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日暮れの徒然日誌

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仏も昔は凡夫なり・・・・@・・・・
2011/02/11

戦後文壇の巨匠と言われる司馬遼太郎に対して、浅学菲才の我が身と天と地の差を余りにも感じ、さすが司馬は 上手い言葉 を考えられるものだと感心・感心し、下記の言葉が書かれた『扇子』の額装を持っている。
      
     仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり
          いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

大変気に入っており、贋作だと信じたくないが贋作だろう・・・・・有名人の色紙サインも含めて、書の世界も贋作が一杯出回っているからだ。

どうでも良い前置きはこの程度にして本題に入る。
この言葉の一つの解釈は下術だとされており、私も文面・字面だけで同様な解釈をしていた。
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『仏も昔は人間だった,私もいずれは死して仏になる。
(当時の人々は,仏教を信じていれば死んだ後、仏として天国で生きられると考えていたそうだ.)
どちらにも仏性(仏になるために必要な正しい心)があるはずなのにそれを区別するのは悲しいことだ。』
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この扇子は、私はてっきり司馬が講演会の後か、または出版社の出版感謝記念接待で京都か、何処かの料亭で芸子か仲居etcに頼まれて、その場で咄嗟に揮毫したものでは無いかと勝手に想像していた。ところが所有してからどの程度だったかは忘れたが、この言葉は 司馬の言葉では無い ということが分かった。
これは有名な『平家物語』の中で出て来るものだそうだ。
内容は 他の人が記述されておる立派なものから 引用させていただく。 http://www.genkikyoto.com/rekishikankou/kuwashii/giou/giou.htm
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時は平家全盛の時代。祇王は近江野洲江辺庄の白拍子であった。
父は近江の庄司(荘官)だったが罪を被り北陸に流されていた。その為一家は母子家庭となり、祇王は妹の祇女(ぎにょ)、母の刀自(とじ)とともに京都に出てきた。祇王の美しさは評判となり、やがて清盛の寵愛を一身に集めることとなり、親子は安穏に暮らすことができた。

ある時、加賀の国は小松市原町出身の仏(ほとけ)御前と称する白拍子が、自分を売り込みに清盛の下を訪れた。しかし、時の権力者、清盛は仏御前を門前払いにする。これを見かねた祇王が取りなし、仏御前は得意の今様を披露することができた。三度繰り返し歌い終わると、見聞きしていた人々はその巧さに驚いた。次に舞を舞わせるとこれもまた思いもよらぬほど素晴らしい舞であった。清盛はたいそう仏御前を気に入り、仏御前に心を移してしまった。

祇王の座を奪うという意図のない仏御前は辞退するが、清盛は「祇王があるを憚(かばか)るか。その儀ならば祇王をこそ出(いだ)さめ」と祇王を追放してしまう。

祇王は我が家に帰り、障子の内に倒れ伏してはただ泣き暮れるばかりであった。さらに翌春、清盛は「仏御前が退屈そうに見えるから、こちらへ参って今様を歌い、舞を舞って仏御前を慰めろ」と祇王に言ってきた。
 祇王は落つる涙を抑えつつ・・・

         仏も昔は凡夫なり われらも終(つい)には仏なり
              いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ 

と舞い踊り、居並ぶ諸臣の涙を誘った。祇王はあまりの屈辱に死を決意するが、妹も母も一緒に死ぬという。これは五逆罪(仏教で言う五種の重い罪、母殺しはその一つ)に当たるため自害はとどまった。

翌年の秋風が吹く頃、親子三人で念仏を唱えているところに、竹の編戸を叩く音がした。仏御前である。祇王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、「娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何になりましょう。人の身に生まれる事は容易ではなく、その上、仏門に入ることもますます困難です。

老少不定のさかいであれば、年の若きを頼りにもできません。蜻蛉や稲妻よりも更にはかなく、一時の楽しみに誇り、後生を知らぬことの悲しさに、今朝、邸を忍び出てこのようになりました」と言って、かぶっていた衣を払いのけるのを見ると、仏御前は尼になって来ていたのだった。

 この後、祇王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、「四人一所にこもりいて、朝夕仏前に花香を供へ、余念なく願ひければ、遅速こそありけれ、四人尼ども、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、祇王・祇女・仏・刀自らが尊霊と、四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。みな往生の本懐を遂げた」のだった。

