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なべログ

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「電車」について考える
2013/01/02

鉄道を愛好する者として、最近どうにも気に入らないことがひとつある。それは「列車」(あるいは「汽車」)と「電車」を同義語として扱う今の日本の風潮である。「気動車」まで「電車」と呼ばれたらかなわない。下手をすると蒸気機関車が牽引する列車まで「電車」と呼ぶ厚顔無恥な輩もいる始末でいつもうんざりする。
これは戦後の日本の鉄道が「電車列車」を中心に発達して来たことに起因しているのだが、その話は後述するとして、まずは単純な用語の確認から始めてみたいと思う。少々理屈っぽくなるが、しばらく我慢してお付合い願いたい。

英語の“train”は日本語では「列車」と訳すのが正しい。あるいは「汽車」である。「電車」は「列車」の一形態にすぎない。
閑話休題。筆者は以前、渋谷駅の山手線ホームで外国人に「新橋へ行きたいのだが…」と尋ねられたことがある。その時ホームに滑り込んで来た山手線内回り電車を指差して“this train”と言ったら物の見事に通じた。彼等にとっては「電車」も“train”なのだ。

鉄道列車の分類の仕方にはいくつかあるが、まずは動力が何であるかによって分けるのが一番わかり易い。そして、その動力を集中させているのか、分散させているのかという点を加味して行くとだいたいの様子が見えて来る。
1 一番古い鉄道列車形態は、ご存知の通り、動力に蒸気機関を使った「蒸気機関車」(SL)が無動力の客車や貨車をひっぱる、いわば「蒸気機関車(牽引)列車」だ。「汽車」という言い方もこれに起因している。つい最近(と言っても50年ほど前)まではわが国でも鉄道列車のほとんどがこの方式だった。
2 やがて動力に電気や内燃機関を使った「電気機関車」(EL)や「ディーゼル機関車」(DL)が登場しSLにとって代わるようになった。これを仮に「無煙機関車(牽引)列車」としておこう。今でも世界的に見ればこの方式が最も一般的だと言える。フランスのTGVも実は「電車」ではない。両端に電気機関車をすえて中間に無動力の客車をはさんだ「無煙機関車牽引式列車」だ。引くだけでなく押してもいるので「プッシュ&プル方式」などとも言う。
ここまで見てきたのは動力をある1か所に集中させて無動力の車両を牽引する列車だ。これを「動力集中型(列車)」と言う。
鉄道という乗物は鉄のレールと車輪の摩擦で走っている。しかし鉄どうしの摩擦力は非常に弱い。だから牽引する機関車は非常に重く造ってある。加速力は弱いが、いったん加速すると摩擦力が弱いがゆえに動力を切っても容易に停まらない。惰性でどんどん走って行く。ヨーロッパ大陸のように地盤が固くて真っ平らでまっすぐに線路が敷けるところでは、この方式が一番効率が良い。
ただし、重い機関車が走るので線路にかかる負担が大きいという欠点はあるが。
ロンドンの地下鉄も、初めは電車ではなく、蒸気機関車が牽引する列車であったことは意外に知られていない。
3 一方技術の進歩で客車に動力装置をつけて自走出来るものも開発されるようになった。動力源は主として電気だが、内燃機関を積んだものもつくられた。前者が「電(動式客)車」(EC)であり後者が「気動(式客)車」(DC)だ。

ここからは首題の電車について述べてみたいと思う。
本来電車は鉄道馬車の代替物として生まれた、都市の近距離交通機関としての役割を果たす乗物であった。初期の電車は両端に運転台を持った単車で多数連結して走ることが出来なかった。集電はトロリーポールという棒の先にある滑車を架線に引っ掛けて行うものであった。当然ながらスピードも遅かった。いわゆる「路面電車」である。日本の電車の嚆矢は京都電気鉄道(後の京都市電)でこのあとに名古屋電気鉄道(後の名古屋市電)、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)と続くが、いずれも路面電車であった。
日本で本格的に列車線路上に電車を走らせたのは甲武鉄道(現在の中央線の一部)で飯田町ー中野間を明治37年(1904年)に複線で電化している。その後御茶ノ水まで延伸、さらに万世橋まで延伸工事中の明治39年(1906年)に国有化されてこれが「国電」の元祖となった。現在の中央線電車である。
当時の車両は四輪単車(4輪の台車1台の上にボディーが載ったもの)でまだボギー車(車両の前後に4輪の台車を2つ配しその上にボディーが載ったもの、曲線での走行性能が良い。今日では当たり前の方式。)ではなかったがすでに総括制御(複数の車両を連結し1運転台でまとめて制御する方式)の装置が装備されていたという。
続いて山手線・京浜線・横須賀線・総武線・常磐線と東京近郊では短距離列車の電車化が進んで行く。集電方式はトロリーポールからパンタグラフに変わりより高速向きになる。ボギー台車や総括制御も当たり前のこととなった。車両も大型化し編成も長くなって行く。
大正14年(1925年)には山手線が環状運転を開始。昭和7年(1932年)には秋葉原駅が立体交差化・総武線が御茶ノ水延伸し中央線と直通・中央線が複々線化され急行運転を開始。ここでほぼ今日の都心の交通の原型が出来上がる。
山手線の外側に向かっては放射状に私鉄(京成・東武・武蔵野・旧西武・京王・小田急・東横・京浜等々)が次々に開通し、内側には東京市電が網の目のように走り回ることとなる。昭和2年(1927年)には東洋初の地下鉄が上野ー浅草間に開通している。
一方関西に目を転じてみると、「電車王国関西」と言われるように、国鉄線には急行電車(モハ52形の「流<線形>電<車>」が有名)が走り、私鉄も南海・阪神・京阪・阪急・近鉄の大手5社が出揃いスピードを競い合うというようになっていた。
と、簡単に述べて来てしまったが、ここまでが大まかな戦前までの日本の電車をめぐる状況だ。

