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地図で下北半島をみるとき、薪を割るときに使う鉞 (マサカリ) の形によく例えられる。
左側がマサカリの本刃に、右側から下に向かっての細く長いクビレが握りの柄のカタチに似ているからだ。
本編 上 にて走破を報告した核燃サイクル施設の六ヶ所村や原発の東通村は柄に、半島北東端の尻屋崎から左に延びる県道 野牛浜線は本刃の上辺に相当する。
既報 上 でのルート後半は、尻屋から津軽海峡に面した野牛浜の原野を突っ切って原子力船 「むつ」 の関根浜に出、下風呂温泉の風間浦村を経てまぐろの町大間で終わっている。
大間の漁師酒場で束の間の休養とエネルギーの補充をして、さてリスタートというところから続編 中 を始めよう。
マサカリ刃の上(北)が大間崎 下(南)は脇野沢の北海岬、この間の海岸線はほぼ一直線に約45km。
往復して大間に戻るプランも考えられる距離だが、
「同じ港に二度戻らないのは海の男の定めだぜ」
などと呟きつつ、海霧の流れ始めた岬公園でジャージの襟を立て、まぐろモニュメント像に片足を乗せてポーズを決め、渋く 「北帰行」 を歌っていたら頭上のスピーカーから無粋な声が響いた。
「そこの小林さん、 小林 旭さん、 アンタだよ! 酔ってまぐろを蹴らないでください」
「蹴ってんじゃあねーよ、足が届かないだけだ。 ばあろー!」
スピーカーに向かって怒鳴ってガッと睨むと、ややあってアンプの電源を切る 「プチッ」 という音が聞こえた。
崎と岬の違いは文法的な区切りがはっきりとはなく、岬は崎の美称であると Wikipedia に書いてある。崎を丁寧に御崎 (みさき) と呼んだことから みさき ‐ 岬 となった。
漁師は灯台の設置されている陸地の ”鼻” を岬というらしい。また観光客誘致の観点からも、崎より岬のほうが訴求効果は大きいんだそうな。
ことばの達人たる文章作家のおしぐれさんは、いたく感心したものである。
下北左側の海岸線はマサカリの刃らしくほぼ一直線である。それはまことによろしいが岩山の多い地域なので道路はくねくねしている。太平洋岸の茨城・千葉に見られるシューッとした沿岸線とはおもむきを大いに異にする。
漁師酒場の観光ポスターには直線の中央付近に鎮座する奇岩・奇石の仏ヶ浦が写っている、マサカリの刃もさすがに刃こぼれする壮絶な凸凹だ。夕陽の名所でもある。
異文化 異風景大好きのおしぐれさんにとっては大いに興味をそそられる地形・地域だ。
前編で紹介した核燃料サイクル施設の点在していたマサカリの持ち手部分、六ヶ所村近傍もアトミックな異文化 異風景という点では十分におしぐれさんを楽しませてくれた。
下北の左側、鋭い刃の地域にはどんな ファンタスチック な エンターテイメント が待っているのだろうか。 今回はマサカリロードの紹介である。
大間崎のまぐろ料理店で知り合ったオートバイ青年は川崎市から来たという。
昨夜は下北に入って最初の道の駅 よこはま の無人の無料休憩所で寝た。半島を右周りに、むつ市を経て脇野沢から北上し大間まで一日で来たそうだ。
この後ワシが予定しているコースを逆方向から走って来ているので、道路情報を得るにはよい相手である。
こいつがまた面白い男なのだ。
「仏ヶ浦から先、延々登りが続きます。終盤の人切り峠を越えればあとは脇野沢まで下りです。それまでは、どんなに登りがきつくても絶対止まってはダメですよ」
「なんでだい、人食い熊でも出るのかね。あの辺りは北限猿のテリトリーだろや、大分の高崎山からボス猿ベンツが遠征して来ているのかい?」
「熊でも猿でもありません、虻(アブ)です、吸血の悪魔です。複眼のおぞましきゾンビ軍団です、熊ん蜂よりも マムシよりも まぐろ漁師よりも 怖い。止まったら瞬時に刺されます。
何か所もやられたら痛いのと痒いのとで牛でも狂い死にします」
「牛でも狂い死ぬって … そりゃ モーレツ やなあ。キミはビッグなオートバイだから振り切れたがワシはプアな自転車じゃぞ、人力バイクの速度で逃げ切れるものかね」
「ですから刺されないように必死に走ってください、ともかく踏み続けることです。動いてさえいれば奴らは刺せないみたいです、その間に魔界を脱出するのです」
「ほえーっ! つなーっ!」
「それって、クジラとマグロの洒落ですか?
一度刺されると血の匂いに誘われて谷間の泥地の棲みかから次々飛び出して、強烈な顎で別種の虻と共食いまでする。それが奴らの狂気をますます増強させます、集団ドーピング効果ですね」
「そーか 足は回っているからいいとして、上衣のジャージは長袖のほうがいいな」
「自転車ジャージの厚みでは針を防げません。雨ガッパ持っているでしょう、ボクは途中の峠から遠くに見える石山の写真を撮るとき雨ガッパを着てフードもかぶって奴らの攻撃をしのぎましたが、手袋を脱いでいたため手の甲を刺されました。まだ腫れています」
青年は甲の赤く腫れあがった左手で生ビールのジョッキを豪快に傾け、右手の箸をおしぐれさんの前の皿に伸ばして分厚いまぐろを口に運ぶ。
えらい奴と知り合ったものだが、これも旅の楽しみである。
40年前はおしぐれさんだって天衣無縫プラス宿無しの腹ペコ青年だった。今だってさほど変わらないが … 。
「奴らは汗の匂いと動物の呼気に含まれる炭酸ガス、それと体表から発するわずかな赤外熱線の位置変化を3Dに測って正確に針を突き立ててきます。まるでターミネーターの虻マシーンです」
「ターミネーターでシュワちゃんは全身に泥を塗って敵のレーダーを逃れたんだったね、その虻マシーンはタバコの煙りと匂いで追い払えんかね」
「タバコ吸うんですか? そんなアスリート見たことない。でもガラガラ蛇は退散するっていう事実はあるみたいです。
ネイティブ・アメリカンのインディアンが沙漠でいつも噛みタバコを噛んでいたのは、不意にガラガラ蛇と出っくわしたときに 「ペッ」 と蛇に向かって吐きかけると蛇は嫌がって行ってしまう。
噛みタバコはそのような用心からであって、決して嗜好品だった訳ではないのです」
「あー いやー オホン ワシもな、タバコは蚊取り線香代わりに過ぎん。 キミはずいぶん危険生物の生態に詳しいなあ」
「はい 北里大学 農獣医学部の十和田キャンパスで生物毒素を研究しています。
ボクが子供のころ祖父はフグの毒に当って死にました。ボクは仇を討ちたくて北里に入ったんです。フグ毒を中和する成分を探して旅をしています。
「ぐふーっ!」
おしぐれさんはビールを吹き出してしまった。この青年は崇高な目的をもって旅をしている。対して我は、さしたる目的もなく怠惰に日本を漂流している、この差はいったい。
「川崎は実家です。先週帰省して祖父の墓に研究の近況報告を済ませ、昨日青森に戻ってそのまま足を延ばしここまで来てしまいました。明日は 「尻屋崎の崖」 と東通村 猿ヶ森の 「埋没ヒバ林」 を見るつもりです」
「ほほーっ それは殊勝な心掛けである。しからばワシが仇討免許状をそなたに授けようぞ。 生ビールもう一杯いくか?」
「ははあー ありがたき幸せ」
「して おぬし、そーゆーアカデミックな研究者が何だって山中をオートバイでさ迷うかね?」
「はい 今日は 縫道石山の 「オオウラヒダイワタケ」 を採取して来ました」
「ぬいどうのイワタケ? なんじゃそれは」
「はい 漢字では 大浦襞岩筍 と書きます。日本では仏が浦の縫道石山にのみ自生が確認されている地衣類で、氷河時代の生き残りといわれます。
姿はナメコに似ていますが乾いた冷たい岩に直接生えるので成長には何百年もかかり、天然記念物指定の薬用キノコです。ここ以外にはアリューシャン列島の岩山にまれに見られるそうです。アリューシャンはアメリカ領ですが、簡単に行けるところではありません。
もう少し続けてもいいですか。
尻屋の崖は寒立馬しか登れません、もしかしたら オオウラヒダイワタケ が生き残って群生しているかも知れない。埋没ヒバ林では千年砂の中に立ち枯れたまま、なお呼吸を続けるという青森ヒバの根の生命の秘密を知りたいと思っているのです」
「凄い話しやなあ。それでキミはその天然記念物の 「ぬいどうなんとかキノコ」 を採って来た、ちゅうワケかいな? そら密採やないか」
「はい 短絡的見地からはそうでしょうが、フグ毒のテトロドトキシンを中和する唯一の特効薬を抽出できる可能性があるのです。大局的に見て人類のためですからボクの犯罪は大法廷で無罪です」
「はあー そーかいな。 よーわからんが まあ もう一杯 いこか」
「はいーっ ありがたきぃー しあわせなりー。 先輩ぃー オオウラヒダイワタケ 焼いて食べますかぁー、下北では昔から秘かに男性の強壮効果が伝えられています。
それで密採されて絶滅が危ぶまれ、有志が県に働きかけて国の天然記念物に指定されたという訳です。 効きまっせー 旦那ぁー ひっひっひ」
「いらん いらん ワシはそーんな怪しい回春キノコなど食わんでもな、いつでもスーパー パフォーマンスなんじゃあー」
「せんぱいー 先輩は欲のないお人ですねえー。 見るだけでも見る? ホラ これっ!」
青年 酔ったかリュックを引き寄せ、小さなビニール袋に入ったひと塊を取り出してテーブルの上に置いた。
なるほど乾燥して萎びたキクラゲのようにも見えるが、もっと黒くて艶がなく、昔見た蠅取りキノコという毒キノコそっくりのシロモノだ。
子供のころ田舎の農家の土間で、小皿に水を張ってその中に沈めてあったのを見た記憶がある。周りには蠅がぼとぼと落ちて死んでいた。その家の猫は絶対に近寄らなかった。
「グエー これが天然記念物かね、湿った公園便所の裏に生えた苔みたいだなあ」
一度はいらんと断ったのだが、そこは酔った勢いである。いつもそれで失敗していることなどポイと忘れ、
匂いぐらいなら嗅いでみてもいいかという気になって袋の口に鼻を近づけひと吸いすると、ヒバ林のような森林の匂いがした。もっとオドロオドロしたものを想像していたので意外だった。
そして何だか急に冷静になった。
「おい 早く仕舞え、人に見られたらイカンものなんじゃろ」
「せんぱい 見ただけでほんとにいいの?」
「ああ もう女には用がないんじゃ。 ところでキミは半島を時計まわりに周っているが、お師匠さんの教えかい?」
「はいー レッドバロンの教本にそう書いてありました」
島や半島を走るとき右周りに走るのはセオリーである。道路左側の海のほうから人や軽トラが飛び出してくる確率が極めて低く、気に入った場所を見つけて急停車するときにも安全である。
今回ワシは左周りのルートを取ってセオリーに背いているが、理由はやはり安全である。風対策なのだ。
知らない土地で風を読むのは難しい。一般的に日中は海から吹いて来るといわれるが、半島では一方向に向かって走り続けることはなく、あっち向いたりこっち向いたりしながら周回して行くのだから海風説は捨ててよい。
ワシの風対策とは海岸地域での季節風・突風のこと、道路の左側が海の場合ワシらの軽量バイクは突風に出会えば海に落ちる。下が崖なら命はない。
ましてや過疎地では誰も見ていないから、運よく海面上すれすれの松の木に引っかかって助かっても誰も来ない。そのうち浮上してきたダイオウイカに食われてしまう。
そこでワシは反時計周りに走る。道路の山側だ。ここで突風に吹かれると落ちるのはコンクリの側溝だから、やはりタダでは済まないのだがイカに食われるよりはイーカ。
下北では 「誰もいなくて 何もない」 から左周りでもよいが他の半島・島ではセオリー通りに右に周わる。
逆に湖では左だ、琵琶湖や十和田湖一周コースを右周りする奴はレッドバロンの教えを知らん田舎者と蔑まれる。
「ときにおめさん、今夜の宿はどーするだい? 野宿するったってーなあ この辺りは夜霧が濃くってな、朝表に出てみると まぐろの像 なんかびっしょりに濡れているぞ」
「えっ! そうなんですか、こまったな。これから頼める民宿なんてありますかねえ、屋根があれば車庫でもいい」
彼は予約なしのキャンプ旅だった。エンジン付きバイクの彼らはある程度の荷物を積み込んで、あてなしの風来旅が出来るから羨ましい点ではある。
「ああ 今はオフシーズンだから民宿はガラガラだが、それゆえに夕方には閉めて寝ちゃうよ、なにしろ本業は漁師だからなあ。
どーだ ワシん処に来るか?」
「えっ?」
「ワシの宿は民宿の素泊まり宿だが他に客はいない、玄関も客室のドアも開けっ放しだ。留守番のばあさんがひとりいるが風呂の支度以外は何時もテレビを見てるからそーっと帰れば気づかれない。
明日も早く出発するんだろう、たまには畳の上で寝ないと先がもたんぞ。
風呂場に洗濯機と乾燥機がある。今から行って風呂に入って洗濯もしろ。その後またここに来て飲み直そうや」
「せんぱーい ありがとうございます。ぜひぜひお願いします。ここの払いはボクが … 」
「馬鹿を申すな、酒代はワシが持つと言うたではないか。こーゆーときにはな、年長者に花を持たすものじゃ」
ワシらが立ち上ろうとしたとき、それまで隣の席で静かに酒を飲んでいた品のよい老夫婦が声をかけてきた。
「失礼だが おふた方、先ほどからのご貴殿らの話を近くで聞かせて頂いた。まことに失礼とは存じながらも楽しい話しについ全部聞いてしまった。そして私ら夫婦も楽しくなった。
知らぬ者同士が助け合って旅を続けるご貴殿らには、私らも同じ旅人として深い感銘をうけた。
もう少し若かったら私らも、もっとアドベンティブに生きられたかもしれない。もしかしたらまだ間に合うかも知れない」
そう言うと奥方もうなずいて、
「そうよねえ、山小屋で知り合ったばかりの登山者が食べ物や寝床を分け合うみたいで、素敵なお話しだわあ。 密猟とか密入国なんてドキドキしちゃう。 見つからないように祈っていますわ。
そのキノコねえ おとうさんに分けて頂きたいけれど、本人はもうタイムアウトみたいですのよ。 ほほほ」
にっこりする奥方はワシと同じくらいの年齢だろうが、口に手をあてて女学生のように笑う。
旦那が続ける。
「そこでどうだろう、ここの支払いを私にさせて頂きたい。そのかわりと言ってはなんだが、もう少し一緒に話を聞かせて貰えないだろうか?
いやいやご心配なさるな私らはホテルを取ってあり、先ほどチェックインも済ませてある。だが大間では外で食事をするのがお勧めとガイドブックに書いてあった」
「そうなんですのよ、でもガイドブックは本当だったのね。大間は人情の港町 ステキだわあ」
この夫婦はクルマで北海道を周り、フェリーで大間港に着いた。この後は恐山に参ってから震災の被災地域を南下しながら東京へ帰るのだそうだ。
被災地域に入ったら大笑いなど出来るはずがない。その前夜にこうして楽しく過ごせることが、嬉しくありがたいという。
ワシが自転車だということに余程感激したのか女学生に戻った奥方は 「素敵だ ステキだ」 と連呼し、連呼されたワシはすっかりいい気持ちになって、旅人四人組みの大宴会は深夜まで続いた。
こーゆーいい話しの後にはたいていオチがあって、
このふたりは夫婦詐欺師だった、大宴会の支払いと夫婦の宿泊したホテル代、さらに満タンにして行ったガソリン代までワシとオートバイ青年が負担させられて、ワシらは旅を打ち切ってしょんぼり家に帰った。
そーゆー展開を読者諸氏は期待しているのであろう。
期待を裏切って悪いが、下北を旅する者に悪人などおろうか。そーんな小悪党は被災地で支援物資の持ち逃げなんてセコイことしとるだろうから下北最北端の大間まで来んわい。
ワシらは大間まぐろのDHA 、オートバイ青年流にいうならドコサヘキサエン酸のおかげで二日酔いにもならず、青年は翌朝何度も礼をいって元気に出発して行った。
ワシは大間の素泊まり民宿に前払いで三泊したが、その間に一泊分の室料を無料で青年に提供して感謝され、一晩分の酒代を知らぬ旅人夫婦のご馳走となり、よその民宿をわが家のように使用して四日目の早朝、明るくなると同時に出発した。
朝飯は前夜に行った居酒屋で作ってもらった握り飯で済ませた。水は街中のコンビニで買った。しばらくは まぐろDHA が効いているからパワフルこのうえなしが期待できる。
この先はワシも予約なしの風来旅である。
下北の旅の秘訣は、素泊まり民宿の客について行って空き室に黙って宿泊し、翌朝早く出発する。決して部屋を汚さないこと。他の客には民宿の者だと思わせる行動をするが自分からそうだとは言わないこと。
すごいテクを発見したのである。
大間崎から佐井漁港までの国道338号線はまずまずだった。朝の出勤時間になってもクルマは極めて少なく、大型車がまったく走っていないのでストレスがない。
道は多少のアップダウンはあったがおおむね海水面近くの高さを行く道で快適に進んだ。
漁港では潮の香りというのか干した漁網から立ち昇る魚の匂いというのか人の暮らしの雑多な匂いと、たった四日の下北暮らしなのに懐かしく感じた猥雑な都会の喧騒があって、核燃サイクルタウンが同じ半島に所在しながらまるで異質なゾーンであったと思い返された。
佐井から福浦崎にかけてはいよいよ登りが始まった。岩場の崖を削って338号線が続いていて、ここで突風に突かれたら山側を走っていても崖下に飛ばされる。下の海までは150mもあろう。
登りきっては下るをくり返しながら仏ヶ浦を目ざして行くと、福浦漁港の手前の信号のない十字路で 「縫道石山登山道入り口」 と 「ぬいどう歌舞伎の館」 の標識を見た。
「縫道石山、ここかあ この山に 「なんとかイワタケ」 ちゅう回春の秘薬が密やかに生えておるのか。石山いうんだから銀の鉱山跡かなんかかなあ。
ぬいどう歌舞伎とは何のことか分らんわ、ゾンビの虻もおるっちゅうし、下北は役者に困らんとこやなあ」
自転車を降りて押しながら歩くと十字路の傍に 「ぬいどう食堂」 という一膳飯屋みたいな店があった。
名物ウニ丼 海鮮丼 と染められた大漁旗のような派手なのぼり旗が、店の周りに何本も立って風にはためいている。お店はまだ9時を過ぎたばかりだから開いてはいない、誰もいない。
誰もいなくて何もない には慣れているが、お店はあったが誰もいない。
見回すと、十字路の反対側に似たような小さな店があって、「海峡ドライブイン」 と店名は見栄を張っているが、今にも潰れそうな屋根の青いトタン板に看板の白文字がかろうじて読めた。
振り返って確かめると 「ぬいどう食堂」 の屋根も青いトタン板に白文字の店名。 このあたりはそーゆー市街地美化統一規制がかかっているのだろうか。
食堂が二軒も連なっているのだから信号はないが市街地に違いない。
ならば誰かいるだろう、「海峡ドライブイン」 のほうに歩いて行くと人がいた。おばちゃんが店の前の駐車場を掃き掃除している。
「すみません お訊ねします。ぬいどう石山というのは此処からどれ程かかります? 自転車で行けますか」
「そうねえ、自転車でも車止めの駐車場までなら、行けることは行けるけど、… 若い人なら行けるけど、… あれ おめさま! もしかして おしぐれさんでねーけ?」
「ん? んー! あいやー カヨちゃんでねーかあ、 なあーして こーんなとこさで ホーキ持ってんだあ」
「やんだー、 ホーキは ソージだっぺー。 逢いだがったなやあー おしぐれさん、 おらに逢いに来でくれたのけ。 うれしなあー おら待ってだ甲斐があったっつうもんだあ」
おばちゃん ホーキを地べたに放棄して、おしぐれさんに駆け寄るなり抱きついた。アヤー? なんだか声をあげて泣いているべよ。
いったい どーゆーこと?
おしぐれさん 匂いを嗅いだだけで、早くも なんとかイワタケ の回春効果ありけ?