この嵯峨の山里こそが現在の 祇王寺(尼寺)なのだ。
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『平家物語』そのものの世界のような気がする。
      『祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
          驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・・・・・・・・・・・・・』
という言葉を知っているのみだが。

平家物語の様な高尚なものは読んでいない我が身にとって、この『仏も昔は凡夫なり・・・・』という 言葉が気に入ってしまった理由が分かった次第である。
古い日本の詩にはこういう例が多いとのことで,同じ読みをする言葉(仏と仏御前)を使って、一つの詩に二つの意味をこめることがよくあるそうだ。
実際には両方の意味を混ぜ合わせた意味が伝えたいことのことである。

有名な観光寺に対し 嵯峨野の小さい寺院は 私にとって京都では一番好きな観光スポットであり、祇王寺には何回も行った。
30年以上前だが、京都にはめずらしく雪が相当降った早朝、祇王寺に行ったことがあった。
2月であったことということも関係があり、観光客はほとんどおらず、絶好のシャッターチャンスとばかりだとして、数人のカメラマンのみがいた。

    仏も昔は凡夫なり われらも終(つい)には仏なり・・・・・・・・         

という謂われを持ち合わせたていたら、もっと祇王寺に愛着を生んだろうし、祇王寺に対する解釈も深まっただろうが、その時には何も知らなかったのだ。

ただ ひなびた嵯峨野 の風景・佇まいが好きだったというだけで行ったのである。
・・・・・・無知とは恥ずかしい限りでもあるし、味わいを深く出来ないことでもあり、もったないことだと痛感した次第だ。

贋作と承知しながらも、司馬が教えてくれたことに感謝しながら、この額が気に入り、自己満足・自己陶酔?して眺めている次第である。

祇王寺HP:http://www.giouji.or.jp/acc/index.html

車窓から  特急列車通過駅
2011/02/03

車窓からの 感傷シリーズ:第2弾 を述べることにする。
前回は昼間、白一面の車窓から見た風景について記したが、今回は夜間、列車から外を見ていても自分の顔のみガラス窓に映る光景で感じたことを記したい。

特急列車に乗っていると、目的地迄に停車する駅はほとんど無く、通過する駅がほとんどである。
特急列車が停車しない駅はほぼ過疎地と言われるが、だが、それぞれの方がそれぞれの生活をしている現実がある。
特に特急列車の停車しない 中山間地の駅舎 は昔通りの建物で、プラットホームには屋根が無く、駅舎周辺だけが屋根が有り、特急列車の乗降客が少ない地域である。
日が暮れてプラットホームの電灯だけが目立つ駅を通過する時、駅舎の風景は寂しい。
多分、駅舎は古い木造のままであり、待合室には数個の古いベンチが有り、駅員のいない無人駅もあるだろうし、駅舎を出ても商店街は無く家路にたどりつく迄、街灯もわずかしか無いだろう。

こういう光景を見ていると、大げさ、大げさ過ぎる飛躍になってしまうが、下記の唄を想いだした。

さだまさし 作詩作曲 空蝉 http://www.youtube.com/watch?v=gsz4xx0-WuE&feature=related

さだ 26才の時に創作したものである。
26才の青年が、何故この様な唄を創作出来る 才能の凄さ が、何処から生まれて来るのか感心せざるを得ない。
この詩は難解な語彙は 空蝉(うつせみ)だけで、他の語彙は日常使用されているものであるから表面的には理解出来る。
だが、詩の持つ世界はとてつもなく広く深い。

まず、歌詩を紹介する。
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空蝉 作詩作曲 さだ まさし

    名も知らぬ駅の待合室で
    僕の前には年老いた夫婦
    足元に力無く寝そべった
    仔犬だけを現世の道連れに
    小さな肩寄せ合って
    古新聞からおむすび
    灰の中の埋火おこすように
    頼りない互いのぬくもり抱いて
    昔ずっと昔熱い恋があって
    守り通したふたり

    いくつもの物語を過ごして
    生きて来た今日迄歩いて来た
    二人はやがて来るはずの汽車を
    息を凝らしじっと待ちつづけている
    都会へ行った息子がもう
    迎えに来るはずだから
    けれど急行が駆け抜けたあと
    すまなそうに駅員がこう告げる

    もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません
    今日の予定は終わりました

    もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません
    今日の予定は終わりました
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この詩をどう解釈するかは 空蝉 という語彙をどう解釈するかだと思う。
さだは何故 空蝉 という難解なタイトルをつけたのだろうか・・・・ここが解釈の鍵になると思う。

■解釈1・・・・難解な解釈
うつせみのもともとの意味は、「この世に生きる人間」。あるいは「この世」、「現世」を指していたのだが、「空蝉」の当て字を使い始めてからは、「蝉の抜け殻」あるいは「抜け殻のような虚ろな状態」をも意味するようになったそうだ。

「僕の前には年老いた夫婦」は、この物語の一人称「僕」が出てくるが、後にも先にもこの一箇所にしか出てこない。
「僕」とは誰で、終電が行ってしまうような時間に、いったいここで何をしているのだろう。「僕」とは、通りすがりの旅人だと解釈に陥りやすいが、それは違う。「僕」は現世の人間ではないのである。
この「僕」こそが、後にでてくる「都会へ行った息子」なのだ。つまり、息子は既に死んでいて、そこで老夫婦を見ているのは彼岸からである。

この息子は、都会に出て行く時又は都会に出た後に、両親と約束したのだろう。「将来きっと迎えに来るからと」
息子の帰りを指折り数えていた両親は、待ち続け、待ち続け、ついに駅で待つことにしたのだ。多分、息子は「近々迎えに行くぞ」と連絡したが、その後、不慮の事故あるいは突然の病気により他界してしまったのであろう。そういう事情も知らずに、いつ来るかわからない息子を迎えに、毎日駅へと足を運ぶ老夫婦。なんと見るに忍びない情景だ。
しかし、息子は都会に空蝉(亡霊)を残し、実はその場に来ている。だが、老夫婦の前には決して見えないのである。そのことを唯一知っている息子は、そんな両親に自分がここにいることをどれだけ伝えたいことだろうか。しかし自分が現世にいないことが分かれば両親は間違いなく自分の後を追ってくるだろう。そのことも分かっているがゆえの歯がゆさ、無念さ、絶望感が、この作品を一層、寂しくもあり哀しくもあるもにさせている。

     足元に力無く寝そべった
     仔犬だけを現世(うつせみ)の道連れに

ここの部分ではタイトルの「空蝉」という漢字を「現世」と置き換えている。つまり、ここでの「うつせみ」は現世を表す意味に限定しているのである。そして「仔犬だけを道連れに」の、人間でなく動物であること、そして「だけ」という言葉が、この老夫婦の現世でのきわめて孤独な状態を強調している。

「灰の中の埋火おこすように 頼りない互いのぬくもり抱いて 昔ずっと昔熱い恋があって 守り通したふたり」 
現在の絆の強さの所以は、ずっと二人で歩いてきたという運命共同体のような感情もあるが、なによりも、孤独感の共有から来ているのではないだろうか。この世の中での自分達夫婦を気づかってくれるのは息子以外に誰もおらず、強いて言えば仔犬ぐらいだという孤独感を表現している。

「都会へ行った息子がもう迎えに来るはずだから・・・」 
もう現世での楽しみは、息子が迎えに来てくれることだけなのだ。そのささやかな楽しみすらも半分奪われかけた老夫婦は、「現人(うつせみ=この世に住む人間)」でありながら、心にぽっかりと穴があき魂を奪われた虚ろな状態である「空蝉(うつせみ)」となって、ひたすら息を凝らして息子を待ち続けている。

「もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません 今日の予定は終わりました」 
息子を待つことだけが生きるための原動力となっている孤独な老夫婦。駅員はとても彼らを絶望の渕に突き落とすようなことなどできない。
その気持ちが「とりあえず今日は来ません」と、つまりは暗に「明日は来るかもしれない」と言わしめたのである。


■解釈2・・・・空蝉というタイトルを意識しない解釈
都会へ行った息子を、駅舎に毎日通いながら待ちつづける老夫婦の光景だ。
若者が都会へ出ていってしまい、老人だけが取り残されるようになったという地方の現実は、日本全国では多数発生している。
寄りどころとしている息子がいつか迎えに来てくれると信じ、毎日駅に通っているのだ。
そんな情景は、空蝉というタイトルを考えなければ単純に想い浮かばれる。
息子が必ず迎えに来てくれると信じ、毎日毎日、古新聞におむすびをくるみ持参して、一日中駅で待つ老夫婦。
駅員は息子が迎えに来ないことは十分承知しているから、最後の汽車が過ぎたあと

