具合傾向の調査集約に携わっていた。
日本国内で得た品質情報を本国に送って商品改良や日本の事情に対応した新製品開発のアイデアを集める仕事だった。
仕事柄キャタピラ技術が戦車の駆動系にも使われていたのは知っていたが、民間人だからベトナムでの戦争やタイガー戦車には無縁だと思っていた。

そんな折りに自社の製品のある部分のある部品に製造上の欠陥が見つかり、走行不能の状態に陥る重大な不具合の発生が本国で報告された。
極東日本支社の我々もいわゆるリコール改修の準備をしているさ中、本国CEOからとんでもないテレファクスが届いた。
ベトナムへ行って戦車の下にもぐり、対策済の部品と交換して来いというのだ。その数300両。

対象車両は軍の協力で後方の資材支援キャンプというところに集められるが、すでに不具合の発生により激戦地で立ち往生となっている数両の改修には現地まで軍の護衛が付けられる。
ただしベトナム兵は戦車の修理をしている者を見ればアメリカ軍人と認識して攻撃してくると思うのが自然である。
よって予想される危険を避けるために、現地へ派遣する人員はベトナム人とよく似た人種の極東支社の日本人社員から1名を選抜する。
選抜条件は以下の通り。

バイリンガルであること。ただしベトナム語の能力については不問。
妻子のいない独身者であること。
当該改修作業の能力に長け、現地の気候風土に耐えうる身体を有し、正義感と責任感をもって困難に対処可能な勇者であること。
自衛隊経験者でないこと。これは軍からの要請である。
前科のないこと。ただし確定より5年を経過している場合はそれをカウントしない。

ただちに必要工具を持参し当社の正規作業服着用のうえ東京立川の米軍基地に赴き、ドアに黄色でCATと大書されたC‐20輸送機に搭乗せよ。それが今回ミッションの専用機である。
別便にてアリゾナ工場から送った改修品とマニュアル本の入ったコンテナがすでにミッドウェイ上空を通過し、間もなく立川に着陸する予定である。

ことは急を要す、海外でアメリカ兵の生命が脅かされている状況に合衆国大統領はこころを痛めている。
我々は世界企業としての責任を果たすため大きな決断をした。現地の戦車の完璧な改修を6ヶ月以内に最後の1両までやり遂げることだ。これは国益にかなうばかりか世界の平和に役立つものだ。

極東の勇者の幸運を祈る。

「支社長ーっ こんなファクスが来てますやんけ、 誰をやりますかいな? ベトナム人に似た男なんておましたかいな」
フランス人支社長は ”非情” といわれた男、冷たく言い放つ。

「行くのは おまえだ。 ほかにおるかあー ウィ」

国境近くの機材支援キャンプでの改修作業は順調に進んで、あとは戦場エリア内に取り残された数両を残すのみとなった。
その頃にはキャンプ暮らしにも慣れ、なにより後方だから銃撃の音など聞こえない平穏な日々であったが、あっという間に過ぎて明日は出発という夜に休暇中の兵士たちが送別会をしてくれた。
何度も聞き返したが壮行会ではなく、送別会だと言う。

その夜の彼らは、ワシを 「ミスター カミカゼ」 と親しげに呼ぶ。本物の戦場を何度も駆け回った経験を持つ猛者の彼らでさえ握手のときに涙ぐんでいた訳が、たったひとりで日本から来たこのワシを「特攻に出る覚悟を決めた腹のすわった日本サムライ」 と認めたからだと分ったときには Budweiser Beer を飲んで酔ってさえいなければ、夜陰に乗じて逃げ出すところだった。

ワシと数名の護衛兵士によるリコールチームはプレス記者やフリーのカメラマンたちと一緒にカーゴトラックに揺られて前線へ移動して行った。
目的の不動戦車は敵に奪取されていたり、爆発物がセットされているかも知れないので慎重に接近し、兵士が安全を確認してから改修に着手するのだが、不整地に放置されていたから作業は安易ではなかった。
再び動き出してキャタピラ音を軋ませながら後方へ戻って行くタイガー戦車を拍手で見送る護衛兵士たちと何回目かの握手をするうちに、あの晩逃げ出さないでよかったと思えるようになった。

前線キャンプでは、不定期に配布される簡略な手書きの戦力地図をワシにも分けてくれた、これを見ながら前進ルートを変えて進まないと敵の手に落ちるからだ。
万一、ひとりきりになってしまったときのために、方位磁石や無線機と信号弾の銃を持たされ、防弾ウエアも着込んでいるから外観上は立派な米兵である。
地図は防水ケースで保護し、身分証と一緒に胸のポケットに収めておく。
バイリンガルなワシには、地図に三色ボールペンでマークされた青は味方のBlue地帯、簡易記号はL 、Rは危険なRed地帯という認識があった。
だがBlueはBだと思い込み、未探査でBlackなメコン支流の左岸を行ったノンスピークのカメラマンが泥地で突然倒れるのを対岸から見た。銃声は聞いたかどうか記憶がない。

他国で見聞きしたこととはいえ、これ以上のことは何十年も経った今でさえ易々とは書かないほうが身の安全だろう。
ワシが書いたのは R L B のことだけだから、機密には触れてはいない。
そういえば当欄の記述に使っているのは比較的安全とされるメール用ソフトなので、発音記号の表記が出来ない。そこは読者のイマジネーションに期待したい。

ロードにはもうひとつ、三つ目の Lord があるのでついでだから紹介しておこう。
以前に The Lord of the Rings (邦題: ロード オブ ザ リング) という壮大なおハナシの映画が話題になったことがある。
ここでいうロード (Lord) の意味は前ふたつとは大きくおもむきが異なり、なんとキリスト教における神さまのことなのだ。

「リングの神話」 とか 「指輪物語」 と訳すのが適当なのだろうが、興行配給元の担当重役があえて日本語に訳すことを禁じて原題のカタカナ読みにするよう命じたのはさすがの慧眼である。
当時 Lord をそれなりに理解していた日本人はといえば、ワシとこの担当重役のふたりくらいのものだったろう。

多くの日本人観客は ロード オブ ザ リング を 「旅するリング」 すなわち 「自転車旅行」 の映画だろうと勘違いして来場する。そして内容の落差にきっと驚愕するに違いない。
「そこが狙い処なんや おしぐれさん。 エンターテイメントちゅうもんはのう、意外性なんや。見とってやー ワシ 3億、賭けまっせー」

山師重役の なーさんは (特に名前を秘す) そう言うなり窮屈そうな ホンダN360 に乗り込むや、シフトレバーに被せられた黄色のボンボンを無理やり操作してギヤ鳴りの音と共に日本信託銀行の角を曲がって見えなくなった。
東京府中市郊外の路上にて何者かに銀行車の3億円を強奪される事件の起こる前日のことであった。

映画興行で ”封切り ロードショウ” という2000年以降は死語となった言葉があるが、この場合のロードは Road である。
Road show を旅興行と訳せば、旅芸人=伊豆の踊り子=吉永小百合 の方程式が成り立ちます。山口百恵ではいけません、団塊世代の時代感からすればここはやっぱり吉永小百合です。
ワシらの過ぎ去りし二十代は、せつない思いのノスタルジーですなあ。

三つのロードを違和感なく使い分けることの出来るようになった当蘭読者諸氏は、同音語彙集のパフォーマンスが現段階では日本一と自慢してよいでしょう。
ただし、英語圏のひとに音(おん)だけで駄洒落を言ってはいけません、読みだけでも駄目です。意がかみ合わないと妙な誤解を生じてしまいます。
その結果、異国人は自分と家族と祖国の名誉が損なわれたと感じれば殴ってくるでしょう。当たり前といえば当たり前です、異国でひとり生きるのは命がけなのですから。
真意を尋ねる前に何はともあれ報復をするのは彼らの文化です。そーやって生きてきた。 
生きざまの文化に対しては憲法もたじろぐはず。少なくとも個人レベルでは罪を問えませんよ

じゃあ、国家レベルならそれが可能となるのか? 出来ました、過去に何度も。 今は出来ません、しません。 
文明国が隣国の文化を責めることを戦争というのだとぼくらは気づいたのです。
たとえ隣国が文明国でなくても不戦の原則は変わらないのです。

道をロードと一括りでいうのは誤りではないが、それにコース・ルート・ラインなどからシチュエーションに合わせた適語を組み合わせて用いると状況表現がより素敵になると筆者は思う。
松尾芭蕉 「おくのほそみち」 を外国人に解説したある翻訳作家は、表題を 「奥の細道」 と長いこと思い込んでいて、 「ロング アンド ワインディング ロード」 と訳した。
それを聞いた在日7年になる日本家屋研究家のニュージーランド人は彼を大ばか者と思ったのだろう、「You aer the Beatles ?」 と半ばあきれて怒りを隠した大笑いをしたそうだ。

「それを言うなら ロード オブ ザ みちのく ウイズ ア バショウ ソング でしょう。
ボクは祖国にいたとき、ロード オブ ザ リングス のオークランド撮影にエクストラのゾンビ役で出演している。そのときニッポンのエスエフ ロード かぐや姫 をよーく勉強したけれど、ナーニのことか全然わかりません。 かぐや は嘘っぱちね」

「あんた 何いうてまんねん。かぐや姫は日本おとぎばなしのスーパースターやで、竹から生まれて月に帰ったプリンセス ルナ姫さまなんや。
ロード上で泣いていた捨て子のアン王女とは風格がめっちゃ違う。おまんとこのスリーDホラーばなしと一緒にすな!
それになあ 日本最古のSFは浦島太郎や、亀の背に乗って海のロードを行く愛の物語なんや。英語でいうたらトリトン タローやでー」

生国の文化の違いによるいさかいとはいうものの、この不毛なやりとりは行きつけの居酒屋のカウンター席でのことだった。
ヒートアップするふたりを放ってはおけないと、店のママさんがワシに電話してきた。

ママさんはワシを求道のロードマンと認める数少ないひとり、”ロードのことならこのひとに聞け” とりなし役を頼んできたという訳だが、ワシも店に行こうとしていた矢先だった。
いつもは歩いて行くところをロードバイクに乗って駆けつけたワシは、以下のような断を下して両者をいさめた。
大げさにいえば国家間紛争の火種を消したんじゃ。

「どちらの言い分もそれぞれの立場での発言だが、仔細を聞けば双方とも致命的といえる大きな間違いはない。だから落ち着いてワシの話を聞け!