つづきは次回のこころだあー。
syn
前作 「エドガー ウガン」 のなかに下北半島の野牛浜のことを一二行書いている。
唐突に書いているがその意図は以下のようなことだった。
江戸川いうたら都会地を流れとる川やないけ、なのにいま立っている土手の上からはコンビニはおろか屋外の自販機すら見つからん。
遠くに自動車の光りが見えるけんど、土手の下から続く畑のずーっと向こうでゆっくり動いているだけや。音が聞こえる距離やないー。
このまま土手の道を行っても食糧の手に入るお店などあるものやろか。
これはまるで野牛浜の原野の細道と同じじゃあないか。残りの距離はまだまだあるし、暗くなって寒さが沁みてきた。そろそろエネルギーが尽きる。これは困ったぞ、どうしたものか。
前作では寒さを避けて南へ行った。とはいっても沖縄は遠いから隣りの茨城経由で埼玉・千葉県境の江戸川を東京の入り口まで。
午前中の暖かさと追い風に背中を押されて快調に走るうち、普段はあまり行かない江戸川沿いの右岸ロードがギヤ比に合って嬉しくなり、つい調子込んで走り過ぎてしまった。帰り道用の体力を使いきってしまったのだ。
そのときの失敗の顛末を 「エドガー‥」 に書いている。 (アクセス中のページを最後まで進むと掲載されています)
矢切の渡しで休憩したとき柴又の寅さん会館の看板を見て走り過ぎに気づき、自転車の向きを変えて関宿城の近くまで戻ったころには向かいの北風が強く吹いて、進みが遅れるなかでとうとう暗くなってしまった。
知らぬ土地での困惑した状況を、かつて走ったことのある下北半島の原野にたとえたのである。
下北は青森県の地図を広げると半島というにはそぐわないほど大きな面積をもち、左を向いたマサカリ型をしている。
半島の入り口、つまりマサカリの持ち手に当る六ヶ所村の辺りがキュッと細く狭くなって、その細さを保ったまま北の東通村までスゥーッと伸びている。それゆえ半島といわれるのだろう。
東通村を過ぎると半島は左に向いて徐々に広くなり、マサカリの本刃に相当する下北本島が形成される。
原野の残る野牛浜というのはマサカリ刃の力点、中央のくびれたところの上辺一帯をさす。
もともと住人の少ない寒冷な土地のうえ、漁港に適した地形も少ない。加えてこれといった観光資源もないので海に面した平野部でありながら下北最後の原野が残っている。
原野の中にうがたれた細い道が一本あって、かつて筆者はそこを走ったことがある。
その折りの体験を書いた愚作 「海峡」 に次のような一文がある。 (小説 「海峡」 はお近くの書店 または団塊屋にてお求めください ‥ 営業担当)
『 野牛浜という辺りから道幅が狭くなり、県道ナンバーがいつの間にか消えてしまった。ルートを違えてはいないはずなのにどうしたことだろう。
ひと気のない真っ暗な防風林が延々と続き、その北側は海のはずだが何も見えず、波の音も聞こえないので距離を測れない。そのなかを行く細くてラフな道はソロライダーのタフであるべきマインドまでも心細くさせてしまう。
道端に足を突いてUターンを考えていた彼を一台の軽トラが追い越して行った。遠ざかる白い荷台のうえに赤い色の農機が見えた。
よっし このまま進もう、どこかには通じているに違いない 』
あとで分ったことだが林は人工の防風林ではなく、その役目も果たしている手つかずの自然原野だった。
『 その仄暗さのなかで灰色の道にたたずむソロライダーを追い越して行った白い軽トラと荷台の赤い農機 』
上の行にちりばめられた色彩の文学性についてはこの際さて置くとしても、
『 一台だけだが地元の軽トラと出会った。道はどこかに通じているに違いない 』
こーゆーシチュエーションに出くわすと、冒険者は胸がじわーっと熱くなって体幹にパワーがよみがえってくる。そのときのじわー感がなんともよくて、ロンリーハートなソロライダーをやめられないでいる。
なお、愚作 「海峡」 とはもちろん津軽海峡のことでありますが、井上 靖の名作 「海峡」 とは題名を同じくしながらもアイデンティテイのうえでまったく異なり、また文脈の高貴さにおいてまるで太刀打ち出来るものではありません。
ですから堂々と 「海峡」 です。
話しを戻して 「エドガー ウガン」 では、
「誰もいなくて何もない。道が果てなく続くだけ」
と強調したくて野牛浜を引き合いに使ったのだが、一行二行では書ききれなかった茫漠の情感を伝え残したままエンドマークを打ってしまった。
簡潔なのは悪いことではないとしても、いまひとつ言葉足らずの思いを引きずっていて、それは机の上に載っている飲み残しのワインボトルの底の澱のようにいつまでも消えなかった。
そこでボトルを割って澱を取りだし、お盆の上に展開してさらに押し広げるとどうなるか実験してみたくなった。
江戸川のあと遠出を自粛しているものだから、ことばの達人たる でほらく作家は溜まったフラストレーションのはけ口を読者の閉口に求めることにした。
ワインの澱は押し潰してみても所詮は葡萄の滓だった。飛び散った汁が古いメモ帳の表紙に染みて、セピア色の上にいい具合のドット模様になっただけだった。
あきらめ切れない作家は残りの澱を指先で転がして丸く小さく固めてみたが、やはり真珠にはならなかった。
そこででほらく作家は考えた。
「ならばホタテの貝殻に閉じ込めて、深い海に沈めたら真珠になるべさ」
ホタテといえば下北むつ湾。 筆者は真珠のようにピュアな下北のことをもう一度書きたいとかねがね思っていた。それを実現するには先に江戸川を片付けねば、机の上が混乱してならん。
行き暮れて道なお遠し。寒さと空腹に困惑しながら江戸川土手をのろのろと走っていた筆者だったが、幸運にも偶然大橋の下に見つけた流木ハウスの住人 「江戸川 右岸」 と名乗る奇特のご仁にめぐり合うことができた。
酒食のもてなしのみならず、高潔なるご高話と暖かいダンボールハウスの供与など、へたれなこの身には余りあるご厚情をたまわったのだった。
このご仁こそ、ホームレスなどと呼ぶカテゴリーを大きく飛び越え、世界を自由に行き来する博愛の伝道者、エドガー ウガン だった。
無償の隣人愛に出会い無上の厚遇に接して筆者は涙を流し、ちゃんと鶏肉の入ったちゃんこ鍋と清酒男山で盛り上がった橋下の大宴会の翌日には、元気にペダルを漕いで風のおさまった土手道を機嫌よく家に帰ることができたのだった。
あの鶏肉は江戸川を泳いでいたカモだったかも知れないが、力士もアスリートも ”負けた日には ささ身を食え” といわれる通り、へたれた筋肉が翌朝には再生していたのだから大したものだ。
無事に生還できたからこそ、いまだでほらく書きを続けていられるが、のど元過ぎれば何とやら。 どうも自転車乗りというものは困ったものだ。
ウガン氏の高潔な生き方に涙したことなどコロリと忘れ、
「誰もいなくて何もないほうがよいのよ、道が果てなく続いて適度な坂があればそれだけでよいのさー」
とする超個人主義者に舞い戻っている。
だがそれは、水 食糧が足り、背中のリュックには着替えも有効なクレジットカードも入っていて、天気がよくて体力も温存されていて、日暮れまでにはまだ4時間もある。予約の取れている民宿まではあと少しだからここは一丁回り道して、もっと遠くまで走ろう。
という、すべてうまくいっている状況下でのみ超個人主義は完遂するのであって、そんなことは滅多に実現しないのが現実だ。
回り道した直後に激坂が現われ強く踏んだらチェーンが切れた。パンクの備えはしていたがまさかチェーンが! おーい そこのひと 近くにショップはないか? などという苛酷な展開が筆者においては茶飯事なのであるから、ひとさまのお世話になることは多い。
そこで今回は下北の 「誰もいなくて何もない」 さいはてロードをもう一度書いてみようと、ひとさまがいないのだからお世話になることもあるまいと、 そーゆー魂胆なのである。
表題を 「核燃サイクルロード」 としたのは、下北半島に点在する ”使用済み核燃料再処理施設(核燃サイクル機構の施設群)と電力会社の原発及び関連施設” とを結ぶルートのことで、自転車用語のサイクルロードとは字も発音も同じだが洒落たつもりなどはまったくない。
まったくない、と最上級の否定形をもってしても読者諸氏は、「ふん 駄洒落おやじめ」 と冷たく舌打ちされるであろう。
お察しの通り本欄はそーゆーおひとを対象に書いている。
いちど使われ古くなったり壊れたりして廃棄された物資を回収・分別・処理して、資源として再利用することをふつうリサイクルというが、日本の原子核燃料に関してはこれをサイクルといっている。
なぜリサイクルでなくサイクルなのか?
廃品をいったん原料に戻して別のカタチでつくり直し、再生利用でこしらえたリサイクル製品は原料の純度に疑問がのこりませんか?
多くの場合は問題の生じにくい要求純度の低い製品につくり変えて再利用されますよね。安全を保障するためです。
このため高純度を要求される製品をつくりたい場合にはピュアな原料を投入する必要がありますよね。つまり原料コストが高くなり製品価格も高くなる。
対して核燃料の場合は、一般の燃焼に相当する核反応の後に残る微量の汚染物質を含んだ燃え残りを専用処理施設内で除去再生し、再度燃料として原子炉に戻すと所定の核反応がふたたび生じて高エネルギーが得られる。
これは燃料の再利用というより高循環(サイクル)に近い。新たな燃料を追加せずとも獲得するエネルギーが目減りしないからからです。
”目減りしない” こんなことは核燃料の世界以外にはありません。 あるとすれば団塊屋の社会的資産価値だけでしょう。 ( この部分 希望により削除に応じます )
なぜでしょう? それは当施設をご覧になっていただくなかで少しづつご理解いただけるものと存じます。館内アテンダントがご案内いたします。
さらに核燃サイクルにあっては回収・分別など他産業の手を煩わせることなく同一核燃施設内で処理が一巡完結することもサイクルと呼ぶゆえんであります。
日本語では ”再来る” というそうですが、当館といたしましてはコメントいたしかねます。
上は現地施設PRセンター入り口の英文の掲示板にそうあったのを筆者が訳したものだ。
掲示板の前に自転車を止めたとき筆者はセピア色になったメモ帳を背中のリュックから取り出すのが面倒で、一通り読んで記憶した。
「後に残る微量の汚染物質を除去」 のあとの記憶が曖昧なので、それをどーするのか、どーしたのかについては書いてあったかどうか定かでない。
ともあれ、ことばの達人たる文章作家はリサイクルとサイクルの違い部分さえ読めばもう用はない、隣りの日本語掲示板には目もくれずさっさとその場を離れた。
この手の掲示は外国語表記のほうに思わぬ本音が書いてあることが多いからだ。
そして走りながら考えた。
あの掲示板は英語圏の小学生には難しすぎる、駄洒落をそのまま英語にすることの危険性を筆者はかねがね指摘している。書いたのは霞が関の自転車好き官僚であろう。
こーゆーことはワシに相談せんかい。
外国のウラニウム鉱山から届いた粗鉱のウランを精錬して、国内の原子力発電所で核燃料とした際に残った燃えカスを、再処理施設内の ”ある技術” で処理するとプルトニウムが採れる。
プルトニウムはウラン粗鉱より高出力で燃えるので、それを原子炉の燃料にすると発電所効率は最初より上がる。
その燃えカスを再処理すると高純度プルトニウムが採れて発電所効率はさらに上がり、そのまた燃えカスを再々処理すると超高純度プルトニウムが採れて … それをまた …
これとそれ、を延々繰り返すからリサイクルではない、サイクルだというのだ。こーゆー理屈をニッコリしながら小学生の列の前で述べるPRセンターのアテンダントお姉さんを筆者は好きだが、
「一緒にちゃんこ鍋どうですか?」 と誘おうとは思わない。
”ある技術” については軍事利用に転用可能な国家機密。「小学生には教えられないのよーん」 湯気の立つ鍋を前にしても平然というのだろう。
もちろん大人にだって教えてくれるはずがない。だから筆者はさっさと立ち去った。だいいちこの日は気温30度を越えた真夏日だったんぞ。どこの店で鍋やっとりますかいな?
一般にはプルサーマル方式と呼ばれ、日本独自の高度技術なのだそうだ。 掲示板の最後に書いてあった。
ちなみに放射能管理区域を表すあの黄色に黒のマークだが、昔懐かしい石炭ダルマストーブにあった鋳物製の丸い空気取り入れ口のデザインがモチーフだそうな。
うーむ これは自転車と同じだ。踏めば踏むほど筋力と操縦スキル、さらにはモチベーションも高まって、より遠くて高い峠を制覇できる。そうでない場合でも妄想は高まり続ける。
したがってプルサーマルをサイクルと呼ぶのはいたって正しい。 正しいぞ、お姉さん。
ところで自転車は踏めば踏むほど出力は高まってゆくが、同時にへたれ級ほど筋繊維には自浄能力を越えた分の乳酸が徐々に蓄積して筋出力を引き下げようと作用する。限界を過ぎるとケイレンを起こしてレッドゾーンに達したことを教えてくれる。
これは功名にはやって踏み過ぎ、一気にデスゾーンにまで突き進んでしまうことを戒める神の啓示なのだ。
そこで峠の茶屋まで登ったら休んで水を飲み、靴を脱いで縁台にのせて足を高くし、体内ナトリウムの浸透圧が血液とバランスするのを待ってから糖質の甘酒を飲み、植物たんぱく質のみたらし団子を食い、即効高カロリーのウィダーゼリーを補給しながら筋肉をマッサージして、エネルギーサイクルを回復させるのが正しいへたれサイクラーの茶屋での休み方なのである。
また家に帰ってから入浴後に塩マッサージするのも皮膚からのナトリウム・カリウム補給に効果的である。
これは同時に塩のざらざらがすね毛の伸びをこそぎ落とすので、ツールの選手のようなキレイな足を保つことができる。
近年では、峠の茶屋=足湯 のイメージが定着したが、このブームに火をつけたのはワシら自転車アスリートだったことはあまり知られていない。
これら公共の足湯に塩は置いてないから自分で用意すること。筆者はお葬式でもらった清めの塩を二袋持って行く、ほどよい量が紙の袋に入っていて携帯しやすいことともさることながら、
これ (足のマッサージに清めの塩を使うこと) を見咎めるおばちゃんは絶対いない。
ワシらがスタートしてゆく後ろ姿を死出の旅立ちと思うのか両手を合わせて見送っている。日本の峠の茶屋のおばちゃんは、こーでなければならん。
足湯とおばちゃんの写真に注釈をつけたメールを核燃のアテンダントお姉さんに送ってやったが、どーゆー扱いとなったかは知らん。
一方プルサーマルの場合、乳酸に相当するのが処理残りの核廃棄物とウラン粗鉱精錬時の核スラッジ。これはサイクルの輪に入れず回収して捨てる。だがポイと捨てていいモノではない。
むっちゃ高い有償廃棄であり、地球にも大きな負荷となる。
また再処理と廃棄物の取り出しにはべらぼうな電力と技術を要する。つまり金がかかる。高価なウィダーゼリーといっしょだ。
それでも、足もとを見て売り惜しみする外国からウラン粗鉱を新たに買うよりはマシやと、政府は原子燃料サイクル機構という独立法人をつくって日本原電(株)という会社が出来た。
その原電施設でべらぼうな電力と技術を投入しても、乳酸に相当する再利用不可とされ有償廃棄対象の核廃棄物は残念ながら少量残る。ここが自転車と違う。
自転車の乳酸は汗といっしょに皮膚を潤し冷却するから一方的に悪玉ともいえないのに対して、核の乳酸は鉛の容器に閉じ込めてその周りを厚さ7mのコンクリで塗り固めたうえで、地中深くに終生幽閉するしか養生の方法がない超悪玉なのだ。
自転車の汗や尿に含まれて体外に出たワシらの乳酸は、フレームの金属部分に付着したままにしておくと酸素と反応して表面を冒すことがあるが、早いうちなら濡れタオルのひと拭きで霧散する。
走行中はタオルが間に合わないので重力に従って地面に滴り、1時間でバクテリアにより分解される。
ところが核の乳酸は少量でも人類を根絶やしに出来るエネルギーを200年放出し続けるという。濡れタオルだって蒸しタオルだってバクテリアだって歯がたたない。
それを半減期というのだそうだ、400年後にはチャラになるかというとそうではない。半分が半分になっただけでまだ四分の一残っている。
四分の一になったのは強さか量か到達距離か、それともひとの記憶か、じつはよく解かっていない。
最初の一発目からまだ69年しか経っていないからだ。ヒロシマ・ナガサキのことだ。
どこの都道府県だってそんな超悪玉の置き場になるのは嫌だ。だが最終的には沖縄と青森がいつもそーゆーモノを押し付けられる。
日本最初で最後となった唯一の原子力船 「むつ」 という実験船のときもそうだった。
母港となる引き受け港が決まらないうちから政府が建造を急がせ、すったもんだの末に青森 陸奥湾の中心美港 大湊に母港が決まった。それで船名を 「むつ」 という。
「むつ」 には不可解な点、説明し尽くされていないことがらが山ほどあるといわれているが、陸奥湾の 「むつ」 なら小学生にもわかる。
「むつ」 は艦名というべきかもしれないが、筆者はあえて船とした。
佐世保の造船所からの初航海はジーゼル機関を動かして来た。ところが原子炉を始動させて臨界に達した最初の海上公開実験中、尻屋崎沖の洋上で放射能漏れを起し、大湊への帰港を県知事より拒否されている。
「むつ」 という船名だが、じつは母港が決定する以前から 「むつ」 と決めていたという話しは早い段階から囁かれていたという。
最初から放射能の漏れや流失などのリスクに備えて、日本一辺ぴな青森下北を実験母港地に想定していたのではないか。
辺ぴといったってひとはいる。たったひとりにでも害毒を与えたら政府は ”未必の故意による傷害罪” に問われることを承知の上で、それを漁業補償という名目にすり替えて漁民感情を収めようとしていたのではないか。
「へんぴな青森でなら何をしてもいいのか!」 「青森を第二の沖縄にするつもりか!」 「おめらは 東京のぬっくい料亭で 陸奥湾のホタテやウニを食いながら そーんな相談をぶっこいていたのか!」
反対の声はすぐに上がったが、一方で賛成の県民も数多くいた。
造船開始と同時に政府と青森との間には莫大な漁業補償と陸奥湾改修の密約があって、むつが母港となれば港湾改修のための国家予算がついて地元建設業界も港の飲み屋街も大いに潤う。
反対派市長の看板を賛成業界が引き降ろすのは訳がない、クレーン業者も鳶も電気工事業者もそろっているのだから ‥ いろいろあったのだろう。
だが 「むつ」 は青森に来た。
いったんは受け入れた大湊港だったが、放射能漏れという致命的事故を起こすとは約束が違う、もはや大湊に置いておく訳にはいかん。県を挙げて いや国を挙げての ”帰れコール” が沸き起こった。
帰れ! といわれても 「むつ」 は大湊以外には いや日本以外にはもともと帰るところがない。
なのに 帰れ という非条理さがことの重大さ深刻さを一番よくあらわしている。
結局 「むつ」 は将来廃船を条件に引き船に曳かれて陸奥湾を離れ、同じむつ市ながら半島の先を左から上にぐるっと300キロも回って北海道に面した関根港に曳航され、何年もただ係留された。
この辺りを野牛浜という。
大湊がダメで関根港ならいいという根拠はどこにもない。
どちらの港もむつ市に属しているから 「むつ」 の看板を書き替えなくともいい、そんなのはただの駄洒落だっぺよ。
当時都会ではときならぬ漫才ブームであった。下卑たギャグもずいぶん横行したが、この ”むつネタ” だけは絶対に誰も使わなかった。日本に良心は残っていた。
行き場のない 「むつ」 をどこかの港が引き受けなければ、「むつ」 は穴のあいた原子炉を腹に積んだまま幽霊船のようになって大洋をさ迷うことになる。
原子炉をそのままにしては、沈めてしまうことさえ出来ない。
”普通の幽霊船” と大きく違うことは、船体に 「むつ JAPAN ATOMIC」 と大書されていることだ。
そんな ”アトミックなゴースト” を太平洋の向こうに押しやるようなことを、海洋国日本の漁民としてはたして出来るものか? 日本はATOMIC BOMBの炸裂を経験した唯一の国だ。
むつ市関根浜が泣く泣くうなずくまでの攻防を新聞やテレビで見知っている者も今は少なくなった。
当時の開発費で1,300億円の無駄使いといわれ、建造にはどれ程かかったか明らかにされていない 「むつ」 は、関根港に係留されているあいだでも船は船、しかも国所有の大型船だから40名の乗組員は毎日20名が交代で乗船して保安や訓練に当っていた。
原子力研究要員の40名はすでに船を降りていたが、人口50人の関根浜にとっては経済効果大だったことは確かだろう。
そこへ即時離港派だの原子力絶対反対派だの、ひと昔前の安保反対の残党だのが海路も使って大挙押しかけ、反対派漁民だの農民だの学生だのも加わって東京から派遣された機動隊との押し合いへし合いが週明けのニュース紙面を騒がせたのが1973年ごろ。
なぜ週明けのニュースか? 当時のデモ隊は律義だった。土曜の午後に終結してデモるが月曜朝にはそれぞれの職場に戻っている。残留できるプロのデモラーは数えるほどしかいなかった。
そのころの日本は第一次高度成長期といわれた時代の終期と重なる。日本中の幹線道路は整備し直され、高速道路は北に向かっても延び始めマイカーはラジアルタイヤの普及で東京から青森まで一日あれば来られるようになった。
だが下北まで足を延ばすほどの冒険者はデモ隊と機動隊以外にはなかったと見え、野牛浜のあたりは高度成長からはまるで捨て置かれた感がある。
尻屋崎と大間崎の双方向から国道工事は始まっていたが、野牛浜の関根港でデモ隊や対国権闘争に巻き込まれるのを嫌った大手の建設業者はその区間から手を引いた。
さらに第四次中東戦争の勃発から石油高騰・インフレ・経済成長の陰りをいちはやく予感したゼネラル大手は、オイルショックと同時に現地契約の協力業者との約束を反故にして東京に帰っていった。
その結果国道276号線は、大間から東に延びて尻屋に向かっていた計画を断念して地元業者でも施工可能なルートに引き直し、野牛原野の手前から南に下ろしてむつ市に繋いでしまった。
現在も尻屋崎に国道は通じていない。
むつ市から尻屋崎へは県道6号線が通じている。だが関根浜を大きく迂回して野牛原野はそのまま残された。
また東通村からも尻屋崎へ県道248号線が通っているが、こちらは3ケタの番号である。どれ程の厳しさかは地方の山越え路を走ったことのある読者ならお解りいただけよう、しかもこの辺りは名うての豪雪地帯なのだ。
それが幸いしてか白亜の尻屋崎灯台が立っている高台の草地には半野生の寒立馬 (かんだちめ) がのびのびと草を食んでいたし、崖部にはもっと南の脇野沢が棲み家のはずの 「北限の日本猿」 が北限を40kmも越えて、脇野沢からは直線距離でも70kmを越境してきて平然とブルーベリーの実を食っていた。
なお、本物の野牛は1万数千年前にカラフトからアラスカを越えて北米に行ってしまった、今いるのは黒毛和牛と白黒のホルスタインだけだ。
国道造成が頓挫して困ったのは尻屋崎側からの工事を下請けした地場の土建業者だった。野牛原野をブルドーザで切り開いて小型ダンプ一台がやっと通れるルートを確保したところで事態が一変した。元請けの大手建設企業がこの事業から撤退してしまったからだ。
重機の償還と職人の給料未払いに頭を抱える地場社長の許を訪れた当時の県知事が言った。
「いづも泣がされんのは おらだぢ青森のもんだあ。 ばがやろー なめるんでねーどー。 えーが おらは怒ったどー。 怒った青森もんが どーすっか 見どれーっ!」
床に転がったヘルメットを拾い上げた知事は、その泥汚れをワイシャツの袖でぬぐって社長に手渡しながらさらに言う。
「社長 泣ぐな! おらはやるど。 おめが開いたルートをたった今 ここで、県道に昇格させることを県知事たるおらが宣言する! これっくれーは 知事の専権事項だあ 文句があっかー!