当時の電車はあくまでも近距離専用の交通機関であった。乗心地が悪くてとても長距離用の乗物には不向きだと思われていたのである。昔の電車をご存知の方ならわかるだろうが、「ゴー」というモーター音が異常に大きかった。それと振動である。起動時のブルブル感は最近の電車では味わいたくても味わえない。
これは「吊掛式駆動」であったからだ。台車のバネ下にモーターを吊り下げて直に車軸に動力を伝える方式であった。振動と騒音が大きいのはこれに起因している。また重いモーターが台車のバネの下に吊るされているのでその荷重が線路路盤に負担をかけるという欠点もあった。
国鉄内部でも「電車はあくまでも近距離列車用であって長距離列車には適さない。」というのが大方の意見であったという。しかし電車こそが日本の国土に最も適した鉄道車両であると考えていた技術者達も国鉄にはいた。その代表格が「新幹線の生みの親」といわれる島秀雄氏だった。氏は戦前ヨーロッパに留学した際にオランダで見た電車列車が常に頭の片隅にあったと語っている。
この章の初めで、ヨーロッパ大陸のような地盤が固くて真っ平らで勾配が少なく人口が密集しておらずまっすぐ線路が敷けるところであれば、重い機関車で客車を牽引しながら力任せに走るのが最も効率が良い、と述べた。
しかし日本は地盤が悪い。山が海に迫ったような地形が多く平らな場所には人口が密集している。鉄道を敷設する場合なるべくそれを避けようとすると必然的に勾配や曲線が多くなる。思い切り走行することは難しく常に速度を小まめに調整してやる必要がある。また都市部では鉄道用地の取得もままならない。
電車列車であれば各車両に動力を分散してやることが出来るから車両ごとの重量は軽くなり重い機関車のように線路を痛めることが少い。軟弱な地盤に敷かれた線路でもメンテナンスが簡易になる。また各車両にモーターが分散していることによって速度の制御がし易い上に高加速高減速が可能だ。終端駅で機関車を付替えする必要がなくそのまま折返し運転が出来るから入替の為のスペースも要らない。言うまでもなく電力で走るからエネルギー効率が良く経済的である。
同じヨーロッパでも先に述べたオランダのように海を干拓した土地が多く地盤が脆弱だったり、スイスのように山岳地帯で勾配や曲線の多い国土を持つ国では電車が発達した。島秀雄氏が見た電車列車は氏にとって大きなインスピレーションの源泉になったと思われる。

戦争で痛めつけられた日本の鉄道も敗戦後の昭和20年代の中頃になるとようやく復旧し、社会の安定と共に今度は新たな旅客需要への対応を迫られることになる。
特に東海道線の東京口のダイヤの過密さは尋常ではなかった。殊に熱海方面への中距離列車(湘南熱海列車)への需要が高い。そこで登場したのがこの中距離の機関車牽引列車を電車列車に置換えるというアイディアであった。
機関車牽引列車は終端駅で機関車を反対側へ付替えるという面倒な作業があった。これには労力と時間がかかる。特に東京駅のように発着列車の多い駅では、限られた時間に効率良くこれをやるのは至難の業であった。電車ならただ折返すだけで良い。戦前から横須賀線という比較的長い路線で電車を走らせていたという実績もある。うまいことに東京ー沼津間はすでに電化されていた。
話はそれるが、戦前は「発電所が爆撃されたら鉄道が麻痺してしまう。」(実際には発電所への爆撃はほとんどなかった。苦笑。)という軍部の反対で、東海道本線の電化は大都市圏に限られていて東京口は東京ー沼津間のみであった。戦時中に計画された「東海道新幹線(通称弾丸列車)」も同様の理由から電化は沼津までであとは蒸気機関車による牽引とされていた。