      とりあえず今日は来ません
         今日の予定は終わりました
      とりあえず今日は来ません
         今日の予定は終わりました

と駅員は、この老夫婦に対し絶対来ないとは言わず、明日は来るかも知れないという淡い期待を抱かせながら、老夫婦に声をかけ今夜も見送るざるを得ない。
毎日、老夫婦を見守っている駅員の、優しくもあり、こういう言葉でしか語りかけることが出来ないという現実・・・・・誠に巧みな言い表し方だ。

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現役を引退し年齢を重ねていくと、『生老病死』において『老病死』を身近に感じるようになるから、凡人でもこの老夫婦の光景・心象も分からなくもない。
但し26才の青年が、残り人生わずかな老夫婦の過酷でも有り、哀しい現実の心象風景を、何故書けるのか、才能の凄さに驚嘆させられる。

現実問題として駅舎には行かないが、遠方に住んでいる子供達に会いたいという老夫婦は、日本全体では多いだろうと想像する。
特に、特急列車の通過する過疎地帯の残された老夫婦にとっては。

特急列車に乗り夜間、通過駅を車窓から何気なく見ていて、こういう唄が有ったという記憶を頼りに若干感傷に浸ったので記した次第である。
それに加え年齢を重ねるばかりで、人生経験が追いついていない我が身を痛感した次第である。

注)一般的には作詞は 詞 という漢字を使用するが、さだは全ての曲に 作詩 として 詩 を使用する拘りを持っている為、本文では作詩とした。
推測になるが、さだは作詞家として書いているのではなく、詩人として詩を創作しているのだという自負心・意気込みからだと思うが。

車窓から  案山子
2011/01/27

諏訪盆地には今年は雪は無いが、どうしても雪の多い地域へ行かざるを得ない用件があり、列車で行って来た。
列車の車窓からいろいろな風景を眺めるのは好みのほうである。
民家の構造・田園風景・山々に植えられている落葉樹(広葉樹)・針葉樹の種類etcを見ていると、その地域の生活風景が若干だが分かる。
針葉樹の杉林を見ていると、戦後、国策により植樹され、その結果花粉症に悩まされている人達や、針葉樹は落葉樹(広葉樹)に比べ根の張りが少ない為、大雨による土石流の多発を連想したりもした。

針葉樹手入れの経済性効果は採算性が合わない為、今後も放置され、大雨による災害は更に多発するだろう。

今回行った場所の途中は、所謂、中山間地が特にに多い所である。中山間地といえども、古民家は少なく、日本の何処でも見られるプレハブの住宅に置き換わっている。日本列島は今後、プレハブ住宅に置き換わっていくのだろうと実感した。
経済効率性の観点から言えば、日本古来の住宅工法は無くなり、プレハブ住宅化するという流れは止められないだろうとも思う。

平野の田んぼは雪に覆われ白一色(綿菓子に染め抜いた)の風景であったし、遠くにみえる棚田もまだ耕作されておるらしく、棚田の美しい風景を残していた。
棚田は、地元の保存活動に熱意ある人と、都会の棚田に興味のある人達により、多分維持保存されておるのだろう。
観光資源としての棚田は意味はあるが、農業経済効率性としての棚田はほとんど意味が無く、今後維持保全が困難になり自然消滅する運命だろう?