ご近所のみなさん 聞いたっぺー おめだぢが証人だあ。
社長ぉー 工事ば続けろ。 県議会はおらが何とかすっから頑張っぺー。 青森のー 尻屋の意地ばあ 見せるっちゃー。
道っこが通れば おらが東京さ行って、でっけープラント企業を尻屋に誘致してみせるだい。 道っこはー 風力発電の工事路にもなるだっぺー。 社長ぉー 県道ばあ 造れえー!」
その後もオイルショックといわれた低成長時代は続き、資金の尽きたデモ隊はあっさり引き上げ関根港には静寂が戻った。
尻屋崎から関根浜を経由して国道279号線に繋ぐ県道6号は、意地の県知事が議会を説き伏せ、涙を拭いて気合いを入れ直した地場社長はせがれの専務に一大決心を伝えると、あのヘルメットを手渡し、「今日からはおめえが社長だ」 と言った。
新社長はすぐに二人の弟たちを都会から呼び戻して三人で重機を操作し、元社長は県道工事の共同企業体をつくるために呼応する土建仲間を説いて回った。
そして数年後に野牛浜を貫く舗装道が完成した。
関根浜の山側あたりだけは地形と原野に阻まれ小型ダンプの幅いっぱいにしか造れなかったので大型車は通れず、ここは県道ナンバーも外される。
しかし地元では ”県道 野牛線” と誇りを込めて呼び、今も語り草となっている尻屋の意地の道だ。
筆者はここを全行程走ったが、その話しを聞いたのは走り終えたあとの大間崎のまぐろ料理店でのことだった。
「なんだってえー! そーんなドラマのロードだったのかー」
思わず立ち上り、走ってきた方向に向かい飲みかけの生ビールのジョッキを捧げてから一気に飲み干し、それをテーブルにドンと置いて両手を合わせたのは言うまでもない。
両手を合わせる前に 「おかわり!」 と怒鳴ったかどうかは覚えていないが、目を開けたらおばちゃんが生ビールを運んできた。
国は 「むつ」 の船内で停止していた原子炉の冷却を待って取り出し、関根港の陸地に運んで 「むつ科学技術館」 という ”保管庫” を造って閉じ込めてしまった。
見学はシールドガラス越しに出来るようになっていて一般開放されているが、これほど人気のない公立の科学館は他にあるまい。
その理由は、大型バスが国道から科学館まで行けるように取りつけ道路はあるものの、見学を終えた子供たちがそのあと尻屋崎灯台に行って太平洋と津軽海峡を一望しながら楽しくお弁当を食べるためには、再度むつ市まで戻って県道6号線に入り直さねばならない。
筆者が自転車で走った ”県道 野牛線” はバスが通れる巾はなんとかあるものの、すれ違いが出来ない。よって安全第一のバス会社はここを通らない。
そんな道ではあるが知事は大手が投げ出したこの区間の難工事を約束通り地場社長に完遂させ、尻屋崎には三菱マテリアルの巨大なプラント誘致を成功させて地元雇用の促進に結び付けた。
この小文が中央誌に掲載されて青森の民意が高まれば、県議会を動かして予算がつき ”県道 野牛線” は名実ともに県道に拡幅される日もあるだろう。
開通記念式典に筆者が呼ばれたならば出席してもよい。野牛ステーキは美味しかったからねえ。 出来れば筆者には柔らかい部位をお願いしたい。
筆者がこれらのいい話を得られたのも、10日間滞在した下北で毎晩居酒屋で酒を飲み、地元のひとたちの話しに耳を傾けたからである。
民宿には素泊まりでお願いをしていた、その民宿も漁師酒場をやっていたからだ。
居酒屋でメモは取れなかったから記憶をたぐり寄せて書いている。少々のでほらくは許容の範囲と思っているが、ここまでの処はだいたい真実の話しである。
築地市場で史上最高値をつけたあの ”大間まぐろ” を釣った漁師の店にも行った。店名は 「大まんぞく」 という、大満足 と 大間ん族 の洒落を店主が考えたのだ、筆者ではない。
刺身の厚さは2.5センチもあって、これはもう ”まぐろの切り身の生食い” である。
早い時間に行ったらかあちゃんしかいなかったが、座敷の壁に大きな写真が誇らしげに掲げられていた。
その前のテーブルに陣取って おまかせ を頼み、かあちゃんが料理している間じゅう写真を見ていた。そのおまかせというのが2.5センチの怪物とは知るよしもなかった。
クレーンに吊るし上げられた巨大魚の大きな尻尾をしっかり握るかあちゃんと、大漁旗はためく船の上からにっこりVサインするとうちゃんの写真は、何の説明も要らない津軽海峡に生きる漁師夫婦の一大スペクタクル物語であった。
よいものを見た。そして思う、「ワシの文章は説明が多すぎて損をしているなあ」
やがて帰ってきたとうちゃん漁師は、オレンジ色の巨人軍タオルの鉢巻に寅壱印の鳶ズボン、さらには地下足袋まで穿いてなんと手にはチェーンソーと草刈りガマを持っている。
「?」
聞くと 「山の手入れに行っていた」 という意外な返事。なお分からなくなってさらに聞くと、
「8月からがまぐろの漁期だあ、それまではよー 大間沖に流れ込む川と沢を手入れして 栄養豊富な山の水を海さに流すんだあ。そーすっと いいプランクトンがいっぺー湧いで、北太平洋から尻屋沖をクイッと曲がった大型まぐろが大間にドアーっと入って来るんだあ。
これをやんねーと、 まぐろは津軽海峡の真ん中さー通って、竜飛岬をスゥーっとかすめて秋田の方さに 出て行ってしまうんだあ。 そーなったれば、ワシらには獲れねーべし。
今おめさんが食っているまぐろは冷凍もんだが、9月にもういっぺん来なんし。 生の本まぐろを食わしてやっからよー」
ぜひそうしたい。また来たときには ”普通サイズ” にまぐろを切っていただけますかいな。
「津軽」 を書いた太宰 治の写真を見てもわかりますやろ、昔から文学者は おちょぼ口 と決まってますのや。
「むつ」 船体は解体をまぬがれ、現在は海上保安庁所轄の海洋地球調査船に任じられ、換装されたジーゼルエンジンで運用されている。もちろん船名は改称され ”むつ” は永久欠番になった。
先にも書いているが、筆者は下北遠征の折り、大間崎〜尻矢崎間約60kmを国道279号線と県道6号線のブラック区間を ”県道 野牛線” でつないで走って8時間で往復している。
大間発 尻屋崎灯台 折り返し、野牛浜経由 大間まぐろの像ゴールという寒立馬もおもわず感立つ感動的なルートだった。
これを下北の真珠といわずしてアコヤ貝いやホタテ貝が食えまっか?
このルートには完成稼働した原発施設はまだなくて、大間原発予定地は造成更地のまま工事がストップしていた。
一方風力発電の基地は地震の後も健在で、元気に風車が回っているのをそちこちで見た。
このコースで朝と午後とに一回づつ関根浜の県道 野牛線上から 「むつ科学技術館」 を遠望している。船のカタチをした建物だったがもはや原子炉としての機能はない。
大型バスでも来ていたなら自分も行ってみようと二度のぞいたが、だあーれもいないから行くのを止めた。
この辺りの県道は狭い処では幅3mを切る道が20kmも続いていたが、野牛線だからそれでいいのだ。
海側は高い防風自然林が続いてなあーんにも見えず、陸側はだあーれもいない自衛隊の砲撃演習林だった。草の上に戦車のキャタピラ痕が残っていたが実車は見ていない。
往復とも一時間に一台の軽トラとすれ違っただけで、そういう意味では走りやすいコースだったが、誰も見ている者のいない貸し切り路で美しいペダリングを維持して走るというものは、超個人主義者であっても疲れるものだ。
そのときの経験が 「エドガー ウガン」 の文中 「ここは下北の野牛浜かあー! コンビニはどこだあー ゴールはまだかー」 の発言の基になった。
ここまでが おしぐれ流 ワインボトルの底に溜まった澱の ”展開 押し広げ法” による野牛浜の説明である。
こ〜んな長い説明はあっちには書けなかった。これでよ〜く分っていただけよう。
さて、本題の 核燃サイクルロード である。
六ヶ所村に集中している日本原電の施設が、現在六ヶ所あるからそれで六ヶ所村という。 というのはPRセンターのアテンダントお姉さんの冗談である。
プルトニウムが燃えるずうーっと前からここは六ヶ所村だった。大小の湖が六つあったことが由来らしい。
原電の巨大な施設を中心にした広大な敷地内には、従業員とその家族が住む高層アパート群も幼稚園も診療所もショッピングセンターもあって、高いフェンスに囲まれたひとつの街のようになっている。
中世期に大陸の内陸部にこうした街ができたのは、戦乱やら砂嵐を避けるためやらの諸事情があったわけだが、近代以降のわが国では極めて見る機会が少ない。
企業城下町というのとは意味が違うと思う。冬の下北ではフェンスの外に出たら地吹雪にさらわれて海にまで吹き飛ばされ、太平洋へ流されてしまうのだ。
異様な街といっては失礼だが、山と山の間を行く快適な道を走っていると唐突に ”街” が出現して驚かされる。
それは国家石油備蓄基地を見たときも同じ思いだった。
特別な用事がなければフェンスの外に出る必要がないことと、特別な用事などそうそうあるわけではないからフェンスの外側にある広くて直線的な道路を走っているクルマなど滅多にいない。
ここには県外から来たひとたちも多く住み、冬は豪雪の地帯だから外からの通勤なんて土台無理なのだろう。
当然ながらここ生まれの子供たちは、フェンスの外の無用に広い、まるで某K国に実在するという緊急時には軍用滑走路に早変わりするような道路を、矢のように走って来るロードバイクなど見たこともないだろう。
筆者はここの緩やかな下りの直線路で自転車のギヤを実走では初めてトップまで入れて10分以上走ることができた。そんな走りは初めてだった。
矢のようにと書いたのは、あながち間違いではなかろう。10分で10kmも進んでいるのだ、筆者にはすでに介護保険の被保険者証が送られて来ているのだぞ。自転車はなんぼでももつが被保険者の原子炉がもたんべよ。
なのに10分も臨界を続けられたなんて人生初めてのことだった。
まぐろとホタテと美味しい酒で早寝を続けると、こんなにパフォーマンスが上がるのか。やはり下北は真珠のような島に間違いない。
そーゆーおじさんの矢のような自転車を見たら、ここ生まれの子供たちの文化は変わるに違いない。
ほんらい人間はフェンスなどにとらわれず自転車に乗って自由に旅するものだ。という真実を幼いうちに彼らに見せてやりたかった。しかし平日の昼下がりでは誰も道になど出ていないのだから仕方がない。
筆者が下北を訪ねた2011年の6月中頃は、梅雨前線は関東で足踏みしていて東北地方は好天の湿度の低い日が続いていた。
あの東日本大震災からやっと3か月を経過というときだったからから観光客を乗せたバスなどはどこでも見かけなかった。この時期に震災をまぬがれて動けるバスのほとんどは、志願の復旧ボランティアを乗せると凸凹に歪んでうねる高速道路を不眠不休で必死に走り、東京と被災地間を往復していた。
青森下北半島では地震と津波による直接被害は他の地域に比べ少なかったようには見えた。現地のひとたちは岩手以南を気遣って自分らの愚痴など何も言わなかったが、太平洋に面した地域には津波が到達しているから少なからずあったはず。
六ヶ所村や東通村では原発に関係するものの稼働を一斉にいち早く止めたことで、国や原電の計画にもその関係者にも影響は大きくあったはずだが、行きずりの旅行者にはよくわからない。
筆者が下北への出発を前年からの予定通りに進めたのは、東電の計画停電が予想より早く終了したからだった。
旅行者と書いてあわてて弁解するが、筆者とて物見遊山の地震見物ではない。人生の旅を行くものとしての旅行者であり被災地を素通りして下北まで来たことには胸痛を感じていた。
フェンスが途切れて日本原電町のゲート部分に差しかかったとき、筆者は自転車をガードマン詰所より少し行き過ぎた処で止めてしばらく眺めていた。
それを咎める者もいないし咎められる理由もない。
ここでは自転車に乗った旅行者のヘルメットから立ち昇る汗の蒸気など、地上を飛んでいるアブの発するエネルギー程度にしかカウントされないのでセキュリティは動作しない。
日中の時間帯に出入りしていたのは原電の社用車とショッピングセンターへ納品に行く大型トラックだけだった。
大勢のひとの仕事場と生活の場所となっている建物群で出来ているはずの街だが、外から見るかぎり妙に静まり返っている。
誰もいないことはないのだ、建物内にひとの気配があるし、アパートのベランダには洗濯物が風に揺れている。なのにひとの暮らしの常である喧噪というものがない。
そしてフェンスの外には只々真っ直ぐな道路が、海に吸い込まれて見えなくなる地点まで続いている。
ビジネスで来た者が用事を済ませたらタクシーか社用車で送られて帰って行くだけの長い道路は、ここでは生活道ではないらしい。
ならば歩道など要らないかろうに、ご丁寧な歩道が道の両脇にしつらえてあった。ただ横断歩道の白い縞模様ペイントはついぞ見かけなかった。
これなら夜はゲートを閉めてしまっても誰も困らないだろう。いや誰も出入りしないならゲートを閉める理由もないか。
そのような施設島が半島の何か所かに点在して、それらの間を立派に造られた道路が結んでいる。ただしそれぞれの町は別会社なのだ。
半島の付け根にあたる小川原湖から六ヶ所村にかけては再処理施設が、さらに北上した東通村には東北電力と東京電力の原発がある。さらに先の大間原発は現在建造が止められている。
場所によっては山を崩して平地に造成した段階で工事が中断したらしく、大きな台形の無人島を思わせる計画地もそちこちで見た。
そのような場所でもフェンスは高く立っていて扉は長く施錠されたままのように見えたが、台形の土の斜面には雑草が伸びている様子もなく、工事が止まってからの期間はそう長くはないとも見えた。
あるいはカキ殻を粉砕したカルシウム粉を土壌に混入すると、シェールバクテリアの活動が活発になって雑草が伸びないという話は本当なのかも知れない。
フェンスの手前からニュートラルゾーンの空地を隔てたこちら側に少なくとも今は用途のない、たぶん将来的にも用途のなくなってしまった直線路が延びて、そこを筆者の自転車が一台だけ走っている。
山側に目をやると風力発電の巨大な風車塔が一直線に並んでいて、近づけば 「グイーン」 と腹に響く風切音を立てていた。
下北はフクシマ事故のあと急に薄情になった日本と決別して独立し、電力輸出と再生プルトニウム供給専門の共和国になったら成功するのにと本気で思うほどだ。
プルトニウムや原発に将来性はないのかも知れないが、パキスタンと北朝鮮が開発と保有を止めない限りは技術を最新にし続けていかなければならない。
もしかしたらプルトニウム乾電池などという安全なものができて、ふつうにコンビニでも売れるような日がくるかも知れない。
かつてイタイイタイ病や水俣病を引き起こしたカドミニウムや水銀も電池の材料になっている。町内のゴミステーションで廃棄・回収のルールさえ守られればプルトニウム電池だって民生用になる可能性はある。
独立して日本とのしがらみが切れれば下北の漁業と酪農業は就業時間を週40時間にしても生きられる。日本の食管法が色々言うならつき合わないだけだ。下北国は大金持ちなのだから。
冬場は全休して国技のカーリングにうつつを抜かすことを国是とするのだ。
カーリングは相手とからだを接触させない格闘技だ。 「金持ちケンカせず」 のことわざは、サザンオールスターズが歌って日本の流行語大賞を獲得するだろう。
国の鳥獣魚はウミネコ・寒立馬・まぐろ。 国旗は風車。 国歌は鉄腕アトム。 そして国花はトビシマうす桜。ほかには えーっと ‥ 何でも来いだ。
大統領には前出の知事さんが今もお元気なら、ぜひ就任していただきたい。
えー それでは 建国より一日が経過いたしました下北国大統領の記者会見をはじめます。
まず、大統領から発言がございます。そのあと順次ご質問をどうぞ。
さっきのことだがや 大阪のおー 橋下さんから電話があったんだあ。
「道州制をさらに進めると独立国に行き着きますが、どーやって下北国をつくったんですか?」 ってなあ。
おらはこー答えたんだあ。
「手続きのことかね、それとも建国の歴史かね。
後者のほうなら簡単に電話でってーわげにはいかねーかも知んねーなあ。 おめ こっちさ来っか? 温泉にでも入えーりながら話すべえよー」
あに? 手続きのほうだけで結構ですだあ。 大阪でまぐろ食ったら高かんべによう。
「手続きなら簡単だあ。 『 独立しました。 以後よろしくね 下北国 』 って書いた紙を二枚用意してな、国連と日本に配達証明郵便で送りつけたら、野辺地町からまあーっ直ぐ東の太平洋を結ぶ県道5号線の北側にホタテの貝殻を砕いたカルシウム粉で白線を一本引いてよー、そんで終わりだあ」
あのやろ しつこくてなあー 国民生活と国の財政 なーんてえ つまんねーこと聞くからよー。
「前となーんもかわんねーがよ。 青森と日本から届いていたわが国民への県税・国税の徴収票を陸奥湾に流しただけだあ。
おらほの国はな、独立の瞬間から めっちゃ金持ちになった。モナコ公国とは収入の方法がちっと異なるが金持ちの点ではおんなじだかんな。 国民が負担すべき税は、日本から流入する物資が外税だったときの消費税だけだ。
おらほの国は核燃サイクルの上がりを施設レンタル料として、ちーっとばかし日本政府に支払ってやるんだが、プルトニウムの現物払いでよかんべーと、そーゆーことになってんだあ。
だが有償売却分はどこの国にも現金円で支払ってもらう、電力の直接売りなら県にもなあ。 国と国との仁義は即決・即金・後だしジャンケンなしが決まりだっぺよ」
はい そこの手を上げている記者さん。
あにー? 日本政府の出方をどーみているか? だとー。
おめさん どこの社か知んねーが、あっちでそー聞いてこいと言われたんかいな。 んなら答えてやっぺー。 大事なことだかんなあ。
「さっきも言ったが、なーんもかわんねーよ。国境はあるが行き来往来は自由だ。通貨もレートもかわんねえ。ただし核燃サイクルと原発・風力発電をわが国が接収して国有化した。
これのメンテナンスはおらほの国でやる。さいわい電力は売るほどあるし技術者もいっぺーいる。彼らは日本に帰る選択を拒否して、こっちの国民になる道さ選んだんだ、かしこいべえ。
彼らなしで日本政府は、ここの巨大かつ高度施設を運用できない。したがって日本政府とわが国とは平和的共存が可能だ。
わしらは核燃サイクルを人質に取ったとは考えていない。時代が、歴史が、下北人の気骨と気運が、わが下北に独立の機運と人と勇気を与えてくれたのだ。
日本政府もなあ 内心ではむしろその方がよかったと思ってんでねーの。 「むつ」 が追い返された日、あべさんも谷がきさんもまだ学生だった。下北新報の古い紙面になあ 角材を振るって機動隊に立ち向かう勇敢な学生の写真が残っているだよ」
今後の核燃と原発、内政・対外政策についてかや。ええごど聞くなあ。
「核燃・原発の新増設はしない、今止まっている原発の再稼働は、安全審査をした日本の連絡待ちだが、時期の判断は下北国がする。したがって日本より早まる可能性は否定しない。