ここで登場するのがあの「湘南電車」である。昭和25年(1950年)のことであった。
あの島秀雄氏が中心になってモハ80形(系)という新型電車を開発した。20m級で最大16両編成までが可能という堂々たる姿の電車列車だった。それまでの電車と最も違った点は、両端にドアを配してデッキ部分とし、客室と分離したことであった。座席もロングシートではなく向い合せ式のクロスシートとした。当然便所も設置されていた。要は、それまでの客車をそのまま電車化した仕様である。
そしてこの電車が最も注目された点はその塗色だった。それまで電車と言えばブドウ色(マルーン色)一色だったのが、この電車ではグリーンとオレンジのツートーンとなったのだ。沿線にミカン畑が多い地域を走るのでそれをイメージしたというのが俗説であるが、警戒色として適切な色を選んだ結果だというのが本当のところのようである。
また、運転台の正面の窓が角度をつけて突合せにした2枚ガラスで構成されていたという点もユニークであった。その上正面窓下の三角の塗り分けもまたユニークで「金太郎の腹掛け」などと呼ばれた。この「湘南スタイル」は様々な私鉄でも採用され一世を風靡した感があった。もっともこれは量産タイプから使用されたデザインで初期型ではガラス4枚に分割された平凡なデザインであった。筆者が子供の頃買ってもらった湘南電車のおもちゃがこの初期型のスタイルでがっかりしたのを今でも憶えている。
好評をもって迎えられた湘南電車であったがパイオニアの常として初期故障も多かった。マスコミからは「遭難電車」などと揶揄されたという。かつて東海道新幹線に300系がデビューした時も同じような光景を見た。何にもわかっちゃいない無責任な連中(イヌイチケーが急先鋒だった。)が300系電車をこき下ろすのを見て、「遭難電車」の事を思い出した。新しい発想とか技術というのはいつの時代も生みの苦しみを伴うものなのだなと感じたことを今でも憶えている。
横須賀線には80形を3ドアにしたような70形電車が登場した。こちらもツートンカラーだったがブルーとクリームの塗り分けであった。デッキ式ではなく客室に直接ドアの付いたいわゆる「中電」中距離型電車であった。
駆動方式を除けば、80形は以後の準急・急行型電車の、70形は中距離型電車の基本形であると言って良いだろう。
「駆動方式を除けば」と書いたのは他でもない。80形も70形も、まだ先に述べた「吊掛駆動式」を使用していたからだ。新機軸を採り入れた新型電車ではあったが駆動方式だけは従来の電車のままだったのだ。
当時「吊掛駆動式」に代わるものとして台頭して来たのが「カルダン駆動式」であった。これは吊掛式のようにモーターを台車のバネ下に吊るして車軸を直接駆動すのではなく、バネ上に設置して「自在継手」(ジャバラ状の継手)を介して回転運動を車軸に伝える駆動方式である。吊掛式に比べて音が静かで路盤にかかる荷重も少なくて済むという長所があった。又モーターを車軸に対して平行に置く必要はなく直角に設置することも可能だった。

こら!!
2012/11/21

せっかく専用ページを差し上げたのだから
もっと書け〜

東京の鉄道を楽しむ 1
2012/10/19

東京は、おそらく世界一の鉄道都市だろう。
私は、JR田町駅の山手線外回りと京浜東北線南行のホームの一番品川方の端に立ってボーっと行き交う列車を眺めるのが好きである。
山側(内陸側)から1.京浜東北線北行2.山手線内回り3.山手線外回り4.京浜東北線南行5.東海道線上り6.東海道線下り7.東海道新幹線上り8.東海道新幹線下りと都合4複線都合8本のレールが並んでいる。
1.〜4.には20m級の通勤電車が10〜11両編成で約3分おきにやって来る。
5.と6.には20m級の東海道線の中距離電車が15両編成で5〜10分おきにやって来る。
7.8.には東海新幹線の25m級電車が16両編成で約3分おきにやって来る。
さらに、目には見えないが新幹線の海側の道路下には横須賀線の地下線が複線で通っている。こちらも20m級中距離電車の15両編成だ。
複線で電化された線路が5組並んで敷設されているだけなら世界的に見てももさして珍しい風景ではないだろう。(相当凄いことではあるが…)しかし、ほぼ満員に近い乗客を乗せた列車が、それも数分おきに絶え間なく走って来るというところが凄い。おそらくこんな都市は世界広しといえども東京だけだろう。この「フリークエントサービス」というのが東京の鉄道の大きな特徴であるといえる。
ここまではJR線に限っての話だったが、東京にはこの他に私鉄や地下鉄の線路が網の目のように張り巡らされている…というか必要に迫られて敷設されていて、「数分待てば電車がやって来る」というサービスが当り前に行われている。
やはり、東京は世界一の鉄道都市と言って良いのだろう。
 