ヨッちゃんは 「ワインディング ロード = ねじくれた道 = 苦難の道のり・人生の重み・回帰、すなわち 輪廻」 を言ったのだろう。まさにロード オブ ザ リングだ。
ダミアンは 「おめ そりゃー ビートルズの楽曲だっぺよ、おらを南半球から来た田舎者と思って馬鹿にすんでねーぞー」 と怒ったのだ。
ビートルズの生まれたイギリスはダミアンの故郷ニュージーランドの宗主国だが、南半球を ”ダウンアンダー” と呼んで小馬鹿にする風潮がある。女王さまは同じなのに何ということだ。
彼はそれを思い出して少しムカッとしただけだ。 ヨッちゃんもわかるよなあ。

ちなみにダウンアンダーとは ”下の下” という意味ではない。
この島はそこに生きる動植物の特異な進化を発見してヨーロッパに紹介したダーウィンにちなんで、当初は 「ダーウィンアイランド」 と呼ばれた。
初めて英語を耳にした原住のマオリ族が 「ダウンアンダー?」 と聞き返してきたことに今度はイギリス人が驚いた。それが由来だ。そーだよな、ダミアン。

さーふたりとも、和解の杯を交わそうではないか。ママ、新しいボトルとグラスを用意して頂戴。
さて、それらのなかで誰が最も本質に近いかというと、ママさんあんただ。 「ローダーを求道者」 と訳したあんたはえらい。 その新しいボトル、ワシが入れようじゃあないか、ツケで」


さて、鬼怒ロードのベースとなる堤の、その内側を流れる鬼怒川のことは、本欄にきちんと書いた記憶がない。
きちんと書くとはどういうことか、川の概要や流域の特徴・文化・歴史などならワシが書くことでもあるまい。百科事典Wikepedia の検索で中立的で正確な情報がすぐに得られる時代だからねえ。

ワシがいつかは書かねばならんと思っていたのは、多くの人が鬼怒川の源流を誤解していることだ。
とはいっても誤解による民衆生活への実害や国益を損なう程の影響はなくて、だから作家には 「何としても俗信を解かねばならん」 という大層な思いや 「今すぐに」 という緊迫感などない。
そもそも誰もそーんなこと期待しておらんじゃろ。

川の正体を ”水” と限定すれば、それは水源地の空にかかった雨雲が出処だから空気と同じで何処に降った雨だって同じ水粒のはず、源流の水だけに特別な意味などあるわけがない。
沢ぞいの林道を行けるところまで行った辺りに点在する牧場の、牧舎に降った雨がトタン屋根の溝を滑り落ちて出来る小さな滝が、麓を流れる川の源流だと言ったって大いに構わないのだ。

テレビの山歩き番組が人気で、源流行をあおる。
山歩きが人気なのかイ〇ト ア〇コとかいう眉の太いタレントが人気なのかは知らんが、セーラー服着用の山ガールがギニア高地の1,000m落差というエンジェル フォールに辿り着くという荒唐無稽さは許すにしても、
滝の水は中空で霧散霧消してしまうから滝壺が存在しないというあまりの胡散臭さに、いや神々しさに彼女は両手を合わせて拝んだりするものだから、滝やその水の源流点には神聖性があるかのような錯覚を与える。
そこに立つと精神的にまことに癒されると言うのだ。

癒されたというその事実にはむろん異論はない。だがそれは何時間も沢を遡って辿り着いた充足感・達成感、あるいは山の木精フィトンチッド (薬方名 ヒノキチオール) を肺臓いっぱいに吸って疲労感からの開放解脱を得たからである。

その証拠にひとは精神が安らぐと同時に食欲が増進して、そこで食べる梅干握りに海苔を巻いただけの”山ごはん”がことのほか美味しい滋養食と感じる。しかしそれらは神聖性とは違うものだろう。
食欲が満たされたときの充足感・達成感をもって源流点の神聖性と錯覚しただけだ。
さらにいうなら、エンゼル フォールには徒歩では到達できない垂直の谷や壁があり彼女らは飛行機で行ったに違いない。山歩きとは根本的に異なる。

そう言い切ってしまっては身も蓋もないが、もともとサザエの壺焼き以外には身も蓋もあるものなどこの世にない事実から推して、作家の証明は正しいといえる。

大河の源流と呼ばれる一本の沢あるいは川は上流部を歩いて特定することは出来ようが、源流点となると安々とは断定できない。
相手は水ものでござるぞ、半年後には向かいの山腹に新たな湧水が糸を引いていることだってござろうや。
それが集まって小さくとも沢ともなれば、100年やそこらで消滅することはなかろうが、
『 此処こそが最初の一滴がひと筋となって滴りし原始の場所、最初のひと湧きが地表を流れた創始のみなもと。すなわち唯一無二の源流点なり 』 と、GPS的な断を下せるものであろうか。
ただし自分用の山地図に赤鉛筆で?マークを記入する喜びまで否定しようとするものではない。‥ のでござるよ。

それでもハイカーは源流をめざす。
それは衣食足りて閑を手に入れなお足腰丈夫ながら、かつて燃やした情熱の着地点を会社のロッカーに置き忘れたままの団塊シルバーのノスタルジーとしてはよろしかろう ‥ その程度のものだ。
 
水は1センチの角マス一杯が1グラムという分りやすい基本質量とほとんど粘性のない形態自在な液体性を生かして地表の高きより低きに向かう極めて素直な性質を持っている。
ゆえに探索者の足元より少しでも高位に水が存在したならば、彼は未だ源流に達していないことになる。

「此処ではない何処かをめざせ、もっと上だ」
そーやっておのれを叱咤しいしい歯をくいしばって登って行ったら富士山頂近くの水洗トイレに行き着いた。団塊屋シルバーズのノスタル爺ーは ‥ その程度のものなのだ。それでもいいのだ。

じゃあなんで 今さら鬼怒の源流を? 
それは …  書くことに詰まったまま長年しまい忘れていたネタ帳が廃棄するロッカーから出てきたと、宅配メール便で送られて来た。それだけですのやー ‥ 意地悪なこと聞くもんやないー。 


<第一部>  本流考


鬼怒川の近くにいるひとほど源流を誤解している、たとえばこんなひと。

ロードから見下ろせる草むらに古びた軽四駆が停めてあったのを往路に見ている。帰りにも同じクルマがあったので自転車を降りて反対側の川の方を見ると足元から声が聞こえてきた。
とろ場のカーブにせり出したテトラポッドの上にへら師がふたり危うそうな釣り座を構え、長めの竿でテトラの落ち込み部を狙っている。
早朝から竿を振っていたのだろう、ややヘたれ気味の風情がいかにも野釣り派の雰囲気でよい。

ふたりの間の距離はおよそ5メートル。別々のテトラに乗ってはいるが川に落ちなければいいと思いつつ眺めていると、大声でこんな会話をしている。

「ほーい なんだか急に浮子が ”しもる” ようになったんでねーかあー 水が増えたんだべか」
「んだなあ そうかも知んねー。 流心を見てみろし、ちーっと白波が立ち始めたみてーだあ。 おもりを増やしてべた底で釣んねーと、へらが散ってまうでえー」

注釈) しもる (下る) : 水勢に負けて浮子が下手に押される(流される)状況をいう。浮子命(うきいのち)のへら師が神経をすり減らし葛藤する様をあらわすときに用いる用語でもある。

     べた底     : おもりを着底させて餌の位置を一定に保つ釣法のひとつだが、「浮子に表れる戦況の変化が平板になる」 と繊細さがプライドのへら師はこれをセオリー違反とし、流れがつい  
               たとき以外は禁止する師匠は多い。弟子はおもりと浮子を取っかえ引っかえしながら、何とかして流れに対抗しようと持てる技術と頭脳の限りを尽くし、全身全霊で戦う。
               へら師が家や会社でぼーっとしている理由はこのためである。責めてはならない、彼らこそ和の文化を正しく継承する最後の者たちなのだ。

        
「なんだべなあー 上流で雨が降ったような雲行きではねがったぞ。 朝からずーっと青空だあ」
「んだなあ。 きょうは連休初日だべ、日光の観光客が多いんでよー 9時に華厳の滝の水口を開けたんだなあ。 くそったれめー 4時間かかってここまで流れて来やがった」

そういえば、流心部を新しい草の葉などが流れている。

「おめさん! くそったれ なんて言ってはなんねーぞ。華厳さまに逆らってはなんねーだ、鬼怒の源流さまだもんなあ。お使者の竜神が滝壺から現われてえー、たちまち水底に引き込まれるでなや」
「んだなあ。 去年この先の淵で死んだ良助どんもなー  おおかた川に向かって立ちションベンでもしたんだっぺよ。 ばちあたりめー。 可哀相な大ばかやろめー。 ナマンダブ ナマンダブ」
「ほーい 良助えー 三途の川でへらブナ釣ってっかあー 閻魔さまにはちゃんと入釣料を払ったかあー、あにー? ビットコインで送信してくれろだとー ばかやろー。 ナマンダブ ナマンダブ」 

このふたりの会話は昭和時代のことではない。平成25年の春のハナシである。
釣り人の川や水に対する思いは信仰というほどに深く、言い伝えは多岐にわたって何でも信じている。

ベタ底の釣りが外道だと最初に宣したのは釣りの神さま恵比寿天だとか、釣りは不浄を嫌うから左利き者でも竿尻は右手で握れとか、三途川の釣り番人には入釣料をケチってはならんとか、
とりわけ鬼怒の源流が中禅寺湖だとする説は日光華厳の滝を見れば信じるに足る荘厳さだから、確信犯的絶対論として信じている。
ご法の度立ちションベンには死罪もやむなしだが、良助どんは釣り台から下りる余裕がなかったのだろうか。

『 鬼怒川は、正一位東照大権現 徳川家康公を曾にして祀る日光山東照宮に帰属し、関八州一切を懐に抱くところの神山 二荒嶺(ふたあらりょう)に源を発する。
水は神泉 中禅寺湖に集まりてのち唯一の水口 華厳の滝より俗界へ奔流す。そののち下野の野と民を潤し下りて遠く江戸城に至る神川である。
よって関八州の親方本流に在らすなり 』

ということになっている。
それは開闢以来の日光東照宮が鬼怒川に神格を授けるのを許し、鬼怒川の水が及ぶすべての河川の水運を管掌して水産による利権を独占する方便の、いわば江戸徳川幕府の政策だった。

初期の江戸に流れ込んでいた諸川のうち、上州赤城から東進して来てしょっちゅう氾濫を起こし、市民を苦しめ農地を流していた刀根川 (現:利根川) の向きを変え、房州銚子に導いて海に押し出す河川改修を成功させた家康は、のちに 「利根東遷事業」 といわれる本邦初の本格土木工事を成し遂げた大棟梁(大統領)と人気を博した。

さらに刀根の水の一部を水道川であるところの江戸川を新たに開削して江戸市中に引き、庶民の飲み水を確保したうえに水流を使って下水道まで整備して汚水は品川沖に流した。
工事奉行は太田道灌だった。大田区や道灌堀の名の由来である。

当時100万人もの人口があったのは江戸とヨーロッパのパリだけだった。下水道のないパリがどんな花の都だったかは都市史に有名なハナシである。
栄養豊富となった品川沖は豊かな漁場となって江戸前の魚が水揚げされ、寒村だった大森海岸は海苔養殖で栄えた。
家康は民生を大切にした大将軍として朝廷より正一位の官位を授けられている。盆暮れに贈った海苔の礼だったというが真偽は明らかでない。

家康の利根東遷の真意は、「平野部における軍備の要は水軍」 と説く逆説の変人軍師、黒田官兵衛の兵法を採用した家康のユニークさの表れであった。
万一上州上杉氏が東征して来ても、江戸川の堰に阻まれて直截には江戸に入れない。一方江戸湾における家康の海軍は小型船のバイパス路を川から銚子港に結ぶことを可能にしたのである。
その後戦乱の恐れがなくなれば川は民生用に顕著な働きを果たした。米・絹・木材他の運送である。

例えば銚子の御用醤油は川の船運を使えば加熱処理せずとも生のまま江戸城まで運べた。お殿様は目黒のサンマに生醤油をかけて食されるのがことのほかお好みだった。
江戸前の寿司に銚子の生醤油は欠かせないものとなり、生粋の江戸っ子は寿司と蕎麦しか食わなかったからこの経済効果は大きかった。

現在も江戸川取水堰のある埼玉関宿には堅固な造りの城が残っていて、代々の城主は家康直系の松平氏。
軍備上の役目を終えた後も城は醤油城の異名を引き継いでいる。関税収入があったからだ。
有名なキッコーマンの工場は千葉県野田に所在し、関宿の川向うである。
余談だが、関宿城址公園は利根川サイクルロード右岸にある。江戸川右岸左岸サイクルロードの終点起点でもあるから関八州ロードマンの聖地である。

公園のベンチで休んでいると、川面を醤油の香りが漂って来るのがわかる。
戦さの携帯兵糧として考案された糒(干し飯)はこの醤油と出会って草加せんべいとなった。
せんべいに熱いお湯を注いで3分待つと、醤油味のお粥になる。レトルトフーズの源流である。

鬼怒川は常総古河で刀根川に流入して鬼怒の名を終えるが、刀根の総水量の40%は鬼怒の水である。
古河の四里下流の関宿で江戸川に分流する際、鬼怒の水が全部流れ込む計算には無理があるが、江戸川には確かに鬼怒の水が含まれ、江戸庶民は華厳の滝の水を飲んでいたのだ。
よって 『 関八州の親方本流に在らす 』 は間違いではない。