工事差し止めの大間か、再開の考えはない。大間はまぐろだけで十分だ。ただし現行施設の耐用のことを考えて備えは必要。資材人員等には当然下北国の国費をあて万全を期す。
わが国が保有する現在資産が国民ひとりあたり世界一位なのは知ってっぺ。計算上のことではあるがな、しかし事実だ。ほんだがら おめさまだぢもカメラとマイク持ってこんな遠ぐまで来たんだべ。
この豊かな資産と資源をどう生かすか、大統領と国議会とで決めてゆく。
議会といっても先日まで町村議会だった。これからは国会だあ。みーんなガキんときから下北を駆け回った仲間だあ、うまくいくさや。与党しかねーんだがら。
おらはな 野党の台頭を心待ちにしてんだあ。 色々な考え方、やり方。間違えねーでやって行くには適度な負荷も抵抗も挫折も必要だっぺー、自転車がそーだがんない。
そーだ 首相だがな、おめら知ってっかあー 尻屋の土建屋なあ、あの男がな おらどいっしょなら ぜひやりでえと言ってくれたんだあ。
どごの婆あちゃんの認知症が進んだかまでわがってんだから、対応は早えーどおー。 それにな 人望の点ではおら以上だあ。 あっはっはあー。
人口の伸びは微増にとどまるだろう。今のうちに教育に力を注ぐ。核燃サイクルを維持しつつ民生に活かせる新技術を育成する体系をつくる。
つまりなあ 国民全員が6ケタ暗算をすーらすら出来る。そーゆー教育だ。ギガでもナノでもわかっちゃう義理と人情の下北人を維持発展させるんじゃ。
漁業・農業はやりたい者にやりたいだけやってもらうが、安全をまっとうするにはやはり教育は大きな柱となっぺ。
また日本への輸出輸入に関税などはあり得ないことだ。おらほは税収を国の柱とは考えていないのさ。国が核燃サイクルと売電で商売するんだからなあ。
さらに余剰金で日本の国債を買う。
金持ちになり過ぎるとアメリカがちょっかいを出してくるのは歴史に学んだ。若者を大いに米国留学させ、海外と(日本を含む)下北の文化と国是を英語で対論できる人材を多く持った国が勝利するのは自明である。これを今すぐ始めたい。
最終的には核燃サイクルの買い取りを完了させ、名実ともに借金なしの下北国を見るまでわしは死なんつもりじゃ。もちろん どごさともケンカせずになあ」
すこしまってけろ、あべさんからおらのスマホに電話だあ。 記者のみなさん、すまんなあ ホットラインなんじゃ。どこぞの国で政変でも起きたんかいな、日本じゃーあんめえな。
「もしもし ‥ あんだってー? 建国のお祝いにニットヨの電気自動車を贈りてーが、色はどんなんがええがってかや。 もしもし ‥ あんべちゃん、おめ プルトニウムの色って見たことあっか。
溶けた鉛みてえにぴかぴかして そらー もう めっちゃん 綺麗やぞおー。しかも比重は鉛の1,800倍や。重厚とはこーゆーこっちゃな。
そーゆー塗料は日本にはねーべし。重くてクルマが走らんからなあ。
おらほで開発中の軽くて電気抵抗ゼロの、リニア新幹線にも使える金属塗料がもうじき発売になっからよー 電気自動車は待ってけれ、おら運転免許もねえしなあ。
できればなあ あんべちゃん、おらは電気自動車でねぐ、通勤用のロードサイクルバイクが欲しいなー あっはっはあー」
ほーい こごらで記者会見 しめえーにしてもえーだがや。 おら 筋トレせねばなんねーでよ。
おわり
次回は半島南西部の山岳ロードを紹介してみたい。
syn
山は寒くてイカンから行かんことにして南に行った。
南といっても沖縄では遠いうえに橋でつながっているワケではないから航空機という交通機関に頼らねばならない。
「ヒコーキいうたら自転車のライバルやないけ、んなモノに利するようなことワシらは断じて出来ん。乗ってたまるか べらぼーめー」
全行程を自力で漕いで行くしかない貧乏ライダーは沖縄という字を 「翁は」 と書き替えて、ワシゃー地べたでつながっている土手みちロードを行くだあー、 しかないのである。
この時期に太陽光を前面に浴びながら北風に背中を押してもらって南に走るのは、全面むき出しネイキッドにとって最高の至福である。
最高の最と至福の至とはともにMaxを指す形容詞の接頭辞だから、形容の重複といって真っ当な文芸人からは嫌われる。それを承知で冒頭から投入する筆者の意図はひとつしかない。
「山はそれほど寒いんじゃー」
文頭1行目から山は寒いと書いているが、正確には山の下りが寒い。
登りのあいだは暑いを越えて熱い。
厳しい登りでは速度が上がらないから顔面の熱気が風防サングラスの内側にこもり、レンズの上側ほど曇りが厚いので道の先が見えない。道の先とはすなわち坂の上のことゆえ、アゴを引いていてはなおさら見えない。
なんとか見えるレンズの下側で前を見るにはアゴを突きだすように顔を上げねばならず、すると首から背骨 胸郭あたりがS字になって体幹のパワーが削がれ、ペダルにかかる力が減って失速する。
失速すると二輪車は悲しき、あえなく立ちゴケする。 ‥ これがへたれの一連の挙動なのだ。
「そーまでならないうちに、ハンドルから左右どちらでもいいから手を放して、メガネの下から指をつっ込んでレンズを拭かんかい」
しろーと衆はそういうが、ケツを浮かせていっぱいいっぱいで踏んでいるときにハンドルから手を放せますかいな。それには強大な腹筋が必要で、あったら汗など吹かんわい。
それに手袋の中だって汗びっしょりだから、蒸れた指先が接近しただけでレンズは曇る。 レンズ内外の温度差の大きい冬ほどそーゆーことが起こる。
山というものは登れば下るものだ、下りのない山は世界にひとつしかない。チョモランマだ。
あそこでは頂上の先に天国がまっているから誰も下りてはこない。チベットではチョモランマとは神の山、魂のゆきつくところ。仏教徒 至高の頂なのだ。
三浦雄一郎氏が下りて来られたのは奇跡の回春剤セサミンを摂取していたことも大きいが、自転車で登って行ったのではないからだ。
あのミラクルなご仁なら自転車でも登れようが、おすすめはしない。きっと帰りたくなくなってしまう。
山の下りは寒い。ただでさえ寒いのに汗が下り風に冷えて冷房効果を高める。膝が固まりペダルも踏めずに只々下りが終わるまでハンドルを握りしめ、滑るカーブを曲がって行く。
先ほどまで汗の滴っていたヘルメットの先にツララが出来て、手袋が固くなって中の指先が動かずブレーキが引けない。
何処かで どこかで止めねばならん! このまま速度が増えていったら次のカーブは曲がれない。
背中に付ける自動開傘のパラシュート、どこかに売っておらへんかいな。
眼に入った登り勾配の林道脇道に飛び込んで木の根と枯れ葉の抵抗で速度を落とし、最後はヤブっこにつっ込んで助かった。
「おめさん そーまでして山になんぞ行かんでええ、家でコタツに入ってミカン食うとったらどーや」
しろーと衆はそういうが、ヤブっこにつっ込んで空を向いた後輪がカラカラいうあの音がたまらんのよ。
そー 強がってもお高いイタリア車の後輪を何度も空に向けられるほど、筆者はリッチじゃないから今日は平地を南に行った。
じつに快適である。風は背中から吹いて20%のアドバンスである。
帰りにはこれが40%のリタードになることなど、 そーんなこと考えていたら 自転車作家はつとまらんべー。 なんくるないさー 帰るころには風向きが変わるっぺよー。
これでいつも失敗している。
渡良瀬遊水地から利根川ロード左岸を行って、茨城県五霞町で自動車道の国道新4号線 新利根川大橋に併設された自転車専用ブリッジで右岸に渡り、しばらく南進すると前方にお城が見えてくる。関宿城である。
もちろん昭和後期に再築されたコンクリートの城だが、もともとは利根川から江戸に用水を引く江戸川取水堰の取り締まり奉行所と奉行の居城であった。
今の関宿城は歴史記念館になっていて、周りは広い公園。
江戸川には左岸と右岸の両側にサイクルロードが整備されている。
どちら側を走ってもよいから此処が起点であり終点。はるか東京湾の海まで繋がっていて休日には多くのサイクリストが思い思いの速度で楽しんでいる。
徳川家康が ”堀っこ” しかなった田畑地帯に開削させた新川 江戸川は、明治以降にも大変な経済効果をあらわしたことがよく知られている歴史的河川。前作 「フランソワーズ サガン」 に詳しく書いておいた。
野田の醤油はこの川があって江戸から日本中に広まり、やがて世界ブランドのキ〇コー〇ンになった。
その江戸川の流れのスタート地点がここ 千葉県野田市の関宿。利根の水を分流して松戸を通り、矢切の渡しや柴又帝釈天を経て江戸市中に入る。海へは現在の葛飾臨海公園で放出されている。
そこから左側は千葉県浦安、東京ディズニーランドが右岸からも見える。
さすがにそこまで行ってしまっては帰れなくなるから、ガイドブックによく紹介されている右岸を行って、柴又の寅さん会館でトイレ休憩と草だんごを食ってUターンした。
ところが、往きの快調さのしっぺ返しか 帝釈天でお賽銭をケチったバチか 草だんごが腹にもたれたか、ペダルが回らない。
北風が邪魔をして踏んでも踏んでも速度がでない。
なんでえー? と下を覗くとインナーギヤに入っている、山を登るとき使うギヤだ。なのに風に押し返されて平地なのに前に進まない。そして北風が寒い。
体力が尽きてきるとモチベーションは二乗倍で萎える。とうとう東武野田線の鉄橋の下にヘたれ込む。
あたまの上を電車が大音響で行き過ぎて、いつまでもこんな処にはいられない。
冬の夕暮れは早く、日中あんなに元気だった冬の太陽も赤みをおびて光が弱くなってきた。できるだけ早く利根ロードの分岐まで戻らないとこの辺りは地理不案内である。
橋脚にもたれて体力の回復を待つあいだにも太陽はか細くなって、本当に寒くなってきた。
せめて関宿城まで戻れればなにか方策もあろう。立派できれいなトイレのシャッターが降りないうちにもぐり込めば、朝まで過ごせるかも知れない。
しかしこの寒さだ、サイクルウエアだけで白いタイルに座っていては震えて眠れないだろう。
運よく暖房便座に座っていられればありがたいが食糧をどうする。草だんごはもう消化されてしまった。シャッターは一度閉められたら朝8時まで開かないだろう。
のろのろと走り出すが一向に調子があがらない。
焦りが不安を呼び、不安は疲労を倍加する。
暗くなってもスタイル重視のイタリアンバイクにはライトがない、段差で跳ねて土手下に落ちればカッコ悪い遭難死が現実味をおびてきた。
これは早急に決断をすべきだ。
次の橋まで行ったら前進をあきらめ、橋梁下の風の当らない場所に潜り込んで、たき火で暖をとりながら明日の夜明けを待とう。
さいわいタバコ用のライターとコンビニのプリペイドカードを持っている。寝ねぐらを見つけたら食い物とゴミ袋と酒を買って、ゴミ袋を着たり 穿いたり 被ったりして、たき火と酒で遭難死だけは免れるだろう。
走りながらそう考えて、土手から見まわすがコンビニがない。見慣れた明るいあの看板がない、真っ暗な畑の向こうに街灯がぽつんぽつんと見えるだけ、クルマはもっと遠くを走っているのだろう。
「おーい ここは埼玉か千葉だろうや、下北半島の野牛原野を走ってんじゃねーぞー」
むつ市のひとよゴメンなさい。でも原発予定地の野牛浜という辺りは原野以外は海しか見えず、その向こうは北海道なのだ。
大きな橋があった。暗くて橋の名前など読めないが上は国道だろうから巾は十分にある。問題は風を避けられるかだ。
橋梁部の付け根にホームレスのウッドハウスが見える、上手に作られていて内部からは明かりが漏れている。自転車をロード脇の草むらに隠して近づくとラジオの音が聞こえた。しかもNHK‐FM 赤坂靖彦の Radio Man Jack じゃないか。
「なかなか文化的なヤツやないけ」
戸口の脇に集めてきたとおぼしきアルミ缶と古ダンボールが積まれている。
「しめた! このダンボールを借りて寒さをしのげる」
歩く足に思わず力が入って地面の空き缶を蹴とばしてしまった。缶は戸口のアルミ缶に当って 「ガシャラン コロン カン」 と大きな音をたてて転がった。
「だれだあー?」
割とのんびりした声がして戸口が開き、男がひとりこちらを見ている。
手にした懐中電灯に照らされて、疲れた作家は缶を蹴とばしてしまったことを詫び、悪意のないこと・ 行き暮れて難渋していること・ この橋の下で夜を明かしたいが、寒さしのぎにダンボールを使わせて欲しいことなどを身振りを加えて説明した。
本来なら作家らしく、ここは会話の形式で書かねばならん。だがこのときは、それが出来ないほどに疲弊していたとお許し願いたい。。
「ああ 好きなだけ使っていいぞ、ガムテープもそこにあるだ。
そこの角材となあ ベニア板があんべえよ、それで床にするんだあ。 えーが 平らにこさえるんのが肝心だあ。 屋根はな、寝るだけだったら高くはいらねえ。箱のまんまふたつ重ねて作ればええだ。
おめさん 腹へってんでねーが?
床ができたら小屋はすぐに出来っから、まーず こっちさへーって飯を食え。 なあーに 大したもんはねーだ。 ちょうど 鍋えーやってでな、おめさん 酒っこははやるだが?」
招じ入れられたのはホームレスハウスだが、 ”ハウスはあってもホーム無し” のお父さんの多い昨今、じつに気持ちのよいホームだった。
小さめのコロナの石油ストーブが燃えて温かく、天井のキャンプライトの仄かなオレンジ色の明かりに包まれてダンボールの壁が輝いている。明かり取りの小窓にはトランジスタラジオが乗って、Radio Man Jack をやっている。
そして、ストーブの上にちゃんこ鍋の大きな土鍋。まるで来客を予感していたかのように肉と野菜がてんこ盛り。
そしてそしてその横に、でーん とそびえる一升瓶は男山。 お椀や箸もちゃんとある。
「ほれ おめさん、 飲め 食え いーや 食って飲め、 遠慮はいらねえー 困ったときはお互いさまだあ、今日はよう 集めておいた 銅材がいい値で売れたでなし。
そんでまあ ひとりでお祝いっちゅーとこだったんだあー、 誰かこねーかと思っていだとこさや。 おめさん えーどこさに来てくれだなやー あっはっはっはあー」
筆者は泣いたよ。
こーんな知らない橋の下で死にかけようとしていた処を、知らないおじさんに暖かい小屋に入れてもらって親切にしてくれたばかりか、なけなしの金で買った肉を自分で食わずに、迷い込んできたへたれに食えと言う。
ちゃんこ鍋と酒までご馳走になって、お礼にはコンビニのプリペイドカードしか持っていないから泣いたんじゃあない。 おじさんの男気に泣いた。
「えーんだ 礼なんていらねーぞ。 おらはな、できねーときにはダンボールしか貸してやれねえが、あるときには分けてやるんだ誰にでもなあ。 おめさんも そーだっぺやー。
ときにおめさん どっから来なすった? ほーがや 渡良瀬からがや。 渡良瀬はあー 田中正造翁の故郷だいなあ」
筆者ははっとした。
このおじさん、ヒゲの風貌が田中正造じゃあないか。
「あの あなた お名前は?」
「おらかね? 名前はあー 忘れた。 ラジオネームでええかや、江戸川右岸 だ」
びえーっ! アフリカ ウガンダ地方の子供たちにマラリアの予防接種を受けさせることを呼びかけ、その資金を集めるため世界を托鉢しては送金しているという伝説の伝道師。 エドガー サウザンド ウガン。
エドガー ウガンとは このひとだったのか。
おわり
syn
<序> 源流考
ロード歳時記にしょっちゅう登場願っているのが、ご存知 鬼怒ロード。
鬼怒川土手の上に舗装されたワシらの走路面を鬼怒ロードと呼んでいるが、自転車に限らずランのひともローラースケーターも、飼い主を引いて走る犬でも、走って鍛えて大量の汗と悔し涙を流すことをまた、ロードといっている。
理屈っぽくなって恐縮だが、(大量の)汗と(悔し)涙が伴わないバイクやランは、ただのお遊びだからロードとはいわない。‥ ことになっている。
それは (悔し)涙になんらかの付加価値を見いだそうするへたれな理屈の所産なのだが、ご同輩なら解かっていただけよう。
ベテランからすれば軽めに見える負荷メニューでも、そのひとにとっては大汗と悔し涙のステージを無事終えて帰宅した日曜日の夕方、自転車を小屋に入れてから風呂に飛び込むところを見とがめた妻がいう。
「あんた どこへ行っていたのよ! 朝から何処かへ行っちゃってー、 今日はタローを洗ってくれる約束だったでしょう」
彼は汗のジャージを脱いで洗濯機に放り込みついでに、そこに居た犬を抱きかかえて浴室のドアを閉めながら返事する。
「ロードに行ってきた。風呂から出てタローの毛を乾かしたらファミレスへ行こうか?」
「あんた タローまで浴槽に入れちゃダメよー! あとの掃除が大変なんだからあー。 あたしねー、ファミレスより英国料理 アビイ・ロードのほうがいいわー」
こーゆーシチュエーションのときの、ロードという言葉の使い方は大いに正しい。
行った場所とそこでの目的と行為、その結果に至るまでをわずか3文字で表してしまうからだ。そのようなスーパーな力を持った言葉はこの世にそう多くはあるまい。
ことばの達人たる文章作家がそのように宣するのだから、これはもう間違いがない。
ロードはボクシング用語から発したロード ワークの日本語的短縮形と思ってよい。綴りは Road 、辞書には最初に 「道」 とある。
一方ボート競技のひとたちが、担いできた競艇を水面に降ろして漕ぎ出すことを ”ロードする” と言うのは Load 。辞書では 「負荷・装填・重ねる」
コンピュータにダウンロードする というときのロードも、装填する・セットする の Loading に由来する。
建設機械のロードローラーは Road roller だが、ショベルローダーは shovel Loader と書く。
RとLがごちゃ混ぜでうまく判別できないのはアナタだけじゃないから大丈夫。
いま日本の英語教育は、安定期に入ったとされる第二次あべ政権の強力な肝いりがあって大きな転換期を迎えようとしている。
公用語は英語になって日本語は家庭内だけか夫婦の寝室でのみ許されるという時代は、消費税10%にアップのすぐ後にやってくる。すでに準備が始まっている。
寝室での夫婦の会話はナニ語でもモチロン構わないのだ。そーゆーコトに政治は 『 不介入の原則 』 が憲法に保障されているからだが、英語の準備はしておいたほうがよい。
英語音痴はみな戦々恐々とするなかにあって、かつて進駐軍のくれた脱脂粉乳を飲んで育ったワシら第一次団塊世代だけは何故かRとLの違いが解かる。
アーミージープと同じ色のドラム缶に入った脱脂粉乳には、いまの日本JAS法でなら排除されるあるサプリメントが巧妙に仕込まれていて、それでワシらはみんなノンポリシーになってしまったのだが、そのことは今回の主題ではないから脇に置く。
ワシらの脳に R が右で L は左と知らぬ間に擦り込まれた訳は、粉乳が入っていたドラム缶の蓋が L の矢印方向にしか開かなかったからだ。
大人はこれが理解できなかったようだが、こどもは食いものを目の前にすれば全知能を駆使してこれを開ける。
おかげでというべきかどうか、ワシらは明確な発音が出来るぞ。