東京のおもしろ建物探訪記 (3)
2008/2/8

▲▲▲ (3)煉瓦積高架橋 ▼▼▼

今回は、物ではなくて土木構造物の話です。
明治5年(1872年)

 JR山手線と京浜東北線の新橋−東京間は、日本で初めてつくられた鉄道高架橋の上を走っています。
正確に言いますと、浜松町−新橋間の源助町架道橋から東京−神田間の常盤橋架道橋までの内陸側の4線部分がこれに当たります。
明治○○年着工、△△年竣工。
 この高架橋の特徴は、架道橋部分(鉄骨)と東京駅部分(盛土)を除いて全てアーチ型の煉瓦造(煉瓦権)でつくられてれているという点です。
地盤が軟弱な東京に耐震性に乏しい煉瓦造は不向きであると言う考えから、鉄骨造を推す声が高かったと言います。鉄筋コンクリート造(RC造)の技術はまだ今日の様に確立されておらず未知数だった時代のことですから、当然の意見と言えましょう。
 しかし敢えて煉瓦造を選択したのには、背に腹を代えられない事情がありました。明治30年代の日本の工業力では、鉄骨材料は全て輸入に頼るしかなく、煉瓦のみが国産品で賄えるという状況で、予算の節約と殖産興業の見地からこれを採用することに決ったようです。
 ご存知の通り、江戸〜東京の町は海を埋め立てた軟弱な地盤の上に成り立っています。ここに煉瓦積の重量物が載るわけですから当然基礎工事には念を入れざるを得ません。今日同様沢山の杭が打たれました。ただし今日のようなコンクリートのパイルなど無い時代のこと、松の杭が使用されました。

 材料になる煉瓦は優良品のみを使用し、全ていったんブラシによる水洗いをした後、熟練工によってていねいに施工されました。施工品質を落とさない為に一日の作業量も厳しく制限されたと言われています。折しも、維新以降出稼ぎ外国人技士の指導によって培われてきた日本の技術力もようやく花開こうとした時期であり、設計を除く実際の施工と管理は、すべて日本人の手によって行われました。

東京のおもしろ建物探訪記 (2)
2008/2/7

▲▲▲ (2)南青山P社ビル ▼▼▼

 東京メトロ表参道駅下、表参道交差点から南青山4丁目交差点(根津美術館前)方面へ徒歩で約5分右手。
この建物を初めて見た時は、話に聞いてはいたものの、思わず腰が抜けました。
鉄骨造の建物には違いないのですが、お馴染みの柱や梁といった構造物が一切使われていないのです。
建物の外側一面に菱形のガラスが貼られていて、その中に2階の床が浮かんでいる状態…と言えばお分かり頂けるでしょうか?
えっ!これでこの建物本当に大丈夫なの?というのがまず最初に考えたこと。
でも、目の前でこの建物は厳然と建っていて、建っているからには何か仕掛けがあるに違いない、というのが次に考えたこと。

 ばい・ざ・うえい、鉄骨建築の構造のひとつに「ラーメン構造」(味噌味やしょうゆ味はありません。)というのがありまして、日本の鉄骨造の建物の多くがこの構造で建てられています。柱と梁という骨格(躯体といいます。)があって、そこに皮を披せるが如く外壁が貼られ、床や屋根が乗っているという構造です。
 この「ラーメン君」は、地震等外部からの力に追随して動くことによって力を減免する、いわば「柳に風」式の方式で、日本の様な地震国には打ってつけの構造なのだそうです。(柔構造)
 その後インターネット等で調べたところによると、P社のビルはラーメン君とはまるで反対の考え方で建てられている事がわかりました。三角形状に鋼材を組合わせて外力に対する強度を得る「トラス」という構造
で建てられているのだそうです。先に「菱形のガラス」云々の話をしましたが、三角形が2つ合わされば菱形になりますので、ここにガラスを収めたというワケです。

 さて、この「トラス君」は、先の「ラーメン君」と違って外部からの力に対して敢然と立向かうという考え方で、地震等の力の影響をもろに受ける為、本来日本のような国土には不向きなのだそうです。(剛構造)
そこで、Pビルでは、建物の下に免震装置を設置することによってこの問題をクリアーしたのだそうです。

 Pビルは、前面ガラス張りなのですが、平面や凸面のガラスを適度に組合わせている為、光が上手く乱反射して非常に美しい仕上がりとなっています。夜間もライトアップされてとてもきれいだそうです。

 青山から原宿にかけては、ファッション関係のビルが多く、Pビル以外にも腰の抜ける建物が沢山ありますので、出かけられる機会のある方は一度ご覧になってみては如何でしょうか?

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