明治元年発布の神仏分離令により東照宮は神社と寺院とに別れ、同時に川の神格は取り消された。
川の利権を失って以来、神社と寺院は二荒山(男体山)山頂の神域または仏域の所有を互いに譲らず現在も係争中である。将来的にも決着は見ないだろう。
川のことはすっかり諦めたか忘れた様子。

なので作家も安心して書ける。
華厳の滝を水口としてはじけ出る川の名は大谷川という(〇〇宗大谷派とはまったく無関係、嶮しい谷川の意味だろう)。いろは坂の登り口に朱塗りの神橋が掛かっている川だ。
地元では現在もなお神川と崇められ鬼怒川の始まりとされている。

一方鬼怒川の真の源流は日光より北東へ20里、現在の鬼怒川・川治温泉よりさらに山地に分け入った下野と奥州会津の国境(くにざかい)辺りの分水嶺と思われる。地名などない山中に湧き出す水が沢となり、やがて男鹿川となる。
嶮しい山容の男鹿川を下って怒り湖(いかりこ=五十里湖)に溢れた水は名前が変わって鬼怒川となり、さらに下った旧日光地内で大谷川を吸収して大河の風格となる。

鬼怒川は華厳の滝が源発だというのが嘘とは言えないまでも、国土地理院的にはそーゆーことなのだ。
作者は25年ほど前に男鹿川の源流を見たことがある。
車止めから半日釣り遡がった処で沢が途切れ、数日前に付けられたと思われる熊の足跡のくぼみから、それはチョロチョロと湧き出ていた。

飲んでみようと近づいたら山手の熊笹の繁みがガサガサと動いた。
背中に冷たい汗が流れ、釣竿と日光岩魚の魚篭を放り出して尻退いたが思い直して立ち止まり、繁みに向かって腰の弁当包みをベルトごと放り投げてあとは一目散、転げまろびつ沢を降り現在も命をつないでいる。
それ以来あの山には入っていない。ベルトと一緒に置いてきてしまった越後燕三条の本打ち物 「青紙ハガネの山刀」 だけは取り戻したいと25年思いつづけている。

鬼怒川神川説に?マークを追符するようなこと、地元下野国ではあからさまに言う者は少ない。
五十里(怒り)より発して憤怒の怒涛は鬼怒夜叉の如し。
いかにも暴れ川らしく、怒り発でもいーじゃあないかと作家は思うが、地元のひとたちからまた石を投げられそうである。

そのあたりは江戸 明治の政治宗教歴史家の判断を待ちたい。
ちなみに、さらに北東へ10里行った那須、殺生石の九尾狐伝説はふもと黒磯駅の駅弁業者 「九尾弁当」 のオリジナル創作だとする宇都宮駅 「餃子弁当」 の主張は、明らかに餃子の負け。
九尾狐は 「おくのほそみち」 みちのく編にてここを訪ねた松尾芭蕉の句がそれを証明している。

  夏山に足駄を拝む首途哉

この句のどこに九尾狐実在の証明があるのかを、文学文化歴史家がこれから説明する。
メガネを拭いて端座のうえ卓上に気つけの水を用意して読まれよ。

夏山とは噴煙たなびく那須茶臼岳のこと。
茶臼 つまり噴火口を冷却して降りてきた川は那珂川といい、鬼怒川とは山脈を隔てた遥か東方を常総の那珂湊に向かう。
途中水戸を経由するので那珂川は水戸藩水軍のテリトリー、鬼怒川との接点・交点はない。両川ともカジカという海のハゼに似た魚が棲むが、那珂カジカは茶色に斑点、鬼怒カジカは全身真っ黒。
また水戸家は紀州時代から徳川の姻戚なので那珂 鬼怒戦争の記録はどこを探してもなかった。
江戸を発った芭蕉主従はこの安全地帯を歩いて来たことになり、なぜそのルートなのか後世の推理作家が気を揉む点である。

茶臼岳の登り口に怪石 殺生石が柵に守られて祀られている。
硫化水素の毒性など知られていなかった時代、柵の内側に墜ちた鳥や獣の死骸は何年経っても朽ち果てることなく、石は宇宙から来たと信じられていた。
重なる獣の死骸には九本の尾骨が見えたという。

足駄(あしだ)とはワラジの別称、ワラジを拝むという表現は狂言の世界に今も残されている。タヌキか狐に化かされて頭にワラジを乗せて踊り回る間抜けな旅人の心象描写は、狂言の他にも落語界では昔から決まった型があったようだ。
だがそれは、じつは俳諧の世界のほうが先で、あとから江戸落語がいわゆるパクッたのであるが鷹揚な俳諧人はそれを咎めず許した経緯がある。

首途哉 ‥ (読み : くびとなり) これは壮絶である。 命を落とす覚悟を江戸 千住を出るときの「矢立ての初め」に詠んで、果てない北国への旅の途についたばかりの翁が、九十日めの朝に那須殺生石を訪ねるべく、食客となっていた黒羽雲岩寺を弟子の曾良を伴い出門するに際し、北の空に大きく迫る那須連山を見やりながら発句した九尾狐を畏敬する歌なのである。

実際に立った殺生石の前での句は残されていない。
普通こーゆー名所には、俳聖と言われる芭蕉の句碑がポコポコ建てられていて当たり前なのだが、それがない。
翁はそれほどに九尾狐の絶対力を畏れた、同時にこの先に初めて踏み込む ”道(未知)の奥” への恐れも感じていたと言えないだろうか。 

「別説 奥のほそみち」 によれば、芭蕉 曾良主従は隠密のスパイ行の途中であった。硫化水素の危険性は忍びの教養として十分承知していて、那須では長い間呼吸を止めていた。
それゆえ発句など残せなかった。
というのだ。

那須を無言で通した芭蕉は、その後訪れた白河の関で一気に思いを爆発させ、安心して呼吸できる喜びを詠っている。

  心許なき日かず重るまゝに 白河の関に懸かゝりりて旅心定りぬ

白河までは水戸藩の庇護が期待できようが、さて明日からは伊達さまの領内である。
「杖に仕込んだ忍び刀ダテには抜かん、わしらには水遁の術がある」

白河で詠んだ歌には、どこにも伊達と出てこない処が凄味を覚える。
2時間無呼吸で行動できた芭蕉と曾良、この歌は覚悟の歌と思えないか。南氷洋のバショウクジラも同様の潜水能力を持つという。

作家には面白過ぎて隠密説もクジラ説も採用する気になれない。
スパイ説をいうならクライアント名と大義名分を明らかにせねばならんが、おおかたスポンサーは徳川幕僚庁、探察のミッションは奥州伊達藩の領地内に建つ金ぴか寺(実在なのでNSCの観点から寺院名を秘す)に秘かに運び込まれたクーデター用 新式鉄砲ということになろう。 ありそうなハナシである。

その手はこれまで多くの新進作家が取り組んでことごとく失敗している。
その理由は、伊達家ゆかりの奥州陸奥方面での取材の際に芭蕉の句のハナシはともかくとして、伊達の鉄砲と金の量を嗅ぎ回る曾良の名を出した途端に拒まれるからである。

民宿の風呂に入ったら冷たい水に殿さまガエルが泳いでいたり、食堂の前に止めたクルマのタイヤからエアが抜けていたり、セブンイレブンで何故かナナコカードが無効になっていたり。
みちのく圏内に旅するときは、伊達さまや南部さまに敵対的との印象を持たれたら飯も食えない。このことは肝に銘ずべし。

同様に岩手では、奥州藤原氏を頼って逃れてきた源 義経を討ったとされる藤原泰衡の苦渋の決断に至る顛末のことなど聞こうものなら、たちまち石のつぶてが飛んでくる。
義経主従は泰衡の機転で遠く北海道に逃れ、やがて大陸に渡ってチグリス・ハーンになった。
平泉辺りでは町内の回覧板を挟むバインダーの裏にそう印刷されていて、幼稚園児たちはそれを大声でそらんじている。

似たようなことは吉良上野介の国元、愛知県吉良町の立派な水防堤にもあった。桜並木のサイクルロードはみごとな出来で、この地では吉良さまの黄金堤と呼ばれている。
地方に行ったら口は慎むべし。
各地のロードでこけた経験から作家は得難い勉強をいただいている。


<第二部>   フランス川


ともかくも親方本流の鬼怒川ともなれば、大きな懐を頼って流れ込む子分衆の支流をたくさん抱えている。
その中でもあまり目立たない江川という小さな川が宇都宮の東部にあって、そこにさらに注ぎ入れる極めて小さな川の名がフランス川。
名前など無かった小さな川にワシらロードライダーがフランス川と名付けただけなので、地図検索では江川とひとくくりにされている。

小さな川なのにフランス川などと極めて大それた命名なのには訳があって、それを今回の歳時記で紹介することにしよう。
標題の フランソワーズ サガン もまた極めて唐突でございますが、サガンを読んだことのあるなしに関わらず最終的には納得と大きな賛同が得られるよう作家はココロを砕いておりますゆえ、どうぞご安心願いとう存じます。

さて大本流の鬼怒総本家から見れば、江川は流れ込んでくる中小の分家支流たちの一本である。そこにさらに合流してくる孫川 ひ孫川など無数にあるから、一々名前と顔など憶えてはいられない。
そーゆー立ち位置のフランス川は地元では川と呼ばれず、水の流れる 「堀っこ」 と呼ばれている。
フランス川と尊称で呼んでいるのは、護岸のロードを利用する自転車ライダーと朝夕ここを走るランナーと、散歩の犬だけだ。

宇都宮の田園地帯のごく一部の距離ながら西から鬼怒本流の流れる東の低地方向に向かうフランス川は、堀っこのくせに生意気にもどっちに流れればよいか分っている。
そーゆー意味では立派に川である。
非自民を掲げて当選票を得ながら、反自民とは言っていないとどっちつかずの賛成票を国会で投じる何処かの党よりは方向性にブレがない。

フランス川は普通の地図には江川と丸抱えで標記され、江川を表す線は二重線だが孫川以下は一本千で引かれるだけなので川幅から水量などを推量することは出来ない。
そーゆー扱いの川でも人体にたとえるなら毛細血管の一本一本に当り、堀っこ程度の川でも地域住民にとっては大事な川なのだ。

どー大事かを書く前に、本流鬼怒川のことをもう少し書いておきたいのでハナシは一旦フランス川から離れるが、水は必ず何処かで繋がっているからハナシも元に戻って来られる。
そー信じて作家は鬼怒川支流ロードから本流ロードへ突っ走って行くのである。

この辺りは宇都宮の鬼怒川右岸流域に広がる大穀倉地帯で、稲作の田んぼが延々と続いている。
近年では米作からイチゴや洋蘭のハウス栽培などに転換した農家も少なくないが、この地方で一番美味しい米が実る田園地帯との定評を得た訳は鬼怒川から引いた水の豊かさと、その逆の水はけの良さにある。
のちに述べる江川やフランス川などマイナーイメージの川は、その水はけ側を担っている。

田園といえば水、よい水が豊かになければ圃場は維持できない。
打ち込みパイプの井戸から地下の鬼怒川の伏流水を噴出させ、その水圧でスプリンクラーまで回してしまうというような、近代農法はつい最近のことだ。
それより前の時代には、はるか上流地点の鬼怒川に設けた取水堰から農用水路で延々とこの辺りまで引いていた。

その水路は現在も現役で、清らかな水が通年流れている。自噴井戸に頼らない多くの圃場に豊潤な鬼怒の水をいつでも供給できるのだ。
規模こそ小さいが第一章に書いた江戸川水道のようなものだ。したがって設計は名手の手によるがそれは後に改めて述べる。