ラジオは R 、 ラガービールは L 、 どんなもんじゃい。
Road と Load どっちがどっちか分らなくなっても表記がカタカナなら誤魔化せるけれど、会話の場合には英語が母国語のひとからは発音の仕方を鋭く指摘される。
ワシは北爆終結前後のベトナム戦の現地へ、ラオスとの国境辺りに設営された国連軍の軍事機材支援キャンプ地から入って行ったことがある。このとき命を分けたのが R と L と B だった。
そんな危険な場所へ何をしに行ったのかを先に説明しないと先に進まないからそうするが、ロードの先へと急ぐべき本欄が歳時記らしからぬ硝煙けぶる雰囲気になってきたのは、作家としてはいささか不本意であるものの、流れだから仕方がない。
『 軍事機密とはそこに含まれる情報や技術が時代遅れの古臭いものになった場合でも、ひとつの独立した国家としてあり続けるかぎり最高機密として秘匿され続ける性格をもつ 』
ベトナムで他のプレス記者たちと一緒にそのように言い含められているワシらは、だから書けることと書けないことがある。
そのなかでどう書けば機密に触れずに時代を伝えられるか苦悩するところだが、ことばの達人たる文章作家に出来ないことなど何もない。
ノンポリシーのでほらく書き と言われながらここまで来たが、あのキャンプのことは書かねばならん。
国連軍、つまり米軍がベトナム戦に投入したタイガー戦車は米兵士の生命を守る動く避難壕のようなものだった。攻撃能力は飛び抜けて高かったが、敵陣に向け自動照準された砲台が実際に火を吹く場面などワシは見たことがなかった。
攻撃ヘリのコブラが向こうに見える丘と手前のジャングルに銃撃の嵐を降り注いだあと、静まり返った丘をゆっくり登って行く戦車隊の後に地上兵士が散開しながら続き、丘の頂上に攻略の小隊旗を突き立てる。
戦車はしばらくそこに留まって、敵が丘の奪還の意思を放棄したことが確認されるまで地上を斥候する友軍兵士の安全を守り続ける。
そしてさらに進攻する兵士を追い越して先頭に出ると、弾除けとなって野を進んで行く。
そのような戦い方しかワシは見ていなかった。そういうものだと思っていた。
飛行機乗りの兵士と違い地上兵には、敵とはいえ自らをベトナム解放軍と名乗る者のその背後から自分の銃で撃てようか。
同じ地上に立って到達距離の短い貧弱な銃を構える者に対して、自軍の圧倒的火力の砲撃を加えることに抵抗があった。
一方、コブラには操縦席の全面に対空弾を撥ね返すスクリーンがあって、そのスクリーン越しに見える敵は必ず悪鬼かゾンビに見えたからロケット弾のトリガーを思いっきり引くことができた。
その特殊なスクリーンを製造したのは日本の化学繊維メーカーだったが、それがなければあの戦争は終わらせることが出来なかった。
同様に戦車に続いてジャングルを這うように進む地上兵士の足を毒蛇から護り、ヒルの侵入を許さずなおかつ軽いジャパンメイドの安全靴がなかったら、あの戦争はもっと長引いただろう。
ワシは当時ある米系キャタピラメーカーの品質保証部に籍をおいていて、ユーザーからの苦情や不具合傾向の調査集約に携わっていた。
日本国内で得た品質情報を本国に送って商品改良や日本の事情に対応した新製品開発のアイデアを集める仕事だった。
仕事柄キャタピラ技術が戦車の駆動系にも使われていたのは知っていたが、民間人だからベトナムでの戦争やタイガー戦車には無縁だと思っていた。
そんな折りに自社の製品のある部分のある部品に製造上の欠陥が見つかり、走行不能の状態に陥る重大な不具合の発生が本国で報告された。
極東日本支社の我々もいわゆるリコール改修の準備をしているさ中、本国CEOからとんでもないテレファクスが届いた。
ベトナムへ行って戦車の下にもぐり、対策済の部品と交換して来いというのだ。その数300両。
対象車両は軍の協力で後方の資材支援キャンプというところに集められるが、すでに不具合の発生により激戦地で立ち往生となっている数両の改修には現地まで軍の護衛が付けられる。
ただしベトナム兵は戦車の修理をしている者を見ればアメリカ軍人と認識して攻撃してくると思うのが自然である。
よって予想される危険を避けるために、現地へ派遣する人員はベトナム人とよく似た人種の極東支社の日本人社員から1名を選抜する。
選抜条件は以下の通り。
バイリンガルであること。ただしベトナム語の能力については不問。
妻子のいない独身者であること。
当該改修作業の能力に長け、現地の気候風土に耐えうる身体を有し、正義感と責任感をもって困難に対処可能な勇者であること。
自衛隊経験者でないこと。これは軍からの要請である。
前科のないこと。ただし確定より5年を経過している場合はそれをカウントしない。
ただちに必要工具を持参し当社の正規作業服着用のうえ東京立川の米軍基地に赴き、ドアに黄色でCATと大書されたC‐20輸送機に搭乗せよ。それが今回ミッションの専用機である。
別便にてアリゾナ工場から送った改修品とマニュアル本の入ったコンテナがすでにミッドウェイ上空を通過し、間もなく立川に着陸する予定である。
ことは急を要す、海外でアメリカ兵の生命が脅かされている状況に合衆国大統領はこころを痛めている。
我々は世界企業としての責任を果たすため大きな決断をした。現地の戦車の完璧な改修を6ヶ月以内に最後の1両までやり遂げることだ。これは国益にかなうばかりか世界の平和に役立つものだ。
極東の勇者の幸運を祈る。
「支社長ーっ こんなファクスが来てますやんけ、 誰をやりますかいな? ベトナム人に似た男なんておましたかいな」
フランス人支社長は ”非情” といわれた男、冷たく言い放つ。
「行くのは おまえだ。 ほかにおるかあー ウィ」
国境近くの機材支援キャンプでの改修作業は順調に進んで、あとは戦場エリア内に取り残された数両を残すのみとなった。
その頃にはキャンプ暮らしにも慣れ、なにより後方だから銃撃の音など聞こえない平穏な日々であったが、あっという間に過ぎて明日は出発という夜に休暇中の兵士たちが送別会をしてくれた。
何度も聞き返したが壮行会ではなく、送別会だと言う。
その夜の彼らは、ワシを 「ミスター カミカゼ」 と親しげに呼ぶ。本物の戦場を何度も駆け回った経験を持つ猛者の彼らでさえ握手のときに涙ぐんでいた訳が、たったひとりで日本から来たこのワシを「特攻に出る覚悟を決めた腹のすわった日本サムライ」 と認めたからだと分ったときには Budweiser Beer を飲んで酔ってさえいなければ、夜陰に乗じて逃げ出すところだった。
ワシと数名の護衛兵士によるリコールチームはプレス記者やフリーのカメラマンたちと一緒にカーゴトラックに揺られて前線へ移動して行った。
目的の不動戦車は敵に奪取されていたり、爆発物がセットされているかも知れないので慎重に接近し、兵士が安全を確認してから改修に着手するのだが、不整地に放置されていたから作業は安易ではなかった。
再び動き出してキャタピラ音を軋ませながら後方へ戻って行くタイガー戦車を拍手で見送る護衛兵士たちと何回目かの握手をするうちに、あの晩逃げ出さないでよかったと思えるようになった。
前線キャンプでは、不定期に配布される簡略な手書きの戦力地図をワシにも分けてくれた、これを見ながら前進ルートを変えて進まないと敵の手に落ちるからだ。
万一、ひとりきりになってしまったときのために、方位磁石や無線機と信号弾の銃を持たされ、防弾ウエアも着込んでいるから外観上は立派な米兵である。
地図は防水ケースで保護し、身分証と一緒に胸のポケットに収めておく。
バイリンガルなワシには、地図に三色ボールペンでマークされた青は味方のBlue地帯、簡易記号はL 、Rは危険なRed地帯という認識があった。
だがBlueはBだと思い込み、未探査でBlackなメコン支流の左岸を行ったノンスピークのカメラマンが泥地で突然倒れるのを対岸から見た。銃声は聞いたかどうか記憶がない。
他国で見聞きしたこととはいえ、これ以上のことは何十年も経った今でさえ易々とは書かないほうが身の安全だろう。
ワシが書いたのは R L B のことだけだから、機密には触れてはいない。
そういえば当欄の記述に使っているのは比較的安全とされるメール用ソフトなので、発音記号の表記が出来ない。そこは読者のイマジネーションに期待したい。
ロードにはもうひとつ、三つ目の Lord があるのでついでだから紹介しておこう。
以前に The Lord of the Rings (邦題: ロード オブ ザ リング) という壮大なおハナシの映画が話題になったことがある。
ここでいうロード (Lord) の意味は前ふたつとは大きくおもむきが異なり、なんとキリスト教における神さまのことなのだ。
「リングの神話」 とか 「指輪物語」 と訳すのが適当なのだろうが、興行配給元の担当重役があえて日本語に訳すことを禁じて原題のカタカナ読みにするよう命じたのはさすがの慧眼である。
当時 Lord をそれなりに理解していた日本人はといえば、ワシとこの担当重役のふたりくらいのものだったろう。
多くの日本人観客は ロード オブ ザ リング を 「旅するリング」 すなわち 「自転車旅行」 の映画だろうと勘違いして来場する。そして内容の落差にきっと驚愕するに違いない。
「そこが狙い処なんや おしぐれさん。 エンターテイメントちゅうもんはのう、意外性なんや。見とってやー ワシ 3億、賭けまっせー」
山師重役の なーさんは (特に名前を秘す) そう言うなり窮屈そうな ホンダN360 に乗り込むや、シフトレバーに被せられた黄色のボンボンを無理やり操作してギヤ鳴りの音と共に日本信託銀行の角を曲がって見えなくなった。
東京府中市郊外の路上にて何者かに銀行車の3億円を強奪される事件の起こる前日のことであった。
映画興行で ”封切り ロードショウ” という2000年以降は死語となった言葉があるが、この場合のロードは Road である。
Road show を旅興行と訳せば、旅芸人=伊豆の踊り子=吉永小百合 の方程式が成り立ちます。山口百恵ではいけません、団塊世代の時代感からすればここはやっぱり吉永小百合です。
ワシらの過ぎ去りし二十代は、せつない思いのノスタルジーですなあ。
三つのロードを違和感なく使い分けることの出来るようになった当蘭読者諸氏は、同音語彙集のパフォーマンスが現段階では日本一と自慢してよいでしょう。
ただし、英語圏のひとに音(おん)だけで駄洒落を言ってはいけません、読みだけでも駄目です。意がかみ合わないと妙な誤解を生じてしまいます。
その結果、異国人は自分と家族と祖国の名誉が損なわれたと感じれば殴ってくるでしょう。当たり前といえば当たり前です、異国でひとり生きるのは命がけなのですから。
真意を尋ねる前に何はともあれ報復をするのは彼らの文化です。そーやって生きてきた。
生きざまの文化に対しては憲法もたじろぐはず。少なくとも個人レベルでは罪を問えませんよ
じゃあ、国家レベルならそれが可能となるのか? 出来ました、過去に何度も。 今は出来ません、しません。
文明国が隣国の文化を責めることを戦争というのだとぼくらは気づいたのです。
たとえ隣国が文明国でなくても不戦の原則は変わらないのです。
道をロードと一括りでいうのは誤りではないが、それにコース・ルート・ラインなどからシチュエーションに合わせた適語を組み合わせて用いると状況表現がより素敵になると筆者は思う。
松尾芭蕉 「おくのほそみち」 を外国人に解説したある翻訳作家は、表題を 「奥の細道」 と長いこと思い込んでいて、 「ロング アンド ワインディング ロード」 と訳した。
それを聞いた在日7年になる日本家屋研究家のニュージーランド人は彼を大ばか者と思ったのだろう、「You aer the Beatles ?」 と半ばあきれて怒りを隠した大笑いをしたそうだ。
「それを言うなら ロード オブ ザ みちのく ウイズ ア バショウ ソング でしょう。
ボクは祖国にいたとき、ロード オブ ザ リングス のオークランド撮影にエクストラのゾンビ役で出演している。そのときニッポンのエスエフ ロード かぐや姫 をよーく勉強したけれど、ナーニのことか全然わかりません。 かぐや は嘘っぱちね」
「あんた 何いうてまんねん。かぐや姫は日本おとぎばなしのスーパースターやで、竹から生まれて月に帰ったプリンセス ルナ姫さまなんや。
ロード上で泣いていた捨て子のアン王女とは風格がめっちゃ違う。おまんとこのスリーDホラーばなしと一緒にすな!
それになあ 日本最古のSFは浦島太郎や、亀の背に乗って海のロードを行く愛の物語なんや。英語でいうたらトリトン タローやでー」
生国の文化の違いによるいさかいとはいうものの、この不毛なやりとりは行きつけの居酒屋のカウンター席でのことだった。
ヒートアップするふたりを放ってはおけないと、店のママさんがワシに電話してきた。
ママさんはワシを求道のロードマンと認める数少ないひとり、”ロードのことならこのひとに聞け” とりなし役を頼んできたという訳だが、ワシも店に行こうとしていた矢先だった。
いつもは歩いて行くところをロードバイクに乗って駆けつけたワシは、以下のような断を下して両者をいさめた。
大げさにいえば国家間紛争の火種を消したんじゃ。
「どちらの言い分もそれぞれの立場での発言だが、仔細を聞けば双方とも致命的といえる大きな間違いはない。だから落ち着いてワシの話を聞け!
ヨッちゃんは 「ワインディング ロード = ねじくれた道 = 苦難の道のり・人生の重み・回帰、すなわち 輪廻」 を言ったのだろう。まさにロード オブ ザ リングだ。
ダミアンは 「おめ そりゃー ビートルズの楽曲だっぺよ、おらを南半球から来た田舎者と思って馬鹿にすんでねーぞー」 と怒ったのだ。
ビートルズの生まれたイギリスはダミアンの故郷ニュージーランドの宗主国だが、南半球を ”ダウンアンダー” と呼んで小馬鹿にする風潮がある。女王さまは同じなのに何ということだ。
彼はそれを思い出して少しムカッとしただけだ。 ヨッちゃんもわかるよなあ。
ちなみにダウンアンダーとは ”下の下” という意味ではない。
この島はそこに生きる動植物の特異な進化を発見してヨーロッパに紹介したダーウィンにちなんで、当初は 「ダーウィンアイランド」 と呼ばれた。
初めて英語を耳にした原住のマオリ族が 「ダウンアンダー?」 と聞き返してきたことに今度はイギリス人が驚いた。それが由来だ。そーだよな、ダミアン。
さーふたりとも、和解の杯を交わそうではないか。ママ、新しいボトルとグラスを用意して頂戴。
さて、それらのなかで誰が最も本質に近いかというと、ママさんあんただ。 「ローダーを求道者」 と訳したあんたはえらい。 その新しいボトル、ワシが入れようじゃあないか、ツケで」
さて、鬼怒ロードのベースとなる堤の、その内側を流れる鬼怒川のことは、本欄にきちんと書いた記憶がない。
きちんと書くとはどういうことか、川の概要や流域の特徴・文化・歴史などならワシが書くことでもあるまい。百科事典Wikepedia の検索で中立的で正確な情報がすぐに得られる時代だからねえ。
ワシがいつかは書かねばならんと思っていたのは、多くの人が鬼怒川の源流を誤解していることだ。
とはいっても誤解による民衆生活への実害や国益を損なう程の影響はなくて、だから作家には 「何としても俗信を解かねばならん」 という大層な思いや 「今すぐに」 という緊迫感などない。
そもそも誰もそーんなこと期待しておらんじゃろ。
川の正体を ”水” と限定すれば、それは水源地の空にかかった雨雲が出処だから空気と同じで何処に降った雨だって同じ水粒のはず、源流の水だけに特別な意味などあるわけがない。
沢ぞいの林道を行けるところまで行った辺りに点在する牧場の、牧舎に降った雨がトタン屋根の溝を滑り落ちて出来る小さな滝が、麓を流れる川の源流だと言ったって大いに構わないのだ。
テレビの山歩き番組が人気で、源流行をあおる。
山歩きが人気なのかイ〇ト ア〇コとかいう眉の太いタレントが人気なのかは知らんが、セーラー服着用の山ガールがギニア高地の1,000m落差というエンジェル フォールに辿り着くという荒唐無稽さは許すにしても、
滝の水は中空で霧散霧消してしまうから滝壺が存在しないというあまりの胡散臭さに、いや神々しさに彼女は両手を合わせて拝んだりするものだから、滝やその水の源流点には神聖性があるかのような錯覚を与える。
そこに立つと精神的にまことに癒されると言うのだ。
癒されたというその事実にはむろん異論はない。だがそれは何時間も沢を遡って辿り着いた充足感・達成感、あるいは山の木精フィトンチッド (薬方名 ヒノキチオール) を肺臓いっぱいに吸って疲労感からの開放解脱を得たからである。
その証拠にひとは精神が安らぐと同時に食欲が増進して、そこで食べる梅干握りに海苔を巻いただけの”山ごはん”がことのほか美味しい滋養食と感じる。しかしそれらは神聖性とは違うものだろう。
食欲が満たされたときの充足感・達成感をもって源流点の神聖性と錯覚しただけだ。
さらにいうなら、エンゼル フォールには徒歩では到達できない垂直の谷や壁があり彼女らは飛行機で行ったに違いない。山歩きとは根本的に異なる。
そう言い切ってしまっては身も蓋もないが、もともとサザエの壺焼き以外には身も蓋もあるものなどこの世にない事実から推して、作家の証明は正しいといえる。
大河の源流と呼ばれる一本の沢あるいは川は上流部を歩いて特定することは出来ようが、源流点となると安々とは断定できない。
相手は水ものでござるぞ、半年後には向かいの山腹に新たな湧水が糸を引いていることだってござろうや。
それが集まって小さくとも沢ともなれば、100年やそこらで消滅することはなかろうが、
『 此処こそが最初の一滴がひと筋となって滴りし原始の場所、最初のひと湧きが地表を流れた創始のみなもと。すなわち唯一無二の源流点なり 』 と、GPS的な断を下せるものであろうか。
ただし自分用の山地図に赤鉛筆で?マークを記入する喜びまで否定しようとするものではない。‥ のでござるよ。
それでもハイカーは源流をめざす。
それは衣食足りて閑を手に入れなお足腰丈夫ながら、かつて燃やした情熱の着地点を会社のロッカーに置き忘れたままの団塊シルバーのノスタルジーとしてはよろしかろう ‥ その程度のものだ。
水は1センチの角マス一杯が1グラムという分りやすい基本質量とほとんど粘性のない形態自在な液体性を生かして地表の高きより低きに向かう極めて素直な性質を持っている。
ゆえに探索者の足元より少しでも高位に水が存在したならば、彼は未だ源流に達していないことになる。
「此処ではない何処かをめざせ、もっと上だ」
そーやっておのれを叱咤しいしい歯をくいしばって登って行ったら富士山頂近くの水洗トイレに行き着いた。団塊屋シルバーズのノスタル爺ーは ‥ その程度のものなのだ。それでもいいのだ。
じゃあなんで 今さら鬼怒の源流を?