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白一面の景色の中に、一体だけだがポツンと取り残された案山子があった。
案山子と言えば、この唄が思い出される。
    http://www.youtube.com/watch?v=9AcXLZsdZZc

この唄に対しそれぞれの方がコメントを寄せられている。学生時代、始めて故郷を離れ一人生活を送った時の思い出として、子からの親に対する感謝の心情である。
故郷に残してある年老いた親を心配する現在の社会情勢を反映したものもある。


余談に入る。
1.作詞作曲者でシンガーのこの人は、12才の中学1年生時から、長崎より一人で出て東京で自炊生活をした。
当時、東京と長崎は急行“雲仙”で23時間58分を要したそうである。
中学生の少年が一人で帰省する際、この風景をみて自分自身が都会の案山子(擬人称表現としてさすが上手い)だと感じた原体験が、この唄の創作原点につながったのでは無いかと思うのだが?
当時の日本にとって、九州から東京、北海道から東京へ行くというのは相当の覚悟を要したのは想像出来る。

2.集団就職した親と子の心情
当時以前〜当時は、集団就職で東北etcから東京へ中卒の方が就職した時代である。高校・大学に進学させることが出来なかった家庭が多数存在した時代である。
こういう経験をされた方にとっては、この唄は 甘ちょるい と非難されるだろう。

現在は高卒では就職が困難な為、駆け込み寺として大学へ行くという、当時の状況とは想像を絶する状況変化になっているが。

本題に戻る。
私は15才で故郷を離れ某学校で寮生活学んだ経験がある。その為、自分の息子や娘が地元の高校を終え都会の大学で学んだが、この案山子の唄の様な感傷に浸ったことは無い。
但し私の場合、母子家庭で貧しい家庭であった為、当時の母の心境はまさにこの様なものじゃなかったのかと、この取り残された案山子を見てしばし、50年弱前の遠い記憶を呼び戻し感傷に浸った次第である。

家人は今でも、都会で働いている娘のことをなんやかんやで心配しており、たまに電話があると喜んでいる。だが娘はこの唄の世界とは全く無関係で、都会の生活を謳歌していて、母親の心情は分からないらしい・・・こういうのもある意味で困ったもんだと実感している。

諏訪盆地は東京と2時間余で移動出来る場所だから、東京の大学に入学しても、又は就職してもそれ程心配に成らないが、現況下の経済環境を観れば遠地に就職した息子・娘に対しては同じ気持ちだというのが現実だろう。

九州や北海道の人達にとって東京に出た息子・娘に対しては、まだこの唄に唄われている感傷・想いはあるのだろうし、逆に東京から九州や北海道に行った場合も同じ想いだろう。

更に現実の課題を述べる。
現在の若者の正社員率は2/3で残りの方は、非正規社員で派遣・契約社員・フリーターであると言われている。
この様な環境に於かれたお子さんのご両親は、遠地で働いているお子さんの未来を案じ、さぞかし心配しておられるだろう。
・・・・・・綿菓子に染められた田んぼに残された 案山子 になっておらねばよいかと・・・・・・

車窓から白一面の景色の中に取り残された案山子を見る機会がたまたまあり、若干の感傷に浸りながら記した次第である。

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案山子

作詩作曲 さだ まさし

 元気でいるか 街には慣れたか
 友達できたか
 寂しかないか お金はあるか
 今度いつ帰る

城跡から見下ろせば 蒼く細い河
橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突
この街を綿菓子に 染め抜いた雪が
消えればお前が ここから出て
初めての春

  手紙が無理なら 電話でもいい
  金頼むの 一言でもいい
  お前の笑顔を 待ちわびる
  お袋に聴かせてやってくれ

  元気でいるか 街には慣れたか
  友達できたか
  寂しかないか お金はあるか
  今度いつ帰る

山の麓煙はいて 列車が走る
木枯しが雑木林を 転げ落ちてくる
銀色の毛布つけた 田圃にぽつり
置き去られて 雪をかぶった
案山子がひとり

お前も都会の 雪景色の中で
ちょうどあの案山子の様に
寂しい思い してはいないか
体をこわしてはいないか

  手紙が無理なら 電話でもいい
  金頼むの 一言でもいい
  お前の笑顔を 待ちわびる
  お袋に聴かせてやってくれ

  元気でいるか 街には慣れたか
  友達できたか
  寂しかないか お金はあるか
  今度いつ帰る
  寂しかないか お金はあるか
  今度いつ帰る

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世界遺産白川郷の雪景色
合掌作りの古民家に一度は
一泊して見たいのが夢である。

小平雪人〜尖石遺跡〜宮坂英弌〜縄文のビーナス
2011/01/23

福沢諭吉の先祖地を茅野市福沢地区と最初に唱えた人物は、小平雪人であると前回記述した。そこで、雪人の功績はいくつもあるが、その中で重要と思われること:尖石遺跡との関係を今回取り上げることにする。