ネタを出し渋っている印象なのは、送り届けられた昔のネタ帳が手書きなので読みにくくて難渋しているのです。
今はパソコンだからよい時代になったものです。

農用水路は農閑期に水を止めてしまうと苔や草が生え、イタチや野ウサギが穴を掘るいたずらをしたり病害虫の越冬を許したりと良いことがないので通年通水である。
真冬に動きの止まった霜色の田園風景のなかで、唯一脈動を続ける水路はそれだけで歳時記になる。だがそれもまた別の機会に譲る。
一度に書こうとしてぎゅうぎゅう詰めの駄作に終わった過去の失敗を作家は忘れていないのだ。

当然ながら水路は厳重管理され、両脇に鉄骨金網が立てられて一般人は立ち入れない。
よしんば網を破って立ち入ろうものなら、水路内の水量 水流というものは小さなダムの水力発電機を回せるほどの轟々たるものだから、たちまち押し流されて命を失うことになる。
そこで両脇に鉄骨金網、分岐点の水門ゲートの地上部には鍵の掛かる鉄柵があり、管理車以外には人が近づける道もないという徹底ぶり。

一説では基本設計を描いたのはあの農聖 二宮尊徳。測量 勾配計算は伊能忠敬。取水堰の初期の落とし板の細工は左甚五郎の作といわれる文化財である。
コンクリートが普及した昭和初期になって今の構成で再構築されるまで、水は木杭の溝と樋管を通って轟々と流れていたという。真偽の検証はこれも近代農業文化史系の作家におまかせしたい。

アスリート系作家のワシはこの水路が自転車道と近接しているある区域で、堰から次の堰までの間の流速を測ってみようとしたことがある。
発泡スチロール塊を金網越しに投げて自転車で追走し、そのときの速度計を読んで表層速度とする極めてシンプルな実験である。中底部の流速までは測れないが、そんなものはサラッと無視するのがアスリート流。
結論を先に書いておこう、「追いつけませんでした」

注) ある区域 : 水質へのセキュリティ上の観点から作者には具体的地名は書けません、鬼怒ロードを行き来する者なら誰でも知っている場所です。
            ですが、悪意をもって近づくものには竜神さまの祟りがありますぞ。

スチロール塊は堰から波立つ水面に落ちるやいなや、猛烈な加速に乗って行ってしまったのです。あわてて自転車を走らせて追いかけましたが、速度ゼロからの発進では到底追いつかず、そのうちに水路から自転車道が離れて見失い、その頃には追跡者の心臓もいっぱいいっぱいになっていて、この実験は失敗に終わりました。

申し添えますがロードバイクのゼロ発進加速は、信号が青に変わった瞬間から交差点を渡り切るまでの距離でならポルシェより速い。このワシでさえフェアレディーZより速い。
何度やってもワシらが速い。信号グランプリの王者はカワサキやスズキでなくワシら自転車ライダーなのです。

その理由は、ワシらにはクラッチが不要。
信号青の瞬後、下ハン握って息を止めたままのワシらは踏んで踏んで踏みマクル。水ボトル込みでも車重8kgに満たないロードレーサーは1,000分の1秒で全開加速のバーリバリでございます。
フェラーリのタイヤから悲鳴と焦げ臭い煙りが上がって路面を噛んだ頃には、ワシらは交差点の向こう側に到達しているのでございますよ。

そーゆー加速で発泡スチロールを追っても引き離されて行く水路の流速はそれほどに早い、水で磨かれて水苔やシジミ貝など生える余裕がない70年物のコンクリート壁は、施工当時の滑らかさを今なお保ち、流路抵抗が極めて少ない。

鉄骨金網にもたれて息を整えながら水路の流れをしばらく見ていたライダーは、流れて来るゴミなどは皆無なことに気つく。
それほど大事な農用水路に発砲スチロール塊を投げ、しかも回収できなかった自分を恥じた。だから立ちションベンなどは断じてしなかったのである。良助爺さんじゃあるまいし。

圃場水の供給側を書いたが、各田んぼを潤して出て行く側はどうなっているかというと、それがフランス川などの小河川である。
田んぼから次の田んぼを経てそちこちから集まった水は堀っこを形成し、堀っこが合同した処からフランス川など小さな川になって江川に落ちる。江川は水量を少しずつ増しながら流れ、やがて鬼怒川にその水を全量返す。
農用水路が動脈なら、静脈に相当するのが江川、分布血管がフランス川などの小河川、堀っこは腎臓の繊維管ということになる。
ところどころにある沼地は伸び縮みする膀胱のように水位調整池なのだ。

唐突ながら、子供のころ行商に来た豆腐屋の小型トラックのマフラーに粘土を詰める悪戯をした記憶はありませんか?
2分もするとエンストして、二度と始動できなくなりましたね。
そーゆーことは何にでも当てはまる、排出は供給より大切なのです。アスリートの呼吸は吸って吐くのではなく、口から吐けば必要量が鼻から自然と入ってくる呼吸法です。
だから口を開けてハアー ハアーしているアスリートなんか見たことないでしょう。

昔から農家のひとはこの堀っこ川を大切に掃除して、リターン水が効率よく江川にそして鬼怒川に帰って行くように気を配っていた。
特に第一線を退いた農家の爺さんは、曲がった腰に巻いた帯に草刈り鎌をつっ込んで鋤簾(じょれん)を杖代わりにあぜ道を歩き、流れの滞った堀っこを見つけると手練れの技で鎌と鋤簾を振るい、水流を回復させた。
流れが変わって驚いて飛び出すドジョウや小ブナを、爺さんを迎えに来た孫と追いかけて遊ぶうち、孫も水の大切さを知る。

農繁期の水は命の一滴 血の二滴。下流側の田んぼにも水を均等にシェアして共存共栄するのは命血の盟約だったのだ。
「鬼怒川米」 というブランド名には鬼怒農民の誇りが凝縮されている。

ここで農業系作家なら新たな実験を思いつくはずだ。思いつかんような薄情者は作家たる資格がない。
農繁期のある日の正午に鬼怒川上流の取水堰で一分間の水量を計測してその値をAとする。
同時刻に各圃場から溢れ出た水が、堀っこ川を経由して江川に流れ込む全ての位置で水量を計測し、その総量をBとする。

A−B=0 とはならないこと位、誰でも分る。Bの値の方が小さいからだ。
しからばその分はなに? 何処へ行ったの? 借方と貸し方が合わんでもいいのけ? オメらはそーゆー不正経理のうえに圃場特別優遇税制まで受けとるのけ?

太陽熱に蒸発して雲になった、大地に沁み込んで地下から鬼怒川に帰った、Bの計測点は多いので ”づくなし” 係員の水漏れによる計測誤差の総合が大きくなった。
どれも間違いではなかろうが、農系作家ならこー書け。
(朗読は無着正恭先生ふうにお願いします)

「それはね 良助くん、稲穂が丈夫に育つための チカラに変わったのよ、そーしてね お米の一粒一粒がいっそう美味しくなる 愛のチカラになったのさー。
わかるかなー 良助くん、ぼくたちが毎日食べるお米はねー 鬼怒川っていう川の水が 自分を犠牲にして美味しくしてくれたんだよー」

いやー 照れますなあ。こーゆーことはアスリート系作家には向かんとよ。


<第三章>  フランソワーズ サガン


昔からこの辺りは瑞穂野と呼ばれていた、地図には地域一帯の名前でそう記載されている。
日本を大和の国という言い方をするならば、瑞穂の国もまた日本のことである。日本人のこころの根底に常にあるみずみずしい風景を瑞穂野という。
瑞々しく美しい豊かで平和な日本の大地を意味する 「瑞穂野」 を大胆にも一地方の農村地帯に冠し、あまつさえ国土地理院の地図に記載されている事実を、宮内庁も文化庁も国会図書館もご承知であろうか。

社民党の前の党首でこの瑞々しいお名前を持つ闘士がおられる。
今は猛々しくあべさんを誹弾しておられるが、それは仕事だからしょうがない。いったん野に戻れば穏やかな瑞穂野のように落ち着きと香しさに満ちた こころ優しき日本の女性なのだ。
まだまだ野にお戻りのご様子ではなく、ご活躍でなによりでございます。

ところで作者はこころを心と漢字で書いたことがない。
気恥ずかしくて使えないのだ。やましいことが山ほどあるからだろうか。

作者が敬愛してやまない小沢昭一先生 生前の名作、「小沢昭一的 こころ」 絶品でしたねえ。
先生もまた、同じやましのこころであられたのであろうと拝察するのでございますよ。
あの名作は 「昭一的 こころ」 だから名作大作なのですよね、「昭一的 心」 だったら すけべえな爺いだけです。


その瑞穂野に、平成になって間もなく高速道路を通す工事が始まった。
群馬の関越道と茨城の常磐道を結ぶ北関道で、栃木県内の西と東をほぼ真横に貫いて行く。
その計画線は宇都宮の南部を通るとき、不遜にも堀っこ川の真上に引かれた。

瑞穂野平野の圃場を出来るだけ分断しないように配慮しての計画だったとは思う。しかしその根底に、
「従前より川だったのだからその左右を同一の耕作者が田んぼをやっていることはあんめえ。したがって完工時の土壌環境に左右差があったって分りゃしねーよ」
という考え方はなかったか。
さらに、航空写真を基にした机上での起伏計算には地上を歩いて撮影したおびただしい写真帳が邪魔くさがられ、堀っこ川の集水機能と排水能力を甘く見ていたところがあったのではないか。

平野に重機の轟音が無遠慮に響き、堀っこが埋められ土盛りの土手が築かれ始めた最初の年の春から秋にかけては例年になく降水量が多かった。
堀っこを埋めて排水側を締め切った工事区域では、公団の現場事務所や工事業者の飯場・重機やダンプトラックが相次いで水没した。当然である。
竜神さまが彼ら無礼者を沼地に引き込んだのだ。

驚いた高速公団は図面を引き直し、土盛りの両脇に深い排水路を新設してその南北をトンネル管で連結した。水位の南北差が予測の計算とどうしても合わないので太いトンネル管に委ねたのだ。
地元民にとってその暗渠(あんきょ)はまるで、華厳の滝壺から出張された竜神さまの仮の棲みかに思えた。

前年竜神さまに重機を引き込まれた沼は公団が浚渫して自然沼の体裁に作り変え、栃木県に返した。
このときまでハナシが頭上を飛び越えて行き交っているイライラに黙って耐えてきた宇都宮市長がついに拳を上げた。

「おめらー! だいたいに於いてだ、地鎮祭・鎮流祭をやったのかーっ。 おらんとこにはなーんも知らせがなかったどー。
地元を小馬鹿にするのもいい加減にしろ。去年の稲作の大事な時期に田んぼの水が出て行かねえで苦労していた農家の圃場に、こともあろうに重機の油を逆流させて五十町歩を全滅させた責任を ぬしらー! どーつけるつもりじゃい。

瑞穂野田んぼの真ん中を真っ二つにする高速道を、おれらは賛成出来なかった。当たりめえだべ、先祖さまから受け継いだ県内一の美田だ。
だけんどが、県のため お国のためなら我慢しねくっちゃあーなんねえこともあると、市長のおらは泣き泣きお願いに回ったさ。
裸足になって田んぼさ入って農家さんに頭を下げたんだ。
潰される区域の田んぼと跡継ぎのいない農家の田んぼと交換したり、これを機会に離農するひとの就業先を探したりもしたさ。そのたんびにおらは、必ず瑞穂野の水は守るから、おらの命をかけて守るからと約束して高速を通すことになったんだあー。

だけんどが、この体たらくは何だあー。
おらほのふるさと 麗しき瑞穂野の風光はどこさ行ったんだ。香しき堀っこ川はどこさに消えたんだ。今のこの水のありさまは高速土手のドブの溝っこといっしょだんべえー。違うかあーっ!