それは … 書くことに詰まったまま長年しまい忘れていたネタ帳が廃棄するロッカーから出てきたと、宅配メール便で送られて来た。それだけですのやー ‥ 意地悪なこと聞くもんやないー。
<第一部> 本流考
鬼怒川の近くにいるひとほど源流を誤解している、たとえばこんなひと。
ロードから見下ろせる草むらに古びた軽四駆が停めてあったのを往路に見ている。帰りにも同じクルマがあったので自転車を降りて反対側の川の方を見ると足元から声が聞こえてきた。
とろ場のカーブにせり出したテトラポッドの上にへら師がふたり危うそうな釣り座を構え、長めの竿でテトラの落ち込み部を狙っている。
早朝から竿を振っていたのだろう、ややヘたれ気味の風情がいかにも野釣り派の雰囲気でよい。
ふたりの間の距離はおよそ5メートル。別々のテトラに乗ってはいるが川に落ちなければいいと思いつつ眺めていると、大声でこんな会話をしている。
「ほーい なんだか急に浮子が ”しもる” ようになったんでねーかあー 水が増えたんだべか」
「んだなあ そうかも知んねー。 流心を見てみろし、ちーっと白波が立ち始めたみてーだあ。 おもりを増やしてべた底で釣んねーと、へらが散ってまうでえー」
注釈) しもる (下る) : 水勢に負けて浮子が下手に押される(流される)状況をいう。浮子命(うきいのち)のへら師が神経をすり減らし葛藤する様をあらわすときに用いる用語でもある。
べた底 : おもりを着底させて餌の位置を一定に保つ釣法のひとつだが、「浮子に表れる戦況の変化が平板になる」 と繊細さがプライドのへら師はこれをセオリー違反とし、流れがつい
たとき以外は禁止する師匠は多い。弟子はおもりと浮子を取っかえ引っかえしながら、何とかして流れに対抗しようと持てる技術と頭脳の限りを尽くし、全身全霊で戦う。
へら師が家や会社でぼーっとしている理由はこのためである。責めてはならない、彼らこそ和の文化を正しく継承する最後の者たちなのだ。
「なんだべなあー 上流で雨が降ったような雲行きではねがったぞ。 朝からずーっと青空だあ」
「んだなあ。 きょうは連休初日だべ、日光の観光客が多いんでよー 9時に華厳の滝の水口を開けたんだなあ。 くそったれめー 4時間かかってここまで流れて来やがった」
そういえば、流心部を新しい草の葉などが流れている。
「おめさん! くそったれ なんて言ってはなんねーぞ。華厳さまに逆らってはなんねーだ、鬼怒の源流さまだもんなあ。お使者の竜神が滝壺から現われてえー、たちまち水底に引き込まれるでなや」
「んだなあ。 去年この先の淵で死んだ良助どんもなー おおかた川に向かって立ちションベンでもしたんだっぺよ。 ばちあたりめー。 可哀相な大ばかやろめー。 ナマンダブ ナマンダブ」
「ほーい 良助えー 三途の川でへらブナ釣ってっかあー 閻魔さまにはちゃんと入釣料を払ったかあー、あにー? ビットコインで送信してくれろだとー ばかやろー。 ナマンダブ ナマンダブ」
このふたりの会話は昭和時代のことではない。平成25年の春のハナシである。
釣り人の川や水に対する思いは信仰というほどに深く、言い伝えは多岐にわたって何でも信じている。
ベタ底の釣りが外道だと最初に宣したのは釣りの神さま恵比寿天だとか、釣りは不浄を嫌うから左利き者でも竿尻は右手で握れとか、三途川の釣り番人には入釣料をケチってはならんとか、
とりわけ鬼怒の源流が中禅寺湖だとする説は日光華厳の滝を見れば信じるに足る荘厳さだから、確信犯的絶対論として信じている。
ご法の度立ちションベンには死罪もやむなしだが、良助どんは釣り台から下りる余裕がなかったのだろうか。
『 鬼怒川は、正一位東照大権現 徳川家康公を曾にして祀る日光山東照宮に帰属し、関八州一切を懐に抱くところの神山 二荒嶺(ふたあらりょう)に源を発する。
水は神泉 中禅寺湖に集まりてのち唯一の水口 華厳の滝より俗界へ奔流す。そののち下野の野と民を潤し下りて遠く江戸城に至る神川である。
よって関八州の親方本流に在らすなり 』
ということになっている。
それは開闢以来の日光東照宮が鬼怒川に神格を授けるのを許し、鬼怒川の水が及ぶすべての河川の水運を管掌して水産による利権を独占する方便の、いわば江戸徳川幕府の政策だった。
初期の江戸に流れ込んでいた諸川のうち、上州赤城から東進して来てしょっちゅう氾濫を起こし、市民を苦しめ農地を流していた刀根川 (現:利根川) の向きを変え、房州銚子に導いて海に押し出す河川改修を成功させた家康は、のちに 「利根東遷事業」 といわれる本邦初の本格土木工事を成し遂げた大棟梁(大統領)と人気を博した。
さらに刀根の水の一部を水道川であるところの江戸川を新たに開削して江戸市中に引き、庶民の飲み水を確保したうえに水流を使って下水道まで整備して汚水は品川沖に流した。
工事奉行は太田道灌だった。大田区や道灌堀の名の由来である。
当時100万人もの人口があったのは江戸とヨーロッパのパリだけだった。下水道のないパリがどんな花の都だったかは都市史に有名なハナシである。
栄養豊富となった品川沖は豊かな漁場となって江戸前の魚が水揚げされ、寒村だった大森海岸は海苔養殖で栄えた。
家康は民生を大切にした大将軍として朝廷より正一位の官位を授けられている。盆暮れに贈った海苔の礼だったというが真偽は明らかでない。
家康の利根東遷の真意は、「平野部における軍備の要は水軍」 と説く逆説の変人軍師、黒田官兵衛の兵法を採用した家康のユニークさの表れであった。
万一上州上杉氏が東征して来ても、江戸川の堰に阻まれて直截には江戸に入れない。一方江戸湾における家康の海軍は小型船のバイパス路を川から銚子港に結ぶことを可能にしたのである。
その後戦乱の恐れがなくなれば川は民生用に顕著な働きを果たした。米・絹・木材他の運送である。
例えば銚子の御用醤油は川の船運を使えば加熱処理せずとも生のまま江戸城まで運べた。お殿様は目黒のサンマに生醤油をかけて食されるのがことのほかお好みだった。
江戸前の寿司に銚子の生醤油は欠かせないものとなり、生粋の江戸っ子は寿司と蕎麦しか食わなかったからこの経済効果は大きかった。
現在も江戸川取水堰のある埼玉関宿には堅固な造りの城が残っていて、代々の城主は家康直系の松平氏。
軍備上の役目を終えた後も城は醤油城の異名を引き継いでいる。関税収入があったからだ。
有名なキッコーマンの工場は千葉県野田に所在し、関宿の川向うである。
余談だが、関宿城址公園は利根川サイクルロード右岸にある。江戸川右岸左岸サイクルロードの終点起点でもあるから関八州ロードマンの聖地である。
公園のベンチで休んでいると、川面を醤油の香りが漂って来るのがわかる。
戦さの携帯兵糧として考案された糒(干し飯)はこの醤油と出会って草加せんべいとなった。
せんべいに熱いお湯を注いで3分待つと、醤油味のお粥になる。レトルトフーズの源流である。
鬼怒川は常総古河で刀根川に流入して鬼怒の名を終えるが、刀根の総水量の40%は鬼怒の水である。
古河の四里下流の関宿で江戸川に分流する際、鬼怒の水が全部流れ込む計算には無理があるが、江戸川には確かに鬼怒の水が含まれ、江戸庶民は華厳の滝の水を飲んでいたのだ。
よって 『 関八州の親方本流に在らす 』 は間違いではない。
明治元年発布の神仏分離令により東照宮は神社と寺院とに別れ、同時に川の神格は取り消された。
川の利権を失って以来、神社と寺院は二荒山(男体山)山頂の神域または仏域の所有を互いに譲らず現在も係争中である。将来的にも決着は見ないだろう。
川のことはすっかり諦めたか忘れた様子。
なので作家も安心して書ける。
華厳の滝を水口としてはじけ出る川の名は大谷川という(〇〇宗大谷派とはまったく無関係、嶮しい谷川の意味だろう)。いろは坂の登り口に朱塗りの神橋が掛かっている川だ。
地元では現在もなお神川と崇められ鬼怒川の始まりとされている。
一方鬼怒川の真の源流は日光より北東へ20里、現在の鬼怒川・川治温泉よりさらに山地に分け入った下野と奥州会津の国境(くにざかい)辺りの分水嶺と思われる。地名などない山中に湧き出す水が沢となり、やがて男鹿川となる。
嶮しい山容の男鹿川を下って怒り湖(いかりこ=五十里湖)に溢れた水は名前が変わって鬼怒川となり、さらに下った旧日光地内で大谷川を吸収して大河の風格となる。
鬼怒川は華厳の滝が源発だというのが嘘とは言えないまでも、国土地理院的にはそーゆーことなのだ。
作者は25年ほど前に男鹿川の源流を見たことがある。
車止めから半日釣り遡がった処で沢が途切れ、数日前に付けられたと思われる熊の足跡のくぼみから、それはチョロチョロと湧き出ていた。
飲んでみようと近づいたら山手の熊笹の繁みがガサガサと動いた。
背中に冷たい汗が流れ、釣竿と日光岩魚の魚篭を放り出して尻退いたが思い直して立ち止まり、繁みに向かって腰の弁当包みをベルトごと放り投げてあとは一目散、転げまろびつ沢を降り現在も命をつないでいる。
それ以来あの山には入っていない。ベルトと一緒に置いてきてしまった越後燕三条の本打ち物 「青紙ハガネの山刀」 だけは取り戻したいと25年思いつづけている。
鬼怒川神川説に?マークを追符するようなこと、地元下野国ではあからさまに言う者は少ない。
五十里(怒り)より発して憤怒の怒涛は鬼怒夜叉の如し。
いかにも暴れ川らしく、怒り発でもいーじゃあないかと作家は思うが、地元のひとたちからまた石を投げられそうである。
そのあたりは江戸 明治の政治宗教歴史家の判断を待ちたい。
ちなみに、さらに北東へ10里行った那須、殺生石の九尾狐伝説はふもと黒磯駅の駅弁業者 「九尾弁当」 のオリジナル創作だとする宇都宮駅 「餃子弁当」 の主張は、明らかに餃子の負け。
九尾狐は 「おくのほそみち」 みちのく編にてここを訪ねた松尾芭蕉の句がそれを証明している。
夏山に足駄を拝む首途哉
この句のどこに九尾狐実在の証明があるのかを、文学文化歴史家がこれから説明する。
メガネを拭いて端座のうえ卓上に気つけの水を用意して読まれよ。
夏山とは噴煙たなびく那須茶臼岳のこと。
茶臼 つまり噴火口を冷却して降りてきた川は那珂川といい、鬼怒川とは山脈を隔てた遥か東方を常総の那珂湊に向かう。
途中水戸を経由するので那珂川は水戸藩水軍のテリトリー、鬼怒川との接点・交点はない。両川ともカジカという海のハゼに似た魚が棲むが、那珂カジカは茶色に斑点、鬼怒カジカは全身真っ黒。
また水戸家は紀州時代から徳川の姻戚なので那珂 鬼怒戦争の記録はどこを探してもなかった。
江戸を発った芭蕉主従はこの安全地帯を歩いて来たことになり、なぜそのルートなのか後世の推理作家が気を揉む点である。
茶臼岳の登り口に怪石 殺生石が柵に守られて祀られている。
硫化水素の毒性など知られていなかった時代、柵の内側に墜ちた鳥や獣の死骸は何年経っても朽ち果てることなく、石は宇宙から来たと信じられていた。
重なる獣の死骸には九本の尾骨が見えたという。
足駄(あしだ)とはワラジの別称、ワラジを拝むという表現は狂言の世界に今も残されている。タヌキか狐に化かされて頭にワラジを乗せて踊り回る間抜けな旅人の心象描写は、狂言の他にも落語界では昔から決まった型があったようだ。
だがそれは、じつは俳諧の世界のほうが先で、あとから江戸落語がいわゆるパクッたのであるが鷹揚な俳諧人はそれを咎めず許した経緯がある。
首途哉 ‥ (読み : くびとなり) これは壮絶である。 命を落とす覚悟を江戸 千住を出るときの「矢立ての初め」に詠んで、果てない北国への旅の途についたばかりの翁が、九十日めの朝に那須殺生石を訪ねるべく、食客となっていた黒羽雲岩寺を弟子の曾良を伴い出門するに際し、北の空に大きく迫る那須連山を見やりながら発句した九尾狐を畏敬する歌なのである。
実際に立った殺生石の前での句は残されていない。
普通こーゆー名所には、俳聖と言われる芭蕉の句碑がポコポコ建てられていて当たり前なのだが、それがない。
翁はそれほどに九尾狐の絶対力を畏れた、同時にこの先に初めて踏み込む ”道(未知)の奥” への恐れも感じていたと言えないだろうか。
「別説 奥のほそみち」 によれば、芭蕉 曾良主従は隠密のスパイ行の途中であった。硫化水素の危険性は忍びの教養として十分承知していて、那須では長い間呼吸を止めていた。
それゆえ発句など残せなかった。
というのだ。
那須を無言で通した芭蕉は、その後訪れた白河の関で一気に思いを爆発させ、安心して呼吸できる喜びを詠っている。
心許なき日かず重るまゝに 白河の関に懸かゝりりて旅心定りぬ
白河までは水戸藩の庇護が期待できようが、さて明日からは伊達さまの領内である。
「杖に仕込んだ忍び刀ダテには抜かん、わしらには水遁の術がある」
白河で詠んだ歌には、どこにも伊達と出てこない処が凄味を覚える。
2時間無呼吸で行動できた芭蕉と曾良、この歌は覚悟の歌と思えないか。南氷洋のバショウクジラも同様の潜水能力を持つという。
作家には面白過ぎて隠密説もクジラ説も採用する気になれない。
スパイ説をいうならクライアント名と大義名分を明らかにせねばならんが、おおかたスポンサーは徳川幕僚庁、探察のミッションは奥州伊達藩の領地内に建つ金ぴか寺(実在なのでNSCの観点から寺院名を秘す)に秘かに運び込まれたクーデター用 新式鉄砲ということになろう。 ありそうなハナシである。
その手はこれまで多くの新進作家が取り組んでことごとく失敗している。
その理由は、伊達家ゆかりの奥州陸奥方面での取材の際に芭蕉の句のハナシはともかくとして、伊達の鉄砲と金の量を嗅ぎ回る曾良の名を出した途端に拒まれるからである。
民宿の風呂に入ったら冷たい水に殿さまガエルが泳いでいたり、食堂の前に止めたクルマのタイヤからエアが抜けていたり、セブンイレブンで何故かナナコカードが無効になっていたり。
みちのく圏内に旅するときは、伊達さまや南部さまに敵対的との印象を持たれたら飯も食えない。このことは肝に銘ずべし。
同様に岩手では、奥州藤原氏を頼って逃れてきた源 義経を討ったとされる藤原泰衡の苦渋の決断に至る顛末のことなど聞こうものなら、たちまち石のつぶてが飛んでくる。
義経主従は泰衡の機転で遠く北海道に逃れ、やがて大陸に渡ってチグリス・ハーンになった。
平泉辺りでは町内の回覧板を挟むバインダーの裏にそう印刷されていて、幼稚園児たちはそれを大声でそらんじている。
似たようなことは吉良上野介の国元、愛知県吉良町の立派な水防堤にもあった。桜並木のサイクルロードはみごとな出来で、この地では吉良さまの黄金堤と呼ばれている。
地方に行ったら口は慎むべし。
各地のロードでこけた経験から作家は得難い勉強をいただいている。
<第二部> フランス川
ともかくも親方本流の鬼怒川ともなれば、大きな懐を頼って流れ込む子分衆の支流をたくさん抱えている。
その中でもあまり目立たない江川という小さな川が宇都宮の東部にあって、そこにさらに注ぎ入れる極めて小さな川の名がフランス川。
名前など無かった小さな川にワシらロードライダーがフランス川と名付けただけなので、地図検索では江川とひとくくりにされている。
小さな川なのにフランス川などと極めて大それた命名なのには訳があって、それを今回の歳時記で紹介することにしよう。
標題の フランソワーズ サガン もまた極めて唐突でございますが、サガンを読んだことのあるなしに関わらず最終的には納得と大きな賛同が得られるよう作家はココロを砕いておりますゆえ、どうぞご安心願いとう存じます。
さて大本流の鬼怒総本家から見れば、江川は流れ込んでくる中小の分家支流たちの一本である。そこにさらに合流してくる孫川 ひ孫川など無数にあるから、一々名前と顔など憶えてはいられない。
そーゆー立ち位置のフランス川は地元では川と呼ばれず、水の流れる 「堀っこ」 と呼ばれている。
フランス川と尊称で呼んでいるのは、護岸のロードを利用する自転車ライダーと朝夕ここを走るランナーと、散歩の犬だけだ。
宇都宮の田園地帯のごく一部の距離ながら西から鬼怒本流の流れる東の低地方向に向かうフランス川は、堀っこのくせに生意気にもどっちに流れればよいか分っている。
そーゆー意味では立派に川である。
非自民を掲げて当選票を得ながら、反自民とは言っていないとどっちつかずの賛成票を国会で投じる何処かの党よりは方向性にブレがない。
フランス川は普通の地図には江川と丸抱えで標記され、江川を表す線は二重線だが孫川以下は一本千で引かれるだけなので川幅から水量などを推量することは出来ない。
そーゆー扱いの川でも人体にたとえるなら毛細血管の一本一本に当り、堀っこ程度の川でも地域住民にとっては大事な川なのだ。
どー大事かを書く前に、本流鬼怒川のことをもう少し書いておきたいのでハナシは一旦フランス川から離れるが、水は必ず何処かで繋がっているからハナシも元に戻って来られる。
そー信じて作家は鬼怒川支流ロードから本流ロードへ突っ走って行くのである。
この辺りは宇都宮の鬼怒川右岸流域に広がる大穀倉地帯で、稲作の田んぼが延々と続いている。
近年では米作からイチゴや洋蘭のハウス栽培などに転換した農家も少なくないが、この地方で一番美味しい米が実る田園地帯との定評を得た訳は鬼怒川から引いた水の豊かさと、その逆の水はけの良さにある。
のちに述べる江川やフランス川などマイナーイメージの川は、その水はけ側を担っている。
田園といえば水、よい水が豊かになければ圃場は維持できない。
打ち込みパイプの井戸から地下の鬼怒川の伏流水を噴出させ、その水圧でスプリンクラーまで回してしまうというような、近代農法はつい最近のことだ。
それより前の時代には、はるか上流地点の鬼怒川に設けた取水堰から農用水路で延々とこの辺りまで引いていた。
その水路は現在も現役で、清らかな水が通年流れている。自噴井戸に頼らない多くの圃場に豊潤な鬼怒の水をいつでも供給できるのだ。
規模こそ小さいが第一章に書いた江戸川水道のようなものだ。したがって設計は名手の手によるがそれは後に改めて述べる。
ネタを出し渋っている印象なのは、送り届けられた昔のネタ帳が手書きなので読みにくくて難渋しているのです。
今はパソコンだからよい時代になったものです。
農用水路は農閑期に水を止めてしまうと苔や草が生え、イタチや野ウサギが穴を掘るいたずらをしたり病害虫の越冬を許したりと良いことがないので通年通水である。
真冬に動きの止まった霜色の田園風景のなかで、唯一脈動を続ける水路はそれだけで歳時記になる。だがそれもまた別の機会に譲る。
一度に書こうとしてぎゅうぎゅう詰めの駄作に終わった過去の失敗を作家は忘れていないのだ。
当然ながら水路は厳重管理され、両脇に鉄骨金網が立てられて一般人は立ち入れない。
よしんば網を破って立ち入ろうものなら、水路内の水量 水流というものは小さなダムの水力発電機を回せるほどの轟々たるものだから、たちまち押し流されて命を失うことになる。
そこで両脇に鉄骨金網、分岐点の水門ゲートの地上部には鍵の掛かる鉄柵があり、管理車以外には人が近づける道もないという徹底ぶり。
一説では基本設計を描いたのはあの農聖 二宮尊徳。測量 勾配計算は伊能忠敬。取水堰の初期の落とし板の細工は左甚五郎の作といわれる文化財である。
コンクリートが普及した昭和初期になって今の構成で再構築されるまで、水は木杭の溝と樋管を通って轟々と流れていたという。真偽の検証はこれも近代農業文化史系の作家におまかせしたい。
アスリート系作家のワシはこの水路が自転車道と近接しているある区域で、堰から次の堰までの間の流速を測ってみようとしたことがある。
発泡スチロール塊を金網越しに投げて自転車で追走し、そのときの速度計を読んで表層速度とする極めてシンプルな実験である。中底部の流速までは測れないが、そんなものはサラッと無視するのがアスリート流。
結論を先に書いておこう、「追いつけませんでした」
注) ある区域 : 水質へのセキュリティ上の観点から作者には具体的地名は書けません、鬼怒ロードを行き来する者なら誰でも知っている場所です。
ですが、悪意をもって近づくものには竜神さまの祟りがありますぞ。
スチロール塊は堰から波立つ水面に落ちるやいなや、猛烈な加速に乗って行ってしまったのです。あわてて自転車を走らせて追いかけましたが、速度ゼロからの発進では到底追いつかず、そのうちに水路から自転車道が離れて見失い、その頃には追跡者の心臓もいっぱいいっぱいになっていて、この実験は失敗に終わりました。
申し添えますがロードバイクのゼロ発進加速は、信号が青に変わった瞬間から交差点を渡り切るまでの距離でならポルシェより速い。このワシでさえフェアレディーZより速い。
何度やってもワシらが速い。信号グランプリの王者はカワサキやスズキでなくワシら自転車ライダーなのです。
その理由は、ワシらにはクラッチが不要。
信号青の瞬後、下ハン握って息を止めたままのワシらは踏んで踏んで踏みマクル。水ボトル込みでも車重8kgに満たないロードレーサーは1,000分の1秒で全開加速のバーリバリでございます。
フェラーリのタイヤから悲鳴と焦げ臭い煙りが上がって路面を噛んだ頃には、ワシらは交差点の向こう側に到達しているのでございますよ。
そーゆー加速で発泡スチロールを追っても引き離されて行く水路の流速はそれほどに早い、水で磨かれて水苔やシジミ貝など生える余裕がない70年物のコンクリート壁は、施工当時の滑らかさを今なお保ち、流路抵抗が極めて少ない。
鉄骨金網にもたれて息を整えながら水路の流れをしばらく見ていたライダーは、流れて来るゴミなどは皆無なことに気つく。
それほど大事な農用水路に発砲スチロール塊を投げ、しかも回収できなかった自分を恥じた。だから立ちションベンなどは断じてしなかったのである。良助爺さんじゃあるまいし。
圃場水の供給側を書いたが、各田んぼを潤して出て行く側はどうなっているかというと、それがフランス川などの小河川である。
田んぼから次の田んぼを経てそちこちから集まった水は堀っこを形成し、堀っこが合同した処からフランス川など小さな川になって江川に落ちる。江川は水量を少しずつ増しながら流れ、やがて鬼怒川にその水を全量返す。
農用水路が動脈なら、静脈に相当するのが江川、分布血管がフランス川などの小河川、堀っこは腎臓の繊維管ということになる。
ところどころにある沼地は伸び縮みする膀胱のように水位調整池なのだ。
唐突ながら、子供のころ行商に来た豆腐屋の小型トラックのマフラーに粘土を詰める悪戯をした記憶はありませんか?
2分もするとエンストして、二度と始動できなくなりましたね。
そーゆーことは何にでも当てはまる、排出は供給より大切なのです。アスリートの呼吸は吸って吐くのではなく、口から吐けば必要量が鼻から自然と入ってくる呼吸法です。
だから口を開けてハアー ハアーしているアスリートなんか見たことないでしょう。
昔から農家のひとはこの堀っこ川を大切に掃除して、リターン水が効率よく江川にそして鬼怒川に帰って行くように気を配っていた。
特に第一線を退いた農家の爺さんは、曲がった腰に巻いた帯に草刈り鎌をつっ込んで鋤簾(じょれん)を杖代わりにあぜ道を歩き、流れの滞った堀っこを見つけると手練れの技で鎌と鋤簾を振るい、水流を回復させた。
流れが変わって驚いて飛び出すドジョウや小ブナを、爺さんを迎えに来た孫と追いかけて遊ぶうち、孫も水の大切さを知る。
農繁期の水は命の一滴 血の二滴。下流側の田んぼにも水を均等にシェアして共存共栄するのは命血の盟約だったのだ。
「鬼怒川米」 というブランド名には鬼怒農民の誇りが凝縮されている。
ここで農業系作家なら新たな実験を思いつくはずだ。思いつかんような薄情者は作家たる資格がない。
農繁期のある日の正午に鬼怒川上流の取水堰で一分間の水量を計測してその値をAとする。
同時刻に各圃場から溢れ出た水が、堀っこ川を経由して江川に流れ込む全ての位置で水量を計測し、その総量をBとする。
A−B=0 とはならないこと位、誰でも分る。Bの値の方が小さいからだ。
しからばその分はなに? 何処へ行ったの? 借方と貸し方が合わんでもいいのけ? オメらはそーゆー不正経理のうえに圃場特別優遇税制まで受けとるのけ?