尖石遺跡を代表する諏訪盆地からは、多くの縄文遺跡が発掘されており諏訪盆地は縄文王国とも言ってよいと思う。特に、尖石遺跡は縄文時代遺跡としては日本で最初に本格的に発掘され、国の特別遺跡に昭和27年に日本で最初に指定されており全国的に有名である。縄文時代としての特別史跡は日本で3箇所である。
また、日本最古の国宝である『縄文のビーナス』が昭和61年に棚畑遺跡より発掘され、茅野市の縄文時代は更に世界的に有名になった。
『縄文のビーナス』は昨年、イギリスの大英博物館へ貸し出され、一番中央に展示され世界から注目をあびた。『縄文のビーナス』造形美の美しさに対しては、日本人はもとより、世界の誰もが圧倒されるとのことだ。

前置きはこの程度にして本文に入る。
尖石遺跡発掘調査の功労者としては、茅野市で唯一人名誉市民として昭和42年に授与された『宮坂英弌』である。
宮坂英弌の考古学としての功績は、多数の竈(かまど)が一箇所に集中して発掘されたことにより『縄文集落論』を実証したことである。
小学校の教師であった宮坂英弌が、何故あれほど迄に生涯をかけて、尖石遺跡発掘調査をしたきっかけを作ったのは何であったのか、知りたいところである。

伏見宮博英殿下が宮坂英弌尖石発掘のきっかけを作ったということは、尖石博物館で毎年開催されるシンポジュムで聞いていたが、詳細は知らされていなかった。
小平雪人を調査して行った結果、この詳細が明らかになったのでその経緯を紹介する。
引用文献:小平雪人 小平鼎編 甲陽書房
     『伏見宮博英殿下御台臨の龍谷文庫』の章の中で記述されており、要約は下記の通りである。
     原文は『郷土』第4巻第34号に掲載されたものである。
注)龍谷文庫は雪人の兄:小平治の遺品を集めた記念館であった。
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昭和3年の冬に東京高島屋で『石器時代文化展覧会』が開催され各都道府県に対し、日本一国一人の所蔵品を出品するように要請があった。
雪人は長野県の代表として選ばれ、兄:小平治(兄は既に死亡)が収集、発掘した土器・土偶を出品した。
この土器・土偶は非常に卓越したものであると専門家の間で評判になり、伏見宮博英殿下も貴重であるとお認めになりその上、この土器・土偶の遺跡調査研究は大変有意義だとお認めになった。

翌年、昭和4年7月になり伏見宮博英殿下が現地見学・発掘の為、諏訪地域へ7/16〜25の10日間に渡る訪問があった。
伏見宮博英殿下御来諏の案内役責任者が 雪人 であった。
伏見宮博英殿下の諏訪地域での遺跡調査概略日程は下記の通りである(遺跡名省略)。
 7/16:上諏訪駅着
 7/17:川岸村、平野村、他
 7/18:長地村、下諏訪町
 7/19:四賀村、中洲村、湖南村、永明村、宮川村、玉川村
 7/20:北山村
 7/21:落合村、本郷村
 7/22:米沢村
 7/23:湖東村
 7/24:豊平村。尖石遺跡発掘調査。伏見宮殿下は土器数百点発掘(村人が事前に予備発掘実施)
 7/25:帰京
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この伏見屋博英殿下、来諏に際し案内役責任者:雪人が、宮坂英弌を同伴する様に要請したのである。
もしもだが、雪人が宮坂英弌に対し、同伴を要請しなかったら、宮坂英弌は 昭和5年 から尖石遺跡本格的発掘をしなかったかもしれない?

私論になるが、尖石遺跡の重要性を見抜いたのが雪人兄弟であり、宮坂英弌は、執念で尖石遺跡の重要性を寝食忘れ、深化・発展させた日本縄文文化研究先駆者であり、縄文集落論を実証した偉大な人物と言えるだろう。

『小平小平治〜高島屋石器時代展覧会〜小平雪人〜伏見宮博英殿下来諏〜宮坂英弌:尖石遺跡本格発掘・縄文集落論実証〜縄文のビーナス』という軌跡を思う時、縁とは不思議なものだとつくづく思うのである。

縄文時代:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

尖石遺跡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E7%9F%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1 