おめらー よっくと聞けよ、県知事も聞け。 おらは農家の皆さんにぶっ殺されてもしゃーねえ。嘘ついちまったんだからなあ、とっくに覚悟はしてるだ。だけんども おらは卑怯者では死にたくねえ。
おらを信じてバカを見た農家の怨みを、これから晴らすからよっくと聞け。

おらはなあ 宇都宮市長としてもあるがその前に、ガキんときから鬼怒の水を飲んで育った男として おめら ”お上” と刺し違えて高速道を止めるために今日は来た。
「止められるもんか」 だとおー! ばかやろーっ。
おらのうしろを見てみれ! 何十万のスキ クワが光っているべさ。 おれらはこれで土手を突き崩す。 なめんなよー 土のことならおれらのほうが専門だあー。

逮捕するならおらを一番先にしろ。政令指定都市60万市民の宇都宮の市長を逮捕しろ。 うしろ手錠でしょっぴいてみろ。 どっかの都知事とは市民の支持率が違うんでえー べらぼーめー。 
明日の新聞が楽しみだー。 
解かっかあー 明日おめらは日本中の世論から叩き潰されるんだ。このくそいまいましい土手みてえになあー。

そりゃーおめらも仕事だろうよ、板挟みなのはよーくとわかる。おらも副市長時代が長かったからなあ。だがおめらは、ここを追い出されても任地を変えてまた働けるでねーか。
だけんど、ここにしか土地を持たねー 瑞穂野の民はなあ、ここを出てゆくわけにはいかねえー。 そーだっぺ 行くとこがねーんだから。
爺いさん婆さんが命懸けで開梱した土地だぞおー おらたちも今ここで命張って、何の不思議があるだ。 どーだあー 皆の衆」

怒涛の声が上がって地響きとなり、重機の先端アームが震えてガクッと首を垂れた。
もはや勝負は見えた。最後のゴール前ストレートに市長はVゴールを賭ける。

「このドブっこ水路をおらほが提示した図面通りに作り直して、元の堀っこ川のように満々滔々と鬼怒の水を流すか、どーじゃあー! きりきり返答いたせえー。
返答次第では工事差し止めの仮処分を今すぐ出す。もはや1センチとて工事はさせん。これは地元市長の専権事項じゃあーっ」

市長の専権事項はハッタリである。差し止め仮処分は県知事が申請して裁判所が代執行するのだが、工事道路の入り口までは市道だからその通行禁止処分なら十分に専権可能な市長の後ろには、鎌や鋤を持った農民と市民が二十万人も立っていた。

市長が言った何十万のスキ クワはハッタリではなかった。
目立つところに地元とちぎテレビのカメラカーと下野新聞の軽ライトバンも来ていた。県警のパトカーは最後尾である。当然である。
作家も微力ながら、宇都宮サイクリング協会の呼びかけに呼応して自転車に乗って抗議集会に参加している。当然である。

結局、国交大臣と農水大臣などの所管と県知事のとりなしで農家とは大幅な補償追加が成り立ち、沼地は周りの遊休地や雑木林と合わせて県立の自然公園として整備し直されることになった。
そして高速土手の両脇の排水路の側道はかさ上げされ、そこに市役所から続き江川まで伸びる遊歩道とサイクリングロードが新設されることで市民もやっと鉾を収める。という大団円を見た。

宇都宮で毎年秋に行われる自転車の国内最高格式レース・ジャパンカップ。大会名誉会長はもちろん宇都宮市長だ。
スタートのピストルは当然市長だが、ゴール後のウイニングランにロードレーサーに乗ってチャンピオンと並走するのも市長だ。毎年のしきたりだ。
宇都宮ではロードバイクで50km以上走れない者は市長選の候補にすらなれない。逆に言えばロードレーサーなら市長になれる可能性が極めて高いのが宇都宮なのだ。

開通式典の日 (高速道じゃねーよ、堀っこ川のサイクルロードだっぺ) 宇都宮ブリッツェンのチームジャージに身を包んだ市長の顔は晴れやかだった。
次期市長選は無投票間違いなしなのは言うまでもないが、市役所から一本道で鬼怒川ロードまで続くサイクルロードを市税を使わず構築した手腕は、後世に語り継がれる宇都宮史に、いや下野史に、いーや 日本ロード史に燦然と輝く金字塔。
集まった市民ライダーと共に走り初めを祝ったのである。

自然公園は 「県立みずほ野公園」 と名付けられ、雑木林はカブトムシの名所になって子供たちのキャンプ場ができた。沼にはカモや白サギが遊びフナやホンモロコも泳いでいる。
細い小川には沢ガニとホタルの幼虫が棲み、そのうちサンショウウオも這い出してくるだろうというウワサだ。
駐車場やトイレも整備されたので、子供連れのママさんグループがベビーカーをクルマに積んでの来場が多くなり、取り付け道路脇には喫茶店やおもちゃ屋、土産物屋などが次々できた。

三年目には堀っこ川の水位も安定し、給水元は鬼怒川だから鮮烈な水が通年流れる一級堀っこの容姿を完成させた。
そうとなれば田んぼを埋め立ててレストランなどもできて、そのなかに左岸から堀っこ側に向けてオープンテラスを持つ小じゃれた洋菓子屋がオープンした。
川を泳いでパンをもらいに来るカモやオシドリが子供たちに人気で、テラスで遊んでいても落下防止のフェンスがあるので母親も安心だ。

ロードマンにとっては鬼怒ロードの分岐から近く、宇都宮の店舗に常識のサイクルラックが設置されているので、休憩中に自転車が倒れる心配がない。
自転車を止めたらそこにテラスの椅子とテーブルがある、というのがなにより嬉しい。遅れた仲間を待つのにちょうどいいのだ。

トイレがあって顔が洗えて牛乳とあんパンが食える。コーヒーやケーキは決して注文しないローダーだが、平日にもしょっちゅう来店するワシらの存在を店主も無視できなくなり、自由に使えるエアポンプを置いたりタイヤのチューブや消耗品小物も委託販売するようになった。
そのうちに店主夫婦は自転車が欲しいと言い出したので、ショップを紹介してお高いフランス車をペアで買わせ、ワシらもショップで大きな顔ができた。
なぜイタリア車でなくフランス車かというと、その洋菓子店の名前がフランス屋というからだ。

かくしてこの排水路の堀っこ川も、いつの間にかフランス川と呼ぶようになった。
名付け主はワシらローダーだが市長に報告して快諾を得ている。
長い長い説明になったがフランス川命名のゆえんである。それだけのハナシなのだ。 軽めのよい歳時記が書けた。

なにー? 季語に相当する部分が読み取れないとな。
キビシイねえ あんた。
よーし まだあるぞー。

フランス川の川岸に立つ洋菓子店 フランス屋で、天気の良い日には表のテラス席に座って静かに読書をなさっておいでのご婦人がいる。
ワシら汗臭いシモジモの者はなるたけ離れたテーブルで牛乳とあんパンなのだが、品のよいご婦人は紅茶とケーキである。
ケーキの名前はフランスとイタリア国境のアルプス最高峰、モンブランというのだそうな。ワシらが知っているアルプスといったらマドン峠などツールの峰々である、なるほどそーゆー格好をしている。
ともかくも、よい雰囲気のフランス川ロードなのだ。

気分のよいロードだからランで走るひとも多くなって、心配していたロードバイクとの接触事故があった。翌日視察に来た市長が即決で大岡裁きを下した。
即ち、右岸のロードを歩行者と犬・ベビーカー・ママチャリ専用とし、フェンダーの無いスポーツバイクは左岸だけを走る。
ランナーのうちハイスピードランナーを自認する者は左岸を走ってもよいが左端を走る。ジョギング程度は右岸。
ロードバイクでもへたれて押して歩くときは橋を渡って右岸に回る。

この大岡裁きを市条例に格上げせず、フランス川のきまりに留めた点は市長の慧眼。市政上最大の手柄と評判がよい。
規制条例化で堅苦しくしばると反発してわざと違反する者がいる。利用者同士の自主規制というのが精神上からも一番守りやすい。

おかげでワシらがハイスピードランナーを追い越すときには、いちいち 「ほーい うしろー じてんしゃー」 などと野暮な声掛けをせずとも安全に共存している。
ローダーの発する気合の速度は自転車より数倍速い、ランナーは背後から迫り来る気合を感じて30m先ですでにこちらの速度を読んでいる。
それは彼がバイクの接近を認知した証しに、左端の白線の上に靴の軌道を乗せた挙動でライダーも確認できるのだ。

いまだ未熟者の弟子レールマンなどは気合の到達距離が3m程度なので、ランナーを追い越すときは大きく右側から丁寧に行くように厳命してある。
それでも心配なので、弟子思いのワシは鬼怒牧場の仔牛が首にかけていた小振りの鈴を失敬して彼のバイクに取り付けてやった。
カウベルはフラつき自転車の接近を音速度でランナーに伝えるのだ。

彼がいうには、
「鈴は効果的で気に入っているが、どーゆーものか毛足の長い黒い犬が何処までも追いかけてきて、前方に回り込んでに立ちふさがるのでかなわん。
ぼく犬に気に入られたのやろか」

鈴は彼が真っ直ぐ走れるようになったら牧場のボーダーコリーの留守をねらって一緒に返しに行くことにしよう。
お礼にはレールマンの奥方の里芋畑から葉の付いた太めの茎を二三本失敬して行けばよいと考えているが、仔牛には里芋本体のほうがよいだろうか。里芋の茎はズイキだもんなあ。

フランス川の側道のわずかな土の面にすき間なくタンポポが咲き、横の田んぼの土手には菜の花がそよ風に揺れて、フランス屋の白い外壁と花々の黄色の対比がいかにも早春を感じさせてくれる気持のよいある日。
テーブルに本を置いて席を立ったご婦人がワシらの脇を通ったときに、春の日差しに暖められた空気がスッと裂かれてそのすき間にズイキの、いや ジャスミンの香りがフーッと流れ込んだ。
ワシとレールマンは鼻を突き出し、香りの航跡をたどってご婦人のテーブルのほうに椅子ごとフラーッと傾いた。そのさまは菜の花にとまる蝶、いやズイキにたかるダンゴ蜂。

本の薄い水色の背表紙には 「悲しみよこんにちわ フランソワーズ サガン」 と書かれていた。

その日以来、フランス川左岸ロードは、フランソワーズ サガンと呼ばれている。
この名称変更については市長に報告をしないことにしている。あのひともあれでなかなか女好きだから、公務をさぼってバイクでしょっちゅうここに来ていては市政の停滞を招くからだ。
ワシら団塊ブラザースは公益を第一に考える優良市民なのだ。


 おわり


次回はウガンダのアパルトヘイトと生涯をかけて戦った偉人、 エドガー ウガン のハナシでもしましょうか? 
えっ なに? ネタばれしとるってかいな。 アンタ 意地悪やなあ、 知らんふりするのんが団塊ブラザースの仁義やないかいな。

 syn

おしぐれさんの ロード歳時記 「 霜げる 」
2013/12/16

< この部分は本の装丁の帯です >  単行本に巻かれた姿をご想像ください 




                  いかにも歳時記らしく お題は 「霜げる」

      ”でほらく書き” と石を投げられ続けた男が一瞬だけきらめいた、と錯覚する愛の賛覚


                                                  書き出しの2行に打たれました、その後につづく 「歌詞」 には泣きました。 ‥ 一読者




< ここからが本文です >    ‥ いちいち説明すなっ!  … ゴメンなさい。



 第一章 「 霜爺い 」

川漁師の爺さんに出会って初めて川コトバの旋律を聞いたとき、背中に覚えた戦慄は今でも鮮烈に憶えている。
「 これはロックだ! 」

      
「そごの小屋でなあ 目ぇーさましたればよー 軽トラの窓っこがぜーんぶ霜げっちまてでなあ。 はあー たまげだもんだべ。
溶がしてるひまなんざねーがらよ ドア開げたまんま走ったんだあー したればはあー 木の橋も霜げでいたべさ 下の堀っこさにドスーンとはまっちまったでなや。 はあー 困っでいだんだあ。