太陽熱に蒸発して雲になった、大地に沁み込んで地下から鬼怒川に帰った、Bの計測点は多いので ”づくなし” 係員の水漏れによる計測誤差の総合が大きくなった。
どれも間違いではなかろうが、農系作家ならこー書け。
(朗読は無着正恭先生ふうにお願いします)
「それはね 良助くん、稲穂が丈夫に育つための チカラに変わったのよ、そーしてね お米の一粒一粒がいっそう美味しくなる 愛のチカラになったのさー。
わかるかなー 良助くん、ぼくたちが毎日食べるお米はねー 鬼怒川っていう川の水が 自分を犠牲にして美味しくしてくれたんだよー」
いやー 照れますなあ。こーゆーことはアスリート系作家には向かんとよ。
<第三章> フランソワーズ サガン
昔からこの辺りは瑞穂野と呼ばれていた、地図には地域一帯の名前でそう記載されている。
日本を大和の国という言い方をするならば、瑞穂の国もまた日本のことである。日本人のこころの根底に常にあるみずみずしい風景を瑞穂野という。
瑞々しく美しい豊かで平和な日本の大地を意味する 「瑞穂野」 を大胆にも一地方の農村地帯に冠し、あまつさえ国土地理院の地図に記載されている事実を、宮内庁も文化庁も国会図書館もご承知であろうか。
社民党の前の党首でこの瑞々しいお名前を持つ闘士がおられる。
今は猛々しくあべさんを誹弾しておられるが、それは仕事だからしょうがない。いったん野に戻れば穏やかな瑞穂野のように落ち着きと香しさに満ちた こころ優しき日本の女性なのだ。
まだまだ野にお戻りのご様子ではなく、ご活躍でなによりでございます。
ところで作者はこころを心と漢字で書いたことがない。
気恥ずかしくて使えないのだ。やましいことが山ほどあるからだろうか。
作者が敬愛してやまない小沢昭一先生 生前の名作、「小沢昭一的 こころ」 絶品でしたねえ。
先生もまた、同じやましのこころであられたのであろうと拝察するのでございますよ。
あの名作は 「昭一的 こころ」 だから名作大作なのですよね、「昭一的 心」 だったら すけべえな爺いだけです。
その瑞穂野に、平成になって間もなく高速道路を通す工事が始まった。
群馬の関越道と茨城の常磐道を結ぶ北関道で、栃木県内の西と東をほぼ真横に貫いて行く。
その計画線は宇都宮の南部を通るとき、不遜にも堀っこ川の真上に引かれた。
瑞穂野平野の圃場を出来るだけ分断しないように配慮しての計画だったとは思う。しかしその根底に、
「従前より川だったのだからその左右を同一の耕作者が田んぼをやっていることはあんめえ。したがって完工時の土壌環境に左右差があったって分りゃしねーよ」
という考え方はなかったか。
さらに、航空写真を基にした机上での起伏計算には地上を歩いて撮影したおびただしい写真帳が邪魔くさがられ、堀っこ川の集水機能と排水能力を甘く見ていたところがあったのではないか。
平野に重機の轟音が無遠慮に響き、堀っこが埋められ土盛りの土手が築かれ始めた最初の年の春から秋にかけては例年になく降水量が多かった。
堀っこを埋めて排水側を締め切った工事区域では、公団の現場事務所や工事業者の飯場・重機やダンプトラックが相次いで水没した。当然である。
竜神さまが彼ら無礼者を沼地に引き込んだのだ。
驚いた高速公団は図面を引き直し、土盛りの両脇に深い排水路を新設してその南北をトンネル管で連結した。水位の南北差が予測の計算とどうしても合わないので太いトンネル管に委ねたのだ。
地元民にとってその暗渠(あんきょ)はまるで、華厳の滝壺から出張された竜神さまの仮の棲みかに思えた。
前年竜神さまに重機を引き込まれた沼は公団が浚渫して自然沼の体裁に作り変え、栃木県に返した。
このときまでハナシが頭上を飛び越えて行き交っているイライラに黙って耐えてきた宇都宮市長がついに拳を上げた。
「おめらー! だいたいに於いてだ、地鎮祭・鎮流祭をやったのかーっ。 おらんとこにはなーんも知らせがなかったどー。
地元を小馬鹿にするのもいい加減にしろ。去年の稲作の大事な時期に田んぼの水が出て行かねえで苦労していた農家の圃場に、こともあろうに重機の油を逆流させて五十町歩を全滅させた責任を ぬしらー! どーつけるつもりじゃい。
瑞穂野田んぼの真ん中を真っ二つにする高速道を、おれらは賛成出来なかった。当たりめえだべ、先祖さまから受け継いだ県内一の美田だ。
だけんどが、県のため お国のためなら我慢しねくっちゃあーなんねえこともあると、市長のおらは泣き泣きお願いに回ったさ。
裸足になって田んぼさ入って農家さんに頭を下げたんだ。
潰される区域の田んぼと跡継ぎのいない農家の田んぼと交換したり、これを機会に離農するひとの就業先を探したりもしたさ。そのたんびにおらは、必ず瑞穂野の水は守るから、おらの命をかけて守るからと約束して高速を通すことになったんだあー。
だけんどが、この体たらくは何だあー。
おらほのふるさと 麗しき瑞穂野の風光はどこさ行ったんだ。香しき堀っこ川はどこさに消えたんだ。今のこの水のありさまは高速土手のドブの溝っこといっしょだんべえー。違うかあーっ!
おめらー よっくと聞けよ、県知事も聞け。 おらは農家の皆さんにぶっ殺されてもしゃーねえ。嘘ついちまったんだからなあ、とっくに覚悟はしてるだ。だけんども おらは卑怯者では死にたくねえ。
おらを信じてバカを見た農家の怨みを、これから晴らすからよっくと聞け。
おらはなあ 宇都宮市長としてもあるがその前に、ガキんときから鬼怒の水を飲んで育った男として おめら ”お上” と刺し違えて高速道を止めるために今日は来た。
「止められるもんか」 だとおー! ばかやろーっ。
おらのうしろを見てみれ! 何十万のスキ クワが光っているべさ。 おれらはこれで土手を突き崩す。 なめんなよー 土のことならおれらのほうが専門だあー。
逮捕するならおらを一番先にしろ。政令指定都市60万市民の宇都宮の市長を逮捕しろ。 うしろ手錠でしょっぴいてみろ。 どっかの都知事とは市民の支持率が違うんでえー べらぼーめー。
明日の新聞が楽しみだー。
解かっかあー 明日おめらは日本中の世論から叩き潰されるんだ。このくそいまいましい土手みてえになあー。
そりゃーおめらも仕事だろうよ、板挟みなのはよーくとわかる。おらも副市長時代が長かったからなあ。だがおめらは、ここを追い出されても任地を変えてまた働けるでねーか。
だけんど、ここにしか土地を持たねー 瑞穂野の民はなあ、ここを出てゆくわけにはいかねえー。 そーだっぺ 行くとこがねーんだから。
爺いさん婆さんが命懸けで開梱した土地だぞおー おらたちも今ここで命張って、何の不思議があるだ。 どーだあー 皆の衆」
怒涛の声が上がって地響きとなり、重機の先端アームが震えてガクッと首を垂れた。
もはや勝負は見えた。最後のゴール前ストレートに市長はVゴールを賭ける。
「このドブっこ水路をおらほが提示した図面通りに作り直して、元の堀っこ川のように満々滔々と鬼怒の水を流すか、どーじゃあー! きりきり返答いたせえー。
返答次第では工事差し止めの仮処分を今すぐ出す。もはや1センチとて工事はさせん。これは地元市長の専権事項じゃあーっ」
市長の専権事項はハッタリである。差し止め仮処分は県知事が申請して裁判所が代執行するのだが、工事道路の入り口までは市道だからその通行禁止処分なら十分に専権可能な市長の後ろには、鎌や鋤を持った農民と市民が二十万人も立っていた。
市長が言った何十万のスキ クワはハッタリではなかった。
目立つところに地元とちぎテレビのカメラカーと下野新聞の軽ライトバンも来ていた。県警のパトカーは最後尾である。当然である。
作家も微力ながら、宇都宮サイクリング協会の呼びかけに呼応して自転車に乗って抗議集会に参加している。当然である。
結局、国交大臣と農水大臣などの所管と県知事のとりなしで農家とは大幅な補償追加が成り立ち、沼地は周りの遊休地や雑木林と合わせて県立の自然公園として整備し直されることになった。
そして高速土手の両脇の排水路の側道はかさ上げされ、そこに市役所から続き江川まで伸びる遊歩道とサイクリングロードが新設されることで市民もやっと鉾を収める。という大団円を見た。
宇都宮で毎年秋に行われる自転車の国内最高格式レース・ジャパンカップ。大会名誉会長はもちろん宇都宮市長だ。
スタートのピストルは当然市長だが、ゴール後のウイニングランにロードレーサーに乗ってチャンピオンと並走するのも市長だ。毎年のしきたりだ。
宇都宮ではロードバイクで50km以上走れない者は市長選の候補にすらなれない。逆に言えばロードレーサーなら市長になれる可能性が極めて高いのが宇都宮なのだ。
開通式典の日 (高速道じゃねーよ、堀っこ川のサイクルロードだっぺ) 宇都宮ブリッツェンのチームジャージに身を包んだ市長の顔は晴れやかだった。
次期市長選は無投票間違いなしなのは言うまでもないが、市役所から一本道で鬼怒川ロードまで続くサイクルロードを市税を使わず構築した手腕は、後世に語り継がれる宇都宮史に、いや下野史に、いーや 日本ロード史に燦然と輝く金字塔。
集まった市民ライダーと共に走り初めを祝ったのである。
自然公園は 「県立みずほ野公園」 と名付けられ、雑木林はカブトムシの名所になって子供たちのキャンプ場ができた。沼にはカモや白サギが遊びフナやホンモロコも泳いでいる。
細い小川には沢ガニとホタルの幼虫が棲み、そのうちサンショウウオも這い出してくるだろうというウワサだ。
駐車場やトイレも整備されたので、子供連れのママさんグループがベビーカーをクルマに積んでの来場が多くなり、取り付け道路脇には喫茶店やおもちゃ屋、土産物屋などが次々できた。
三年目には堀っこ川の水位も安定し、給水元は鬼怒川だから鮮烈な水が通年流れる一級堀っこの容姿を完成させた。
そうとなれば田んぼを埋め立ててレストランなどもできて、そのなかに左岸から堀っこ側に向けてオープンテラスを持つ小じゃれた洋菓子屋がオープンした。
川を泳いでパンをもらいに来るカモやオシドリが子供たちに人気で、テラスで遊んでいても落下防止のフェンスがあるので母親も安心だ。
ロードマンにとっては鬼怒ロードの分岐から近く、宇都宮の店舗に常識のサイクルラックが設置されているので、休憩中に自転車が倒れる心配がない。
自転車を止めたらそこにテラスの椅子とテーブルがある、というのがなにより嬉しい。遅れた仲間を待つのにちょうどいいのだ。
トイレがあって顔が洗えて牛乳とあんパンが食える。コーヒーやケーキは決して注文しないローダーだが、平日にもしょっちゅう来店するワシらの存在を店主も無視できなくなり、自由に使えるエアポンプを置いたりタイヤのチューブや消耗品小物も委託販売するようになった。
そのうちに店主夫婦は自転車が欲しいと言い出したので、ショップを紹介してお高いフランス車をペアで買わせ、ワシらもショップで大きな顔ができた。
なぜイタリア車でなくフランス車かというと、その洋菓子店の名前がフランス屋というからだ。
かくしてこの排水路の堀っこ川も、いつの間にかフランス川と呼ぶようになった。
名付け主はワシらローダーだが市長に報告して快諾を得ている。
長い長い説明になったがフランス川命名のゆえんである。それだけのハナシなのだ。 軽めのよい歳時記が書けた。
なにー? 季語に相当する部分が読み取れないとな。
キビシイねえ あんた。
よーし まだあるぞー。
フランス川の川岸に立つ洋菓子店 フランス屋で、天気の良い日には表のテラス席に座って静かに読書をなさっておいでのご婦人がいる。
ワシら汗臭いシモジモの者はなるたけ離れたテーブルで牛乳とあんパンなのだが、品のよいご婦人は紅茶とケーキである。
ケーキの名前はフランスとイタリア国境のアルプス最高峰、モンブランというのだそうな。ワシらが知っているアルプスといったらマドン峠などツールの峰々である、なるほどそーゆー格好をしている。
ともかくも、よい雰囲気のフランス川ロードなのだ。
気分のよいロードだからランで走るひとも多くなって、心配していたロードバイクとの接触事故があった。翌日視察に来た市長が即決で大岡裁きを下した。
即ち、右岸のロードを歩行者と犬・ベビーカー・ママチャリ専用とし、フェンダーの無いスポーツバイクは左岸だけを走る。
ランナーのうちハイスピードランナーを自認する者は左岸を走ってもよいが左端を走る。ジョギング程度は右岸。
ロードバイクでもへたれて押して歩くときは橋を渡って右岸に回る。
この大岡裁きを市条例に格上げせず、フランス川のきまりに留めた点は市長の慧眼。市政上最大の手柄と評判がよい。
規制条例化で堅苦しくしばると反発してわざと違反する者がいる。利用者同士の自主規制というのが精神上からも一番守りやすい。
おかげでワシらがハイスピードランナーを追い越すときには、いちいち 「ほーい うしろー じてんしゃー」 などと野暮な声掛けをせずとも安全に共存している。
ローダーの発する気合の速度は自転車より数倍速い、ランナーは背後から迫り来る気合を感じて30m先ですでにこちらの速度を読んでいる。
それは彼がバイクの接近を認知した証しに、左端の白線の上に靴の軌道を乗せた挙動でライダーも確認できるのだ。
いまだ未熟者の弟子レールマンなどは気合の到達距離が3m程度なので、ランナーを追い越すときは大きく右側から丁寧に行くように厳命してある。
それでも心配なので、弟子思いのワシは鬼怒牧場の仔牛が首にかけていた小振りの鈴を失敬して彼のバイクに取り付けてやった。
カウベルはフラつき自転車の接近を音速度でランナーに伝えるのだ。
彼がいうには、
「鈴は効果的で気に入っているが、どーゆーものか毛足の長い黒い犬が何処までも追いかけてきて、前方に回り込んでに立ちふさがるのでかなわん。
ぼく犬に気に入られたのやろか」
鈴は彼が真っ直ぐ走れるようになったら牧場のボーダーコリーの留守をねらって一緒に返しに行くことにしよう。
お礼にはレールマンの奥方の里芋畑から葉の付いた太めの茎を二三本失敬して行けばよいと考えているが、仔牛には里芋本体のほうがよいだろうか。里芋の茎はズイキだもんなあ。
フランス川の側道のわずかな土の面にすき間なくタンポポが咲き、横の田んぼの土手には菜の花がそよ風に揺れて、フランス屋の白い外壁と花々の黄色の対比がいかにも早春を感じさせてくれる気持のよいある日。
テーブルに本を置いて席を立ったご婦人がワシらの脇を通ったときに、春の日差しに暖められた空気がスッと裂かれてそのすき間にズイキの、いや ジャスミンの香りがフーッと流れ込んだ。
ワシとレールマンは鼻を突き出し、香りの航跡をたどってご婦人のテーブルのほうに椅子ごとフラーッと傾いた。そのさまは菜の花にとまる蝶、いやズイキにたかるダンゴ蜂。
本の薄い水色の背表紙には 「悲しみよこんにちわ フランソワーズ サガン」 と書かれていた。
その日以来、フランス川左岸ロードは、フランソワーズ サガンと呼ばれている。
この名称変更については市長に報告をしないことにしている。あのひともあれでなかなか女好きだから、公務をさぼってバイクでしょっちゅうここに来ていては市政の停滞を招くからだ。
ワシら団塊ブラザースは公益を第一に考える優良市民なのだ。
おわり
次回はウガンダのアパルトヘイトと生涯をかけて戦った偉人、 エドガー ウガン のハナシでもしましょうか?