尖石縄文考古館:http://www.city.chino.lg.jp/ctg/07050020/07050020.html

                                近辺から竈(かまど)が多数発掘され、縄文集落論を実証した。

福沢諭吉 先祖の地は信州何処・・・B・・・
2011/01/17

雪人が茅野市福沢を諭吉先祖の地に至った 説 について、まとめに入る。
雪人は 説 で無く茅野市福沢が先祖の地だと確信していたとも想定される。
雪人が諭吉先祖とした茅野市福沢について、雪人の 一次文献 が存在しないor見つかっていないor記述していない?為、豊平村誌etc他等、前述した文献等を参考にして雪人説について私論を述べる。

雪人の主張は下述だと想定される。
 現存する古文書に
1.福沢地区に『善徳屋敷』『太郎左エ門屋敷』という屋敷名が存在しているということ。
2.善徳屋敷・太郎左エ門屋敷の主(あるじ)は、天正十年木曽陣の戦いで武田軍に従軍したが、両人は福沢に戻らず。

この記述が原点になり、武田軍は織田・徳川軍に敗退したが、この両人はその後、松本城主:小笠原藩に仕かえ、小笠原藩が豊後中津藩に移封された際、中津に同行したと想定した。

3.諭吉の中津における家系図先祖は、兵助で号は 積善 となっている。
4.『善徳屋敷』と『積善』は 善 という文字を共有しているので、茅野市福沢が諭吉の先祖の地だと判定したものだと想定される。

雪人の主張は松本清張の推理小説と同様に、状況証拠はほぼ十分に揃っていると言えるが、説の域と言わざるを得ない。

前述したが中津、明蓮寺に現存する福沢家の墓石には、飯田姓と福沢姓の両姓が刻まれているという。
飯田姓は豊平村誌によれば、福沢地区に昭和29年に於いては4戸存在されていると記載されており、現在も飯田姓の方はおられる。『福沢姓』は存在していない。

明蓮寺にある墓石の飯田姓(太郎左エ門の系譜?)の存在は、茅野市福沢説の有力な根拠説になると思えるのだが・・・どうだろうか。

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茅野市福沢以外の説としては、更級郡村上村網掛福沢  現在の坂城町網掛福沢である。この村は清和源氏の系譜とされる村上氏が住んだ所で 福沢 を名乗ったとされる人が多いとされる。
この説の詳細は省略する。

長野県において福沢姓は、上伊那郡に多いとのことである。

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諭吉は明治29年11月6日〜11日迄、信州を訪問している。
だが、祖先の地については全く関心が無かったらしく、祖先探索・調査活動は一切していない。

私は、諭吉遺族が諭吉書籍を送った豊平小学校の出身である。
校長先生他、諭吉について一切聞いたことは無い。
地元の人も諭吉先祖について、話題にすることを聞いたことが無い。
諭吉人格形成に全く無関係であることや、地元茅野市福沢に特別なことをしたわけで無いし、仮に戦国時代に茅野市福沢出身の人物が明治になって諭吉先祖だと分かったところで何の意味も成さないということは、明らかだ。

雪人にとっては、諭吉が明治時代を代表する文化人であり、母校創立者だったということ、雪人誕生の地から福沢地区がすぐ近くの所だったということで、個人的な特別な思い入れがあったのだろう。

茅野市も旧豊平村も特別に関わっておらず、雪人説を紹介する程度にしておること自体が、諭吉先祖説の意味付けと考えてよく、結論と言える。

諭吉の思想について論じるなら意味はあるが、諭吉先祖があーだ・こーだと言ったところで、低迷・混迷・混沌・閉塞感・不透明etc日本にとってはほとんど無意味であり、今生きる者にとって現在〜今後どう生きていくかということが重要だという結論は間違いない。

追記
茅野市史は中学同級生の父上様が編纂委員になり、上巻・中巻・下巻の全3巻より構成され、8年の歳月をかけて著述されたものである。

参考文献
1.豊平村誌 豊平村誌編纂委員会 中央印刷 
2.茅野市史  茅野市 
3.小平雪人 小平 鼎編 甲陽書房
4.信州と福沢諭吉 丸山信 東京出版会
5.長野県名字 森岡浩 しなのき書房

福沢家系図                諭吉の育った家(中津)

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