そごに あんべえよぐ オメらしが来なすったっちゅうワゲだあー。 あっ はっ はぁー よがったなあ。 ちょっくら手えー貸してくんねえがあー。
そーれにしでも オメらし こったら霜げた朝っこがら 自転車なーんか乗ってよー なあーにしてるだい? まで オメらし! 鼻水が霜げでいるでねーが、 ほれ これで拭け」

爺さん首に掛けていた酒臭いタオルを差し出す。
いいひとには違いないが酒臭いのはいかんべよ。

この爺さん、昨夜ホンモロコの火振り漁をしに河原にやって来た。産卵のために静かな浅瀬に来るモロコを松明の明かりで一か所に集め、網で一網打尽の算段。
川に入り鋤簾(ジョレン)を使ってトロ瀬の魚道を作り、頃合いをみて魚道の上に仕掛けた網を引こうと一杯遣りながら待っていた。
寒さ除けの漁師小屋は解禁を前に杉の間伐材と稲わらで河原に作っておいた。

その掘っ立て小屋で炭火を熾し、おっかーが持たせてくれた重箱の里芋の煮っ転がしで呑んでいるうちに眠りこけ、寒さに目を覚ましたら朝になっていた。
朝は孫を小学校に送るのが爺さんの役目で、軽トラはそのためにせがれが買ってくれた。孫が学校に遅れたら軽トラを取り上げられて火振り漁に来られなくなる。

そーなっては大変だと窓も拭かずに走り出したというワケだ。
「えーんだ、眼鏡かけだってー どーせ よぐとは見えねーんだがら」

なんという達人であろうか、このご仁は心眼で軽トラを運転し孫を乗せて小学校に送って行く。この朝はたまたまタイヤが霜げで滑ってしまっただげだ。
タオルが酒臭いのなんか爺じ臭いのよりなーんぼマシだがや。

この川でホンモロコ漁が許されているのは何人もいない。
「モロコ以外はリリースする。たまたまサケやアユなど貴重種が捕れたときは生きたまま県水産試験場の鬼怒分場に持ち込んで委譲し、捕獲者としての権利を主張することはない」
と宣誓したプロ漁師だけのはず。
それ以外の素人によるモロコ漁は密漁として厳しく検挙される。

モロコはこの川では雑魚と分類されて一段軽い扱いながら、型と数をそろえて町の割烹店に持ち込むと良い値がつく。
身が小さいから刺身を造るのは根気が要るが、それゆえ宴席に並べば鮎より高価で希少なのだ。

ワシは割烹店の親方料理人に頼まれて刺身用のモロコ包丁を打ったことがある。
注文のサイズになるよう鉄の薄板を鍛えて鋼の粉を乗せて火中に入れると、刃先は火に負けて‘はぜ’て跳んでしまった。
やむなく市販の切り出しナイフの背の側を薄く研磨して小さな包丁を仕上げた。

恐るおそる届けに行った先で出されたホンモロコの刺身は絶品だった。背の皮に浅く入った飾り包丁の跡に、沁みた醤油の色を透かして刃紋が見えた。
ワシもいつかは燕三条の切り出し小刀に迫る刃物を打ちたい。それまで親方には達者でいて欲しいし、霜爺いさんにもモロコ漁を続けてもらわねばならん。

爺さんは県知事(来たのは代理だが)より水産資源保護調査員の腕章を宣誓受領し税務署に対しても漁具と軽トラが免税の川漁師を名乗れる程の、それ程の名人ステータスでありながら一杯遣りながら網の引きひもを足首に巻き付けたまま、霜げるわらの小屋で朝まで寝てしまうという屈託のなさである。

川の瀬音に時おり跳ねる魚の水音が重なり、そこへ月と雲との行き交う音がセッションする壮大なBGMをバックに酒を呑み、星に向かって ♪ Take me home , country roads ♪ と歌う。
この爺いさん、よく見たら前歯のすき具合がキング オブ カンツリーこと John Denver にそっくりじゃないか。

キング オブ 鬼怒老師の魂胆の清々しさと孤高の輝きにワシら凡夫は仰天平伏し、よろこんで軽トラを道に戻すお手伝いをしたのである。


『 星の夜の 霜げる河原にひとりゐて 落とし網せそ足で引くらむ 』

そのこころは ‥ 盃と肴が両手を占める … おあとがよろしいようで。





 第二章 「 霜草 」

ロード脇の土手を覆っている背の低い芝草に降り下りた霜が、朝日を浴びてキラキラ光るようになってしばらく経つ。
12月も初めのうちは陽光が力を増す8時には溶けてしまっていたものが、中旬にはだんだん頑固霜に変わって午前9過ぎまで溶けない日が多くなった。
毎朝それを1週間も繰り返すと芝草の葉っぱもついに根をあげる。

葉っぱなのに根をあげるという不可思議な表現に作家は驚いてしまうが、ワシのせいではない。
「霜げる寒さ」 「霜げて前が見えない」 これらの言葉のほうが驚きはより大きい。

さらに 「おめ そったらとこで 何あーにを霜げてんだあ」 に至っては、しょんぼりしている・ ショボくれた風情・ さえない様子・やるせなさ、などをユーモアを含ませ的確に表現している。
昔から霜は 「降る」 とは言わない。霜は 「降りる」 が正しい。
雪は積もらないが霜が降りて 「霜げる」 この地方の風土に醸成された美しい言葉である。

「霜げる」 は 「でほらく」 や 「おしぐれる」 に対してその品性 風格において群を抜いていることを万人が認めるだろう。

霜げるの げる は ゲルに通じ、半固体の状態などと科学者ぶることはない。霜げるの げる は霜げた状態でいいのだ。
霜仁田はネギとコンニャクの産地、霜ネタは本章に似合わない。霜げるは格調高いヤマト言葉なのだ。

草の葉っぱがカサカサひとり言をいう。
「霜が重とうて冷とうて もう辛抱たまらんわ、わし霜グレてやるー」

ちりちりに縮んで小さくなって茎の付け根の処から折れ曲がり、土に伏せたような恰好で枯れてしまった。溶けかかった霜がいっそう朝日にきらめく。
これが霜げた朝の原野の風景。

葉っぱは枯れてしまったが草の本体まで死んだわけではない、枯れ葉をかぶり死んだふりをして寒風から茎と根を守る休眠状態になっている。
もしも気候に異変が起きて、周りの状況が冬の風土に固定されたまま10年経過したとすると、普通の草植物ならトロけて無くなっているのだが芝草は大丈夫。
11年目に春の状況を与えてやれば新芽を伸ばして光合成を開始する。

逆に干ばつの夏モードにロックして10年放置の場合でも、水分を消費する葉っぱを切り捨てて根っこと茎だけになって生き残る。
極めて細くて堅い茎はスジ繊維だらけで、葉が無くなれば何の仕事もないから水なしでも平気で100年は生きられる。
101年目に雨が降ると茎は柔らかくなってムチのようにしなり、大地を掴んで新しい芽を伸ばすのだ。
芝草は花実と匍匐(ほふく)茎のふたつの繁茂法を持っていて、普通には無性生殖となる匍匐茎は使わないで草として暮らすが、環境が厳しくなれば伝家の宝刀を抜き払って背中に背負い、スパイダーマンのように匍匐前進をする。

沙漠の砂の30センチ下には砂粒とそっくりな形をした虫の卵が眠っていて101年後の雨を待っている。
その間DNAは傷つくことなく保持されていて、雨後に這い出てくる虫は101年前の親虫と同じ姿と同じ記憶を持っている。というのだからタマゲタものだ。

虫でも草でも過酷な環境地域つまり極地に適応すると、乾燥や凍結は死を意味するのではなくて種の保存の一手段だったようだ。
近年ヒトの精子や卵子も凍結保存が認められたが、乾燥保存してお湯で戻すインスタントラーメン型は誰もやらない。
たんぱく質は60℃で固化してダメになることをゆで卵作りで知っているからなのだろう。生殖可能年代の男女は熱すぎる風呂に入ってはいけない理由だ。

芝草はそのしぶとい極地性が買われ、河川の堤防土手の保全目的に沙漠から種を持ってきて試験的に蒔かれた。
日本に入るとき根に虫の休眠卵が付着していないことを入念に確認されたことは記録に残っているのだが、正確だったかどうかは今さら確認できない。

7年前、鬼怒川土手でワシのヘルメット内に飛び込んで眉間を一刺しして行ったあのスカラベ蜂は、どう考えても日本古来種の蜂ではない。
スカラベってエジプトのピラミッドを盗掘者から護っているという伝説のカブト蜂のことではないか。
その卵が時を越えて … 。
あれ以来ワシの脳は極性が一定しないように思えてならないのだ … 。

芝草が日本に来たのは今から50年ほど前のことで、芝草という名前はワシらが勝手にそう呼んでいるだけ、ゴルフ場の芝と姻戚の関係はない。
ワシらのフィールドに生えている雑草で、土手に転がし置いた自転車を良い具合に受け止めて滑り落ちて行かないから一番馴染みの草なのだ。正式名は知らない。

江戸期に開始された河川の改修・付け替え工事で造成された堤防土手の土止めには、主に日本古来のカヤツリグサ科の多年草を使っていた。
意識して使ったと言うより勝手に生えたと言った方がよいかも知れない。
カヤツリグサは草高40センチほどの細葉のいわゆる雑草。日本中の田園地帯のあぜ道で見られる。背が低くて藪のようなモッコリにならない処が憎まれない所以であろう。

ひと口に雑草というが、雑草の定義を Wikipededia によれば 「人の社会活動により蹂躙され尽くした場所に唯一の棲息を求める植物をいう」 と書いてある。
これを訳したお方は幸せな人生だったろうか。

カヤツリグサは少年の頃よく走り回っていた野道にいくらでも生えていた。
草の両端を結んでトラップを作り、誰かが足を引っかけて転ぶのを見て喜んだ記憶がどなたにもお有りであろう。あの草である。
葉脈にイネ科のようなザラザラが無いので素足を引っかけても血が出るようなことはなかったし、意地悪ババアであっても年寄りが野道を通って来るときは葉を堅結びにすることはなかった。ワシらはフェミニスト少年だった。

ところがこのカヤツリグサ、土止め効果は良かったのだが土手の全面に生え広がるような攻撃的繁茂をしないのんびり派だったため、後から来たセイタカアワダチソウ(ブタクサ)の侵略を簡単に許してしまった。
いつの間にか秋のロードの土手は醜く黄色いアメリカ西部生まれのブタクサだらけになり、秋の花粉症の元凶として、ことのほか呼吸系にデリケートなロードライダーから非難の声が上がった。

当時の国土交通大臣は自転車乗りとして著名な谷垣禎一氏、先の野党時代を生き延びたときの自民党総裁である。氏もこの時期は花粉に鼻水垂らして自転車を漕いでいた。
しかし氏は、「ブタクサを切れーっ」
などと大声を上げることはなかった。先輩議員の荒船〇十郎先生が運輸大臣のとき、上越新幹線の駅を故郷の赤城山のふもとの寂しい村に停めてひんしゅくを買った一件を憶えていたからだ。

氏は黙って自転車を漕いだ。涙とくしゃみと鼻水の跡が今も名車 デローザ キング のフレームにこびりついているという。
我慢こそが氏の政治家としての美学なのだ。現 法務大臣である。

驚いた河川管理局は大型草刈りマシンを大量投入してブタクサを一掃したのだが、そのときに代替えの雑草種として背の低い多年草の芝草を本格的に導入した経緯がある。
これをインサイダーだ、と指弾する者は皆無だった。悪いのはアメリカのブタクサだからだ。悪者を外国に求めたサイクルマン谷垣氏の作戦勝ちだった。

芝草は堅い葉と茎を持って根が地中に広く延びるので土手崩れを防ぐのにちょうど良かった。
元々の原産地は知らない、沙漠と極地の両方をもつ大陸の生まれなのだろう。
春から夏に葉が伸びるのは植物の常で、芝草もよく伸びるが茎が横に伸びる性質が他の雑草と違って評価されたわけだ。日本上陸から50年経過しているが、まだまだ全国のロードの土手に植え付けが完了してはいない。