えっ なに? ネタばれしとるってかいな。 アンタ 意地悪やなあ、 知らんふりするのんが団塊ブラザースの仁義やないかいな。
syn
< この部分は本の装丁の帯です > 単行本に巻かれた姿をご想像ください
いかにも歳時記らしく お題は 「霜げる」
”でほらく書き” と石を投げられ続けた男が一瞬だけきらめいた、と錯覚する愛の賛覚
書き出しの2行に打たれました、その後につづく 「歌詞」 には泣きました。 ‥ 一読者
< ここからが本文です > ‥ いちいち説明すなっ! … ゴメンなさい。
第一章 「 霜爺い 」
川漁師の爺さんに出会って初めて川コトバの旋律を聞いたとき、背中に覚えた戦慄は今でも鮮烈に憶えている。
「 これはロックだ! 」
「そごの小屋でなあ 目ぇーさましたればよー 軽トラの窓っこがぜーんぶ霜げっちまてでなあ。 はあー たまげだもんだべ。
溶がしてるひまなんざねーがらよ ドア開げたまんま走ったんだあー したればはあー 木の橋も霜げでいたべさ 下の堀っこさにドスーンとはまっちまったでなや。 はあー 困っでいだんだあ。
そごに あんべえよぐ オメらしが来なすったっちゅうワゲだあー。 あっ はっ はぁー よがったなあ。 ちょっくら手えー貸してくんねえがあー。
そーれにしでも オメらし こったら霜げた朝っこがら 自転車なーんか乗ってよー なあーにしてるだい? まで オメらし! 鼻水が霜げでいるでねーが、 ほれ これで拭け」
爺さん首に掛けていた酒臭いタオルを差し出す。
いいひとには違いないが酒臭いのはいかんべよ。
この爺さん、昨夜ホンモロコの火振り漁をしに河原にやって来た。産卵のために静かな浅瀬に来るモロコを松明の明かりで一か所に集め、網で一網打尽の算段。
川に入り鋤簾(ジョレン)を使ってトロ瀬の魚道を作り、頃合いをみて魚道の上に仕掛けた網を引こうと一杯遣りながら待っていた。
寒さ除けの漁師小屋は解禁を前に杉の間伐材と稲わらで河原に作っておいた。
その掘っ立て小屋で炭火を熾し、おっかーが持たせてくれた重箱の里芋の煮っ転がしで呑んでいるうちに眠りこけ、寒さに目を覚ましたら朝になっていた。
朝は孫を小学校に送るのが爺さんの役目で、軽トラはそのためにせがれが買ってくれた。孫が学校に遅れたら軽トラを取り上げられて火振り漁に来られなくなる。
そーなっては大変だと窓も拭かずに走り出したというワケだ。
「えーんだ、眼鏡かけだってー どーせ よぐとは見えねーんだがら」
なんという達人であろうか、このご仁は心眼で軽トラを運転し孫を乗せて小学校に送って行く。この朝はたまたまタイヤが霜げで滑ってしまっただげだ。
タオルが酒臭いのなんか爺じ臭いのよりなーんぼマシだがや。
この川でホンモロコ漁が許されているのは何人もいない。
「モロコ以外はリリースする。たまたまサケやアユなど貴重種が捕れたときは生きたまま県水産試験場の鬼怒分場に持ち込んで委譲し、捕獲者としての権利を主張することはない」
と宣誓したプロ漁師だけのはず。
それ以外の素人によるモロコ漁は密漁として厳しく検挙される。
モロコはこの川では雑魚と分類されて一段軽い扱いながら、型と数をそろえて町の割烹店に持ち込むと良い値がつく。
身が小さいから刺身を造るのは根気が要るが、それゆえ宴席に並べば鮎より高価で希少なのだ。
ワシは割烹店の親方料理人に頼まれて刺身用のモロコ包丁を打ったことがある。
注文のサイズになるよう鉄の薄板を鍛えて鋼の粉を乗せて火中に入れると、刃先は火に負けて‘はぜ’て跳んでしまった。
やむなく市販の切り出しナイフの背の側を薄く研磨して小さな包丁を仕上げた。
恐るおそる届けに行った先で出されたホンモロコの刺身は絶品だった。背の皮に浅く入った飾り包丁の跡に、沁みた醤油の色を透かして刃紋が見えた。
ワシもいつかは燕三条の切り出し小刀に迫る刃物を打ちたい。それまで親方には達者でいて欲しいし、霜爺いさんにもモロコ漁を続けてもらわねばならん。
爺さんは県知事(来たのは代理だが)より水産資源保護調査員の腕章を宣誓受領し税務署に対しても漁具と軽トラが免税の川漁師を名乗れる程の、それ程の名人ステータスでありながら一杯遣りながら網の引きひもを足首に巻き付けたまま、霜げるわらの小屋で朝まで寝てしまうという屈託のなさである。
川の瀬音に時おり跳ねる魚の水音が重なり、そこへ月と雲との行き交う音がセッションする壮大なBGMをバックに酒を呑み、星に向かって ♪ Take me home , country roads ♪ と歌う。
この爺いさん、よく見たら前歯のすき具合がキング オブ カンツリーこと John Denver にそっくりじゃないか。
キング オブ 鬼怒老師の魂胆の清々しさと孤高の輝きにワシら凡夫は仰天平伏し、よろこんで軽トラを道に戻すお手伝いをしたのである。
『 星の夜の 霜げる河原にひとりゐて 落とし網せそ足で引くらむ 』
そのこころは ‥ 盃と肴が両手を占める … おあとがよろしいようで。
第二章 「 霜草 」
ロード脇の土手を覆っている背の低い芝草に降り下りた霜が、朝日を浴びてキラキラ光るようになってしばらく経つ。
12月も初めのうちは陽光が力を増す8時には溶けてしまっていたものが、中旬にはだんだん頑固霜に変わって午前9過ぎまで溶けない日が多くなった。
毎朝それを1週間も繰り返すと芝草の葉っぱもついに根をあげる。
葉っぱなのに根をあげるという不可思議な表現に作家は驚いてしまうが、ワシのせいではない。
「霜げる寒さ」 「霜げて前が見えない」 これらの言葉のほうが驚きはより大きい。
さらに 「おめ そったらとこで 何あーにを霜げてんだあ」 に至っては、しょんぼりしている・ ショボくれた風情・ さえない様子・やるせなさ、などをユーモアを含ませ的確に表現している。
昔から霜は 「降る」 とは言わない。霜は 「降りる」 が正しい。
雪は積もらないが霜が降りて 「霜げる」 この地方の風土に醸成された美しい言葉である。
「霜げる」 は 「でほらく」 や 「おしぐれる」 に対してその品性 風格において群を抜いていることを万人が認めるだろう。
霜げるの げる は ゲルに通じ、半固体の状態などと科学者ぶることはない。霜げるの げる は霜げた状態でいいのだ。
霜仁田はネギとコンニャクの産地、霜ネタは本章に似合わない。霜げるは格調高いヤマト言葉なのだ。
草の葉っぱがカサカサひとり言をいう。
「霜が重とうて冷とうて もう辛抱たまらんわ、わし霜グレてやるー」
ちりちりに縮んで小さくなって茎の付け根の処から折れ曲がり、土に伏せたような恰好で枯れてしまった。溶けかかった霜がいっそう朝日にきらめく。
これが霜げた朝の原野の風景。
葉っぱは枯れてしまったが草の本体まで死んだわけではない、枯れ葉をかぶり死んだふりをして寒風から茎と根を守る休眠状態になっている。
もしも気候に異変が起きて、周りの状況が冬の風土に固定されたまま10年経過したとすると、普通の草植物ならトロけて無くなっているのだが芝草は大丈夫。
11年目に春の状況を与えてやれば新芽を伸ばして光合成を開始する。
逆に干ばつの夏モードにロックして10年放置の場合でも、水分を消費する葉っぱを切り捨てて根っこと茎だけになって生き残る。
極めて細くて堅い茎はスジ繊維だらけで、葉が無くなれば何の仕事もないから水なしでも平気で100年は生きられる。
101年目に雨が降ると茎は柔らかくなってムチのようにしなり、大地を掴んで新しい芽を伸ばすのだ。
芝草は花実と匍匐(ほふく)茎のふたつの繁茂法を持っていて、普通には無性生殖となる匍匐茎は使わないで草として暮らすが、環境が厳しくなれば伝家の宝刀を抜き払って背中に背負い、スパイダーマンのように匍匐前進をする。
沙漠の砂の30センチ下には砂粒とそっくりな形をした虫の卵が眠っていて101年後の雨を待っている。
その間DNAは傷つくことなく保持されていて、雨後に這い出てくる虫は101年前の親虫と同じ姿と同じ記憶を持っている。というのだからタマゲタものだ。
虫でも草でも過酷な環境地域つまり極地に適応すると、乾燥や凍結は死を意味するのではなくて種の保存の一手段だったようだ。
近年ヒトの精子や卵子も凍結保存が認められたが、乾燥保存してお湯で戻すインスタントラーメン型は誰もやらない。
たんぱく質は60℃で固化してダメになることをゆで卵作りで知っているからなのだろう。生殖可能年代の男女は熱すぎる風呂に入ってはいけない理由だ。
芝草はそのしぶとい極地性が買われ、河川の堤防土手の保全目的に沙漠から種を持ってきて試験的に蒔かれた。
日本に入るとき根に虫の休眠卵が付着していないことを入念に確認されたことは記録に残っているのだが、正確だったかどうかは今さら確認できない。
7年前、鬼怒川土手でワシのヘルメット内に飛び込んで眉間を一刺しして行ったあのスカラベ蜂は、どう考えても日本古来種の蜂ではない。
スカラベってエジプトのピラミッドを盗掘者から護っているという伝説のカブト蜂のことではないか。
その卵が時を越えて … 。
あれ以来ワシの脳は極性が一定しないように思えてならないのだ … 。
芝草が日本に来たのは今から50年ほど前のことで、芝草という名前はワシらが勝手にそう呼んでいるだけ、ゴルフ場の芝と姻戚の関係はない。
ワシらのフィールドに生えている雑草で、土手に転がし置いた自転車を良い具合に受け止めて滑り落ちて行かないから一番馴染みの草なのだ。正式名は知らない。
江戸期に開始された河川の改修・付け替え工事で造成された堤防土手の土止めには、主に日本古来のカヤツリグサ科の多年草を使っていた。
意識して使ったと言うより勝手に生えたと言った方がよいかも知れない。
カヤツリグサは草高40センチほどの細葉のいわゆる雑草。日本中の田園地帯のあぜ道で見られる。背が低くて藪のようなモッコリにならない処が憎まれない所以であろう。
ひと口に雑草というが、雑草の定義を Wikipededia によれば 「人の社会活動により蹂躙され尽くした場所に唯一の棲息を求める植物をいう」 と書いてある。
これを訳したお方は幸せな人生だったろうか。
カヤツリグサは少年の頃よく走り回っていた野道にいくらでも生えていた。
草の両端を結んでトラップを作り、誰かが足を引っかけて転ぶのを見て喜んだ記憶がどなたにもお有りであろう。あの草である。
葉脈にイネ科のようなザラザラが無いので素足を引っかけても血が出るようなことはなかったし、意地悪ババアであっても年寄りが野道を通って来るときは葉を堅結びにすることはなかった。ワシらはフェミニスト少年だった。
ところがこのカヤツリグサ、土止め効果は良かったのだが土手の全面に生え広がるような攻撃的繁茂をしないのんびり派だったため、後から来たセイタカアワダチソウ(ブタクサ)の侵略を簡単に許してしまった。
いつの間にか秋のロードの土手は醜く黄色いアメリカ西部生まれのブタクサだらけになり、秋の花粉症の元凶として、ことのほか呼吸系にデリケートなロードライダーから非難の声が上がった。
当時の国土交通大臣は自転車乗りとして著名な谷垣禎一氏、先の野党時代を生き延びたときの自民党総裁である。氏もこの時期は花粉に鼻水垂らして自転車を漕いでいた。
しかし氏は、「ブタクサを切れーっ」
などと大声を上げることはなかった。先輩議員の荒船〇十郎先生が運輸大臣のとき、上越新幹線の駅を故郷の赤城山のふもとの寂しい村に停めてひんしゅくを買った一件を憶えていたからだ。
氏は黙って自転車を漕いだ。涙とくしゃみと鼻水の跡が今も名車 デローザ キング のフレームにこびりついているという。
我慢こそが氏の政治家としての美学なのだ。現 法務大臣である。
驚いた河川管理局は大型草刈りマシンを大量投入してブタクサを一掃したのだが、そのときに代替えの雑草種として背の低い多年草の芝草を本格的に導入した経緯がある。
これをインサイダーだ、と指弾する者は皆無だった。悪いのはアメリカのブタクサだからだ。悪者を外国に求めたサイクルマン谷垣氏の作戦勝ちだった。
芝草は堅い葉と茎を持って根が地中に広く延びるので土手崩れを防ぐのにちょうど良かった。
元々の原産地は知らない、沙漠と極地の両方をもつ大陸の生まれなのだろう。
春から夏に葉が伸びるのは植物の常で、芝草もよく伸びるが茎が横に伸びる性質が他の雑草と違って評価されたわけだ。日本上陸から50年経過しているが、まだまだ全国のロードの土手に植え付けが完了してはいない。
それまでの自然に生えた雑草や篠竹の土手ではどうだったかというと、草は野放図に上に伸びたから野生動物が棲み着いて何かと具合のよくないことが起きた。
キツネや青大将やフクロウは土手に穴を掘るネズミやイタチ・野ウサギを捕食するからよいのだが、猿・たぬき・鹿・イノシシ・熊、それにホームレスなど大型の動物となると土手うえのロードを行く河川パトロール車や自転車と軋轢となるので草刈りが必要だった。
この草刈り費用が馬鹿にならない。
草は刈ってもまた伸びる。しかも刈った草は雑多種入り混じりの上に空き缶やビニールゴミまで含んでいて堆肥にもならず、焼却処分している。
シンプルな形状の土手ながら、その総延長で掛け算すればどれ程の面積となるか想像できよう。
入札指定業者になれば土手の草刈りだけで100人もの職人を常雇いの社員として養って、自身は毎日ゴルフ三昧の会社社長が一級河川一本につき5人はいるという。
土手は河川の一部。河川に除草剤は使えないから建設省時代の管理局はアタマを痛め、当初は草刈りより人手の掛からない温厚動物のヤギを放して彼らに草を食わせようと考えた。
ついでにヤギに斜面を踏みしめてもらって、いわゆる麦踏み効果で土の流失を防ぎながら新芽をうながそうというもの。
ところが牧場のトラックに乗せられて堂々の出動をしてきた日本ヤギは、硬い葉を嫌いヨモギやオオバコ・それにタンポポや菜の花のあるところばかり食って、とっとと次の場所へ行ってしまう。
しかも斜面を矢のように走り、ブタクサなんかは見向きもしない。
中には土手を降りて農家の畑を食い荒らしたり、農家の飼いヤギと恋仲になって帰って来ないヤツまで出てきた。
河川管理局は急遽ヤギ追い隊員を増員しサファリ仕様の屋根なし四駆車も増やした。
アルバイトのマウンテンバイク乗りも雇ったが、そのころ行われた省庁改編により建設省は国土交通省と改称していて、河川管理の予算に占める人件費の急増に人事院が待ったをかけた。
「オメら遊んでんじゃー ねえぞおー」
お叱りを受けたというワケだ、当然のことだ。国家公務員が投げ縄振り回してヤギを追っかけてマウンテン サファリで遊んでいては、いいワケあんめえー。
そうこうするうち、メスヤギを追いかけていた隊員が角のある発情期のオスヤギに逆襲されて怪我を負う事故があって、ヤギ作戦は成果なく頓挫した。
粗食に耐え、棘のある灌木も食うというアフリカ羚羊を連れて来ようという案もあったが、
「キリンがいいべ、下の側道から長い首を伸ばせば上のロード際まで届くべさ」 「ほんだら象だっぺや、日に2トンは食うぞ」
これら嘘のようなアホ話を国家公務員が真剣に議論していた処に国会から 「土手の草刈りを民間に委託する条例案が通過」 の知らせが入り、彼らは猶予期間明けにすべて失職した。当然だ。
このとき谷垣氏は内閣改造によりすでに国土交通大臣ではなかった。ヤギ作戦失敗の責任と自転車マンとの関係は、特に取り沙汰されることはなかったのである。
極地生まれの芝草は少ない葉っぱの1枚1枚が命の綱だということをDNAの記憶でよーく知っている。
干ばつと氷結の両方を知っているから気合いの ”キ” の字がそんじょの葉っぱと違うのだと思う、どう違うのかは説明できない。それでも平気なのは ”で” のつく作家だからだ。
だから(なにが だからじゃー)枯れた葉っぱを芝草の茎は離さない。北風に吹かれてもけっして離さないのは、枯れ葉っぱは良い具合の保温材になることを知っているからだ。
枯れ葉の裏側には蝶のさなぎやバッタの卵など土手に棲む小さな生きものたちの次世代バージョンもしっかりしがみ付いている。彼らもまた知っているのだ。
もしも茎が枯れ葉を離してしまったら、小さな生きものたちは枯れ葉っぱと一緒に風に飛ばされ川に落ち、春までには海まで流されて塩分過多で死んでしまう。
芝草は春から夏に蝶やバッタに花粉を運んでもらった恩義がある、だからさなぎや卵のしがみついた枯れ葉っぱをけっして離すことはないのだ。
虫もそれを知っていて、丈夫な芝草のとりわけ強そうな葉っぱに卵を産み付ける。といわれている。
それが本当だとすれば、この時期に枯れてもなおしぶとく残っている葉っぱの裏側には必ずさなぎや卵がひっついているはず。
あっさりと風に吹かれて川に落ちるような ”づくなし” の枯れ葉に卵を産み付けるような ”そこつ” で非情な虫などこの世に一匹もいないはず。
そーゆー話しには滅法涙もろいワシとロードマンはゴム長を履いて、冷たい水面に漂っていた枯れ葉っぱを拾い集め、一方土手の芝草に枯れ残った葉っぱを一枚一枚裏返してみた。
そしてひとつの結論を得、草と虫の間の情というものに大いに涙したのである。
その日の反省会の酒はとても美味かった。
ワシらの酒はいつだって旨いのだがこの日はことのほか美味かった。
ワシらの草と虫の共生の話しを居酒屋のカウンターの端で聞いていた山女魚釣りの偽善者、ギンちゃんが知ったような顔で口を出す。
なぜギンちゃんが偽善者かというと彼は疑似餌で山女魚を釣るのだ。ペテン師以下だ。
「お言葉ではございますが先生がた、川面に浮かんだ枯れ葉の裏に蝶のさなぎやバッタの卵が付いていなかった理由でございますがね、
川底から枯れ葉の舞い落ちるのを待っていた山女魚がジャンプ一番、3分で食い尽くしたのさね、ほんでもって葉っぱにはハミ跡ひとつ残さないのでございますなあ」
このやろー 殴ってやろうか。
第三章 「 霜もみじ 」
ロードの舗面の白線に降りた霜が凍ってキラキラしている。
よく観察すると舗面の灰色部分は凍っていなくて白線の上だけが凍っている。
白い塗料の厚み分だけ地温が放熱されて氷温になったと思われる。気温が上がってくるまでは白線を避けてライン取りする注意が必要だ。
いよいよロードマンには辛い酷い冬の到来である。
冬に葉っぱが枯れるのは、斜面では極めて貴重な水分を無為に浪費させない計算と、折り重なって地に伏せる枯葉が陽光を集めて地表を温め根を守るプログラミングが出来ているからだ。
以前のロード歳時記 「四季桜」 で樹木の紅葉するワケを書いているが、土手の芝草もまた紅葉する。
ロード土手の景色は冬枯れ前にいっときの華やかさに彩られる。
「草もみじ」 と表現するそうで、ただの雑草だった邪魔くさい奴らでも小さくうずくまって見事に紅葉しているのを見ると、間もなく霜げてしまうのが可哀そうでならない。
「うんうん よしよし 愛い奴じゃ。来年も生きていたらまた会おうな」
そう思ってしまうのは、いよいよワシらにも枯れ葉の時季が来たからかも知れない。
ロードの景色がだんだんと寂しげな色に変化して、そしてそれ以上は変わらなくなるのは年が変わって1月になってから、そしてそれからは毎日北風が吹く。
風に吹かれながら南へ走るのはいたって楽ちんだから思わぬ遠くまで行ってしまうことになるが、その帰り道の酷いことを考えたら朝は頑張って北に向かうべきなのだ。
ところがどういう加減か日中になって南風に変わり、それがどんどん強くなる日がある。
北風に向かって 「男気」 で走っていたときに急に足が軽くなったら、それは ”ランニングハイ” になって調子が出たことではなく風が変わったしるし。
それを知らずに調子こいてハイになって、気がついたら100キロも行っていて自走で帰れなくなり、栃木県名物の ”自転車お助けタクシー” のお世話になる馬鹿者が時々いる。
注釈) 栃木県名物 ”自転車お助けタクシー”
普段は普通のタクシーだが屋根にサイクルラックを装備、トランク内にパンク修理用具を積載しドライバーは修理技能を習得済み。
故障での救援要請が入ると現場まで駆けつけて応急処置をしてくれる。希望すれば近くの駅、自宅までタクシーとして走ってくれる。
県内観光地とくに那須高原で大活躍。宇都宮市周辺のタクシーは屋根にサイクルラックを載せた車両(プリウス)が3割を超えて走っている。
さすがはジャパンカップ サイクルロードレース開催県であり、プロチーム 宇都宮ブリツッエン・那須ブラーゼンのホームタウンである。
ちなみに今年ツール ド フランス インジャパン を小生意気にも開催した埼玉市には、このような動きはまだない。
ロードの自転車乗りにとって、そこそこへたれて向きを変えたら帰り道も向かい風だった、というときほどへこむことはない。
午前中の寒風を前面に受ける我慢の走りは、帰り道でのご褒美が欲しくて 「男気じゃあーっ!」 と頑張ったというのに … 。
「行きも帰りも向かい風とは約束が違うやないけ ばかやろー」
悪態をつきつきペダルを踏むことになる。
ギヤを何段も落として左右にヨロケながらの走りでは時間が倍ほどかかってエネルギーが尽きてくる。その前にモチベが果てる。
宇都宮周辺のタクシー業界が設備投資してでも ”お助けタクシー” を増車した理由はここだ。
県央を南北に直線的に走っている鬼怒川ロードで風を読み違えるロードマンは数知れず、これは商売になる。しかも休車となりやすい日中の需要だ。
「ワシは断じてその手にゃ乗らんぞ、タクシーには乗らん。だいいちワシは携帯電話を持ってきておらんわい。ざまみろー」
こんな要らぬことを考えながらノロノロと進んでいると、前方から背に風を受けて快調に飛ばしてくるローダーがいる。
目が合うとニヤリとしやがる。
「オメさんアタマ使えや、ひゅっ ひゅー」
「こらあーっ! レールマン 止まれえー 戻って来ないと今度こそ破門にするぞおー」
まったく悪い男である、無風だとまるでノロくさいのに温かい南風を帆に受けるときだけ 「ひゅっ ひゅー」 とは腹がたつ。こいつの帆がまたデカイのだ、つまりデブなのだ。
「お師匠、ずいぶんへたれてるねえ。どこまで行ったの」
「おまえなあ 調子こいて走っていたが帰りはどうするつもりだったんじゃ。押して歩くのか? あんたならそのほうが速いだろうがな。
さあ レールマン ワシの前に立って風除けになれ、ワシを引け!」
「あららー ご機嫌悪いねえ、へたれの極致かね。しゃーない 引いてやるからついて来な。いいかい 飛ばすからねえ オメさん ちぎれるんじゃないよ」
レールマンを風除けにしてずいぶん楽になった。エネルギー枯渇寸前だったようだ。
それにしても彼の 「飛ばす」 は歩くより遅いからちぎれるどころか追突しないように気をつけるほうが大変だった。
それでも風除け効果が効いて、彼のトロッコ作業場に着いたころにはモチベだけは回復してきた。
モチベが回復すれば体力回復の具体策を実行せねばならない。
大型のストーブに火が盛んに燃えて、足先の血行が戻ったころレールマンの奥方が里芋の煮っ転がしと熱燗を載せた大きなお盆を運んできた。
作業場の隅に積んである稲わらの中からブチ色の弟子犬ブッチー君が芋をもらえるかと出て来た。彼はベジタリアンなのだ。
「この家には里芋しかないのかあー!」
いくら北海道勤務が長かったとはいえ、コロボックルの妖精じゃあるまいし毎日里芋でよく飽きないものだ。
「そう言うなよ、この作業場を建てるときこの場所は女房の里芋畑だったんだ。整地の際に掘り起こした芋は全部ぼくが食べる約束で許してもらった。
1トンも掘り起こしたんだぜ、外に置いたら霜げてしまうから中に入れて稲わらを掛けてあるんだ。ここで自転車トロッコを完成させるまでは、オメさんにもブッチーにも里芋を食べ続ける義務がある」
なるほどトロッコ台車が出来かかっていた。だが肝心の動力部分の遅れが見てとれる。
この遅れようならワシのフラットバー車が徴用されるのは先のことになりそうだ。
明日も今日のような風の吹き方なら朝から太陽の方向に走れるから温かいし風も背だ、フラットバーで出かけてみるのも悪くない。
ただし二日続けて同じ風になるとは限らない。人生と同じだ、うまくいかないことのほうが多い。
「今日はなあ お羽黒山の下の辺りで草もみじがキレイだったぞ、もうじき霜げてしまうんだろうなあ。あんたも一度見ておけ」
「お羽黒山の紅葉はどうだったの?」
「ああ 山か、山は見んだった」
「それって 猟師山を見ず、かね」
「ああ 船頭多くして船 山に登る、だ」
「おしぐれさん、意味わかんないよ」
「ああ 作家に聞いとくれ」
「オメさん ‥ 今日は相当な霜げモードだったようだねえ、そこのわらの上で寝たらどうだ」
「ああ 足首にひも巻いてなあ」
おわり
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