それまでの自然に生えた雑草や篠竹の土手ではどうだったかというと、草は野放図に上に伸びたから野生動物が棲み着いて何かと具合のよくないことが起きた。
キツネや青大将やフクロウは土手に穴を掘るネズミやイタチ・野ウサギを捕食するからよいのだが、猿・たぬき・鹿・イノシシ・熊、それにホームレスなど大型の動物となると土手うえのロードを行く河川パトロール車や自転車と軋轢となるので草刈りが必要だった。

この草刈り費用が馬鹿にならない。
草は刈ってもまた伸びる。しかも刈った草は雑多種入り混じりの上に空き缶やビニールゴミまで含んでいて堆肥にもならず、焼却処分している。
シンプルな形状の土手ながら、その総延長で掛け算すればどれ程の面積となるか想像できよう。
入札指定業者になれば土手の草刈りだけで100人もの職人を常雇いの社員として養って、自身は毎日ゴルフ三昧の会社社長が一級河川一本につき5人はいるという。

土手は河川の一部。河川に除草剤は使えないから建設省時代の管理局はアタマを痛め、当初は草刈りより人手の掛からない温厚動物のヤギを放して彼らに草を食わせようと考えた。
ついでにヤギに斜面を踏みしめてもらって、いわゆる麦踏み効果で土の流失を防ぎながら新芽をうながそうというもの。

ところが牧場のトラックに乗せられて堂々の出動をしてきた日本ヤギは、硬い葉を嫌いヨモギやオオバコ・それにタンポポや菜の花のあるところばかり食って、とっとと次の場所へ行ってしまう。
しかも斜面を矢のように走り、ブタクサなんかは見向きもしない。
中には土手を降りて農家の畑を食い荒らしたり、農家の飼いヤギと恋仲になって帰って来ないヤツまで出てきた。

河川管理局は急遽ヤギ追い隊員を増員しサファリ仕様の屋根なし四駆車も増やした。
アルバイトのマウンテンバイク乗りも雇ったが、そのころ行われた省庁改編により建設省は国土交通省と改称していて、河川管理の予算に占める人件費の急増に人事院が待ったをかけた。

「オメら遊んでんじゃー ねえぞおー」
お叱りを受けたというワケだ、当然のことだ。国家公務員が投げ縄振り回してヤギを追っかけてマウンテン サファリで遊んでいては、いいワケあんめえー。
そうこうするうち、メスヤギを追いかけていた隊員が角のある発情期のオスヤギに逆襲されて怪我を負う事故があって、ヤギ作戦は成果なく頓挫した。

粗食に耐え、棘のある灌木も食うというアフリカ羚羊を連れて来ようという案もあったが、
「キリンがいいべ、下の側道から長い首を伸ばせば上のロード際まで届くべさ」 「ほんだら象だっぺや、日に2トンは食うぞ」
これら嘘のようなアホ話を国家公務員が真剣に議論していた処に国会から 「土手の草刈りを民間に委託する条例案が通過」 の知らせが入り、彼らは猶予期間明けにすべて失職した。当然だ。
このとき谷垣氏は内閣改造によりすでに国土交通大臣ではなかった。ヤギ作戦失敗の責任と自転車マンとの関係は、特に取り沙汰されることはなかったのである。

極地生まれの芝草は少ない葉っぱの1枚1枚が命の綱だということをDNAの記憶でよーく知っている。
干ばつと氷結の両方を知っているから気合いの ”キ” の字がそんじょの葉っぱと違うのだと思う、どう違うのかは説明できない。それでも平気なのは ”で” のつく作家だからだ。

だから(なにが だからじゃー)枯れた葉っぱを芝草の茎は離さない。北風に吹かれてもけっして離さないのは、枯れ葉っぱは良い具合の保温材になることを知っているからだ。

枯れ葉の裏側には蝶のさなぎやバッタの卵など土手に棲む小さな生きものたちの次世代バージョンもしっかりしがみ付いている。彼らもまた知っているのだ。
もしも茎が枯れ葉を離してしまったら、小さな生きものたちは枯れ葉っぱと一緒に風に飛ばされ川に落ち、春までには海まで流されて塩分過多で死んでしまう。

芝草は春から夏に蝶やバッタに花粉を運んでもらった恩義がある、だからさなぎや卵のしがみついた枯れ葉っぱをけっして離すことはないのだ。
虫もそれを知っていて、丈夫な芝草のとりわけ強そうな葉っぱに卵を産み付ける。といわれている。

それが本当だとすれば、この時期に枯れてもなおしぶとく残っている葉っぱの裏側には必ずさなぎや卵がひっついているはず。
あっさりと風に吹かれて川に落ちるような ”づくなし” の枯れ葉に卵を産み付けるような ”そこつ” で非情な虫などこの世に一匹もいないはず。

そーゆー話しには滅法涙もろいワシとロードマンはゴム長を履いて、冷たい水面に漂っていた枯れ葉っぱを拾い集め、一方土手の芝草に枯れ残った葉っぱを一枚一枚裏返してみた。
そしてひとつの結論を得、草と虫の間の情というものに大いに涙したのである。

その日の反省会の酒はとても美味かった。
ワシらの酒はいつだって旨いのだがこの日はことのほか美味かった。

ワシらの草と虫の共生の話しを居酒屋のカウンターの端で聞いていた山女魚釣りの偽善者、ギンちゃんが知ったような顔で口を出す。
なぜギンちゃんが偽善者かというと彼は疑似餌で山女魚を釣るのだ。ペテン師以下だ。

「お言葉ではございますが先生がた、川面に浮かんだ枯れ葉の裏に蝶のさなぎやバッタの卵が付いていなかった理由でございますがね、
川底から枯れ葉の舞い落ちるのを待っていた山女魚がジャンプ一番、3分で食い尽くしたのさね、ほんでもって葉っぱにはハミ跡ひとつ残さないのでございますなあ」

このやろー 殴ってやろうか。





 第三章 「 霜もみじ 」

ロードの舗面の白線に降りた霜が凍ってキラキラしている。
よく観察すると舗面の灰色部分は凍っていなくて白線の上だけが凍っている。
白い塗料の厚み分だけ地温が放熱されて氷温になったと思われる。気温が上がってくるまでは白線を避けてライン取りする注意が必要だ。
いよいよロードマンには辛い酷い冬の到来である。

冬に葉っぱが枯れるのは、斜面では極めて貴重な水分を無為に浪費させない計算と、折り重なって地に伏せる枯葉が陽光を集めて地表を温め根を守るプログラミングが出来ているからだ。
以前のロード歳時記 「四季桜」 で樹木の紅葉するワケを書いているが、土手の芝草もまた紅葉する。

ロード土手の景色は冬枯れ前にいっときの華やかさに彩られる。
「草もみじ」 と表現するそうで、ただの雑草だった邪魔くさい奴らでも小さくうずくまって見事に紅葉しているのを見ると、間もなく霜げてしまうのが可哀そうでならない。

「うんうん よしよし 愛い奴じゃ。来年も生きていたらまた会おうな」
そう思ってしまうのは、いよいよワシらにも枯れ葉の時季が来たからかも知れない。

ロードの景色がだんだんと寂しげな色に変化して、そしてそれ以上は変わらなくなるのは年が変わって1月になってから、そしてそれからは毎日北風が吹く。
風に吹かれながら南へ走るのはいたって楽ちんだから思わぬ遠くまで行ってしまうことになるが、その帰り道の酷いことを考えたら朝は頑張って北に向かうべきなのだ。

ところがどういう加減か日中になって南風に変わり、それがどんどん強くなる日がある。
北風に向かって 「男気」 で走っていたときに急に足が軽くなったら、それは ”ランニングハイ” になって調子が出たことではなく風が変わったしるし。
それを知らずに調子こいてハイになって、気がついたら100キロも行っていて自走で帰れなくなり、栃木県名物の ”自転車お助けタクシー” のお世話になる馬鹿者が時々いる。

注釈) 栃木県名物 ”自転車お助けタクシー”

    普段は普通のタクシーだが屋根にサイクルラックを装備、トランク内にパンク修理用具を積載しドライバーは修理技能を習得済み。
    故障での救援要請が入ると現場まで駆けつけて応急処置をしてくれる。希望すれば近くの駅、自宅までタクシーとして走ってくれる。
    県内観光地とくに那須高原で大活躍。宇都宮市周辺のタクシーは屋根にサイクルラックを載せた車両(プリウス)が3割を超えて走っている。
    さすがはジャパンカップ サイクルロードレース開催県であり、プロチーム 宇都宮ブリツッエン・那須ブラーゼンのホームタウンである。
    ちなみに今年ツール ド フランス インジャパン を小生意気にも開催した埼玉市には、このような動きはまだない。


ロードの自転車乗りにとって、そこそこへたれて向きを変えたら帰り道も向かい風だった、というときほどへこむことはない。
午前中の寒風を前面に受ける我慢の走りは、帰り道でのご褒美が欲しくて 「男気じゃあーっ!」 と頑張ったというのに … 。

「行きも帰りも向かい風とは約束が違うやないけ ばかやろー」
悪態をつきつきペダルを踏むことになる。
ギヤを何段も落として左右にヨロケながらの走りでは時間が倍ほどかかってエネルギーが尽きてくる。その前にモチベが果てる。

宇都宮周辺のタクシー業界が設備投資してでも ”お助けタクシー” を増車した理由はここだ。
県央を南北に直線的に走っている鬼怒川ロードで風を読み違えるロードマンは数知れず、これは商売になる。しかも休車となりやすい日中の需要だ。

「ワシは断じてその手にゃ乗らんぞ、タクシーには乗らん。だいいちワシは携帯電話を持ってきておらんわい。ざまみろー」

こんな要らぬことを考えながらノロノロと進んでいると、前方から背に風を受けて快調に飛ばしてくるローダーがいる。
目が合うとニヤリとしやがる。

「オメさんアタマ使えや、ひゅっ ひゅー」

「こらあーっ! レールマン 止まれえー 戻って来ないと今度こそ破門にするぞおー」
まったく悪い男である、無風だとまるでノロくさいのに温かい南風を帆に受けるときだけ 「ひゅっ ひゅー」 とは腹がたつ。こいつの帆がまたデカイのだ、つまりデブなのだ。

「お師匠、ずいぶんへたれてるねえ。どこまで行ったの」

「おまえなあ 調子こいて走っていたが帰りはどうするつもりだったんじゃ。押して歩くのか? あんたならそのほうが速いだろうがな。
さあ レールマン ワシの前に立って風除けになれ、ワシを引け!」

「あららー ご機嫌悪いねえ、へたれの極致かね。しゃーない 引いてやるからついて来な。いいかい 飛ばすからねえ オメさん ちぎれるんじゃないよ」

レールマンを風除けにしてずいぶん楽になった。エネルギー枯渇寸前だったようだ。
それにしても彼の 「飛ばす」 は歩くより遅いからちぎれるどころか追突しないように気をつけるほうが大変だった。
それでも風除け効果が効いて、彼のトロッコ作業場に着いたころにはモチベだけは回復してきた。

モチベが回復すれば体力回復の具体策を実行せねばならない。
大型のストーブに火が盛んに燃えて、足先の血行が戻ったころレールマンの奥方が里芋の煮っ転がしと熱燗を載せた大きなお盆を運んできた。
作業場の隅に積んである稲わらの中からブチ色の弟子犬ブッチー君が芋をもらえるかと出て来た。彼はベジタリアンなのだ。

「この家には里芋しかないのかあー!」
いくら北海道勤務が長かったとはいえ、コロボックルの妖精じゃあるまいし毎日里芋でよく飽きないものだ。

「そう言うなよ、この作業場を建てるときこの場所は女房の里芋畑だったんだ。整地の際に掘り起こした芋は全部ぼくが食べる約束で許してもらった。
1トンも掘り起こしたんだぜ、外に置いたら霜げてしまうから中に入れて稲わらを掛けてあるんだ。ここで自転車トロッコを完成させるまでは、オメさんにもブッチーにも里芋を食べ続ける義務がある」

なるほどトロッコ台車が出来かかっていた。だが肝心の動力部分の遅れが見てとれる。
この遅れようならワシのフラットバー車が徴用されるのは先のことになりそうだ。

明日も今日のような風の吹き方なら朝から太陽の方向に走れるから温かいし風も背だ、フラットバーで出かけてみるのも悪くない。
ただし二日続けて同じ風になるとは限らない。人生と同じだ、うまくいかないことのほうが多い。

「今日はなあ お羽黒山の下の辺りで草もみじがキレイだったぞ、もうじき霜げてしまうんだろうなあ。あんたも一度見ておけ」

「お羽黒山の紅葉はどうだったの?」

「ああ 山か、山は見んだった」

「それって 猟師山を見ず、かね」

「ああ 船頭多くして船 山に登る、だ」

「おしぐれさん、意味わかんないよ」

「ああ 作家に聞いとくれ」

「オメさん ‥ 今日は相当な霜げモードだったようだねえ、そこのわらの上で寝たらどうだ」

「ああ 足首にひも巻いてなあ」



おわり
syn

近日点クリアのお知らせと さらなるご支援のお願い
2013/12/02

惑星テラの皆さまへ

お騒がせしております愚息 ISON-chan のことでは、たくさんの方々より ご心配やらご声援やらいただきまして誠にありがとうございます。

星間友好条約締結惑星国の皆さまからの厚いご支援を賜りまして、”はじめてのお使いひとり旅” に送り出しましたる ISON は彗星としての旅を続けておりましたる処、
このたび近日点付近の軌道上にて思わぬスクランブルと遭遇を致し、一時消息が途絶えて ブラックアウト との星間報道もございました。

詳細を検証致しましたところ消息の一時未着は、磁気嵐による信号波のワープと判明いたしました。信号波は遠くガニメデ星雲体のガニバサミによって投げ返されて戻って参りました。
現在も ”はじめてのお使い” を続けておりますことが確認されましたので、ご心配戴きましたすべての惑星間に当メールをお送りして御礼を申し上げております。

おかげさまにて太陽系軌道上の最難関ミッションでございました近日点クリックを去る11月29日に果たすことができました。
その際に若干のダメージは蒙りましたるものの、現在は元気に猛スピードにて太陽州の軍事空域識別圏から離脱中であります。

若干のダメージと申しますのは、あの無言の帝王 SUN から放射されるジュール熱とイオン風によって ISON の表層の一部が融け、また周囲の水素ガスが燃えて吹き飛ばされたりと、帝王のお力をもってすれば赤子の手をひねる程のことでございましょうが、愚息 ISON にとっては手痛い世間勉強となったようでございます。

結果的には体積と質量を半分失いましたが、表面積を小さくしたことが幸いして加速を可能にいたしました。
宇宙空間に於いて、惑星テラでいうところの空気抵抗に相当するレジスタンスがあるのか? との疑義がございましょうが、太陽州で浴びる光や熱や風や磁場はすべて帝王 SUN からの放射線のカタチで空間に降り注ぎ、支配しています。
その空間を突き進むときの線を切る抵抗力をサンレイ フォースと言います。いわゆる空気抵抗と言ってもいいでしょう。

細身になった愚息 ISON は現在、下ハンを握ってサドルから尻を上げ、息を絞って頭を低くして、もがきの全速加速をしております。
間もなくサンレイの眼も眩む光りの闇の世界から脱出できるでしょう。

あと少しでございます。皆さまがたの変わらぬご支援ご声援を戴けたなら、必ず愚息は12月04日の明け方には御星の東の空に戻って参ります。

御国の国立天文台の軌跡計算よりも、ほんの数秒早く やや北にずれて出現することになりますのは、アタック加速が効いて軌道角が開いた証拠であります。
生きて戻った証しでございます。

しっぽの箒は千切れて無くなっているかも知れません。それだって何だっていいんです、生きてさえいれば… 。
しっぽは靈氣の冥王星のそばを通るときに回復できる可能性が残されておりますから… 。
親馬鹿ではございますが、あの子はゼッケンが千切れるほどにペダルを踏んだと褒めてやりとうございます。

それでは惑星テラの皆さま、
愚息 ISON になり代わりましてこれまでの幾多のあたたかい励ましに感謝申し上げると共に、
さらなるご支援を賜りますようお願い申し上げて近日点クリアのご挨拶とさせていただきます。

最後に御星の悠久の繁栄と平和をこころより祈念いたします。

惑星テラ紀 2013-12-01
彗星 ITUMOSON

白馬のベンチ
2013/12/02

土曜日の朝、プレミアムでない一番低価格の受信波のみ視聴可能なわが家のテレビでNHKのニュース番組を見ていたときのこと。
ふいに雪景色の山々が映し出された。

前の話題と区切りをつけるためなのか、それとも微妙に時間が余ってしまったときのテクなのか、そーゆーことはどうでもいいのだが見覚えのある風景が映って思わず身を乗り出してしまった。
音声無し映像だけの、積雪の白馬村とスキージャンプ場を映した数十秒。

「おおお そこじゃ、もっとカメラを右下に引け、リフト小屋の手前の広場を映せ! がんばれーっ カメラあー! もっと手前を映せえー。
おーし そこじゃー そこで止めれー、止めたら 迫れえー 木製のベンチをアップしろーっ! ワシのベンチじゃー」

叫びつづけたが、無情にも画像の上には関東甲信のお天気マップがかぶさって、かわりに白い白馬の風景は薄くなって、やがて思い出のベンチは見えなくなった。

ベンチの横木に自転車のペダルを引っかけて固定し、脱いだ手袋とヘルメットを置いて腰かけて、へたれたカラダが蘇生するまで30分ほども留まっていた木製のベンチ。
両足の間に滴って地面に拡がってゆく汗の染みを見つめながら、ただただ息を整えるのがいつものスタイル。

この間に誰かが声をかけてきても、非礼とは承知ながら無視させていただく。うつむいたまま大げさに息を継いで見せれば大抵の観光客は立ち去ってゆく。

ところが中にはしつこいと言うか無神経なのがいて、へんに触ったら倒れる自転車のサドルを無遠慮に撫でたりする。
山なのにスカート穿いてサンダル履いて、首には太いネックレスが目印の、でかい土産袋を両手にふたつも下げているのが特徴の、これはまぎれもなくオ〇タ〇アンという種族だ。

「この坂を登って来たの! 凄いわねえー いまお幾つ? ひえー うちのおとうさんより年上よっ! えっ 富山から! 走って来たの? ひとりで? あなた 冬はジャンプもやるの? 幾ら貰えるの?」

ホテルの送迎ワゴンで登って来た観光客はアッチへ行けー。ここはアスリートの聖地やぞ。
こらーっ 観光協会! 夏場で人が少ないからってロープで地面に繋いだ熱気球なんか金とって揚げるなー、ゴーゴーやるたんびに暑っ苦しくてたまらんべえーっ。

ベンチの尻に当たる部分のくぼみ具合と背当り角度のよい具合が、へたれたカラダとモチベの覚醒にじつによく効く。これは只の規格品のベンチではあるまい。
へたれの喜悦感とそこから蘇生してゆくときの喜望感をよく知っているマゾヒズムな職人でなければこれ程の名作は作れまいよ。
彼もまた、この坂を幾度も登っておのれのへたれを高め、モチベ高く喜望のベンチの製作に打ち込んだ真正マゾに違いない。

ここから仰ぎ見ると天空の尖塔のようなジャンプ台、あのてっぺんまで登り、だが飛び出す決断がつかないまま降りてきた若者の幾人がここに来て、このベンチに座って涙したのだろうか。
そのなかの幾人が再びスキーを携えて階段を登って行ったのだろうか。
ジャンパーはウオームアップを兼ねて歩いて階段を登る。リフトを使うの故障者を降ろすときだけなのだ。

この白馬ジャンプ台は、冬季オリンピック史上最高の出来と評され世界中から見学者が絶えない。競技関係者だけでなく夏場は白馬の観光スポットにもなっている。
登山者は白馬駅から歩き始め、観光客は歩くかタクシーを使うが観光タクシーに混じって自転車も坂を登って来る。
それはいい、自転車は登って来てもいい、長い坂を本気で命がけで登って来るんだから。

本気でないマイカーは途中の駐車場から先は禁止なのでバスに乗るか歩く。地元タクシーとバスと登録されたホテルのワゴンだけが許される。それほど危険な坂なのだ。
オートマ車では登れない。この山ではマニュアルのスーパーローギヤ車でないと登り切れないのだ。
事実ワシが一度だけ足を着いたときは余りの斜度に止まっていることすら出来ず、ずーっと下のホテルの駐車場のような平らな処まで戻らなければ再スタート出来なかったんだぞー。

土産袋をふたつも肘に掛けてソフトクリーム舐めながら、山なのにスカート穿いてサンダル履いて隣りのベンチに座っているオ〇タ〇アン、わざわざ送迎ワゴンを回り道させてまで訪れなくていい。
ワゴンのクラッチは焦げ臭い匂いを発していたんだぞおー。
やい 土産物屋あー! オメらが店なんか出すから場違いな種族がこーんな上の方まで徘徊するんだ。ここは白馬やぞ、オリンピック アスリートの聖地やねんぞ。

白馬は、美しい空中飛形と距離を可能にし、着地点の安全性に於いてもこれ以上の造作は今後ないだろうと言われている。
ジャンプ台の設計建設に当った関係者の努力を讃え労苦を偲ぶ碑や逸話が多く残されている。

それは勿論そうだから、それでいい。
だが、夢破れ故郷に帰ろうとリフトを降りてきた若者をなぐさめ、カラダとモチベを回復させて、もう一度やってやろうと気持ちを奮い立たせたのは場外のキップ売り場の広場にひっそりと佇む座り心地のいい木のベンチだったと、知って訪れるひとは少ない。
ここで涙を拭いて立ち上った若者が数年後に伴侶と共に訪れて、黙って座ればそれだけでいい。

ワシとてアスリートの端くれ、モチベの立て直しかたくらいは知っている。
水を飲んで靴のストラップを締め直してから立ち上がり、
さぞや名の有る白馬の工房製であろうとベンチの裏に回ってみたが、落款はおろか工房のプレートすら付いていなかった。

これぞまさしく無名のマゾ アスリートの手に成るものと確信した木のベンチだった。
ニュース番組から5時間以上経っている、雪はさらに積もっただろうか。

syn


写真は本文とは関係ありません。

白馬行のときは携行量低減のためカメラを持たなかったのです。
このあと向かった大雪渓を見てカメラの必要性は痛感しましたが、軽量化を優先する競技者体質はいまだ健在と思っています。

写真のベンチについて。

昔日のワシらが若かりしころ。
諏訪湖花火大会の晩、力自慢のナ〇ザ〇くんが酔って湖畔公園から沖合に向かって投げ込んで、アベックの乗ったボートを二艘も転覆させて重要参考人とされた事件のときの犯行に使われたベンチと同型のもの、もしくは同一のもの。先ほど近くのばら公苑で撮影しました。

いつからここにあるのかは不明。持ち上げようとしてみましたが、とてもとても。
こんな重たいモノを頭上高く差し上げる犯人の野獣性を恐れてか、複数いた目撃者は皆 「見なかった、酔っていて知らない、ナ〇ザ〇はドブにはまって寝ていた」 と証言したそうです。

あの事件は犯人逮捕に至らないまま時効となりました。しかし目撃者 (と言うより積極的扇動者) の〇ナ〇タくんは今回偶然発見された物証 (もしくは同型) のベンチ写真を見てどう思うのでしょうか。
「良心はベンチよりも地球よりも重い」 このコトバを彼らふたりに謹んで贈りたい